102. クロ、うっかり皐月と名乗ってしまう
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【クロ視点】
サクラが会社へ行っている間に、俺はダンジョンへ向かうことにした。最近は、サクラのレベル上げも兼ねてダンジョンに潜ることが増えている。ただし、今回は黒狼の姿ではない。人型だ。以前、黒狼の姿でダンジョンへ行った時、ハンターにモンスター扱いされて襲われた。さすがに、同じ失敗はしない。悪魔も学習するのだ。たぶん。俺はバス停に立ち、やってきたバスへ乗り込んだ。久しぶりのバスだ。乗り方は、サクラを見て覚えていた。見ていて良かった。完全に忘れていたからな。座席に腰を下ろし、窓の外を見る。流れていく道路。店。家。信号。スマホを見ている人。どれも当たり前の景色なのに、俺には少し眩しく見える。いつも思う。本当に、帰ってきたんだな。千年以上を悪魔として過ごしても、こういう景色を見ると、人間だった頃の名残が胸の奥で動く。バスに揺られ、一時間弱。町並みは少しずつ田舎の景色へ変わっていった。
バスを降りて、少し歩く。俺の目指すダンジョンは、その先にあった。入口の周辺には、思ったより人が少ない。大きな都市部のダンジョンと違って、屋台や装備屋もほとんどない。代わりに、ダンジョンの情報が書かれた看板が立っていた。推奨レベル二十。確認済み階層、四十階層。中堅向け、といったところか。今の俺は、全力を出せない。影狼の器も、サクラへの負荷もある。だが、それでもこの程度なら、注意すれば潜れるはずだ。
「よし、潜ってみよう」
俺はそう呟き、ダンジョン入口へ向かった。その時だった。
「待ちなさい」
「うん?」
振り向くと、女性が立っていた。ハンターギルドの受付職員のような服装をしている。年齢は若い。だが、こちらを見る目はしっかりしていた。
「あなた…その格好で潜るの?」
「その格好?」
俺は自分の服を見る。普段着。武器なし。防具なし。ついでに、一人。なるほど。確かに、そんな奴がダンジョンに入ろうとしていたら怪しい。怪しいというか、自殺志願者に見えるかもしれない。
「一人で?」
「だ、大丈夫です。自分、そこそこ強いんで」
冗談でも嘘でもない。制限があっても、そこそこはいける。……と思う。だが、女性の目はさらに細くなった。
「ハンター証を見せてくれるかしら?」
「あっ」
「どうしたの?」
俺は固まった。
「持ってません…」
「え?」
「ハンター証、持ってません」
女性は、一瞬だけ言葉を失った。
「取得はしているのよね?」
「…いいえ」
「なら、どうやって強いって分かるのよ!」
正論だった。ハンター証がない。つまり、正式にはダンジョンへ入れない。なら、ダンジョンで強さを証明したこともない。それで「自分、そこそこ強いんで」は、論理が破綻している。俺は悪魔だ。だが、現代社会の手続きには弱い。
「もう…ハンター証、作ってく?」
「そうします…」
受付の人の目が怖い。
「もちろん、身分証明書は持っていますよね?」
「…ありません」
また沈黙が落ちた。今度の沈黙は、さっきより長かった。
「今日はお引き取りください」
「はい……」
「後日、身分証明書を用意して、ハンター証を作りに来てください。それと、あなたは本部でのハンター講習を受けてから来た方がいいわ」
「はい……」
完全敗北だった。推奨レベル二十のダンジョンに、入る前から負けた。
俺が帰ろうとした時、女性がふと思い出したように言った。
「そうだ。あなたのお名前を伺っても?」
名前。一瞬、迷った。クロ。クロバ。アシェル。春日皐月。いくつもの名前が、頭の中を過ぎる。そして俺は、なぜかその名前を選んだ。
「皐月と言います」
「皐月さんね」
女性は頷いた。
「私は堀。堀紗奈と言います。よろしくね」
「はあ。よろしくお願いします…」
「そうだ、これ私の連絡先」
堀は小さなメモ用紙を差し出した。
「分からないことがあれば教えてあげるから」
そして、軽くウインクした。なんだ、この勢いは。だが、悪い人ではなさそうだ。むしろ、しっかりしている。俺を止めたあとも、すぐ別のハンターに声をかけ、装備の確認や注意をしていた。俺はもらったメモを服の中へしまう。そして、本当に帰路についた。
帰りのバスに乗る。窓の外には、行きと同じ景色が流れていた。田んぼ。道路。小さな店。そして、遠ざかっていくダンジョン。結局、今日は一階層にも入れなかった。レベル上げもしていない。魔物も倒していない。ただ、バスに乗って、受付の女性に怒られて、連絡先をもらっただけだ。身分証。ハンター証。本部での講習。現代社会は、悪魔に厳しい。いや、俺が手続きをなめていただけか。それにしても。皐月。なぜ、その名を出したのか。自分でも少し分からない。俺は座席にもたれ、窓の外を見た。
「何しに来たんだか……」
そう呟いて、ため息をついた。
【堀視点】
私、堀紗奈はハンターギルドの職員だ。仕事場は、ダンジョン前。ダンジョンに潜るハンターへ注意を促したり、必要ならアドバイスをしたり、異変があれば通報したりする。現場の様子を本部へ報告するのも大事な仕事だ。今日も今日とて、ハンターたちへの叱咤激励が始まる。
「装備確認しました?」
「回復薬は足ります?」
「無理だと思ったら戻ってくださいね!」
そんな声をかけていると、一人の男性が目に入った。おっ。なんかカッコいい人発見。でも、次の瞬間、私は眉をひそめた。私服。武器なし。防具なし。しかも一人。そのままダンジョンへ入ろうとしている。いやいやいや。それはダメでしょう。
「待ちなさい!」
つい、大きな声が出てしまった。
近くで見ると、本当に私服だった。武器もない。防具もない。それなのに、本人は妙に落ち着いている。
「大丈夫です。自分、そこそこ強いんで」
なに、その自信。もしかして、実は高レベルハンターなのかしら。そう思ってハンター証を確認しようとした。すると。持っていない。取得もしていない。さらに身分証もない。呆れを通り越して、少し面白くなってしまった。顔はいい。かなりいい。でも、危なっかしすぎる。放っておいたら、そのままダンジョンに入って、あとで大騒ぎになるタイプだ。私は、ハンター証を作ること。その前に身分証を用意すること。そして、できれば本部でハンター講習を受けることを伝えた。彼はしょんぼりした顔で頷いた。うん。なんだろう。ちょっとかわいい。
帰ろうとする彼に、私は名前を聞いた。
「皐月と言います」
皐月さん。いい名前だ。私は自分の名前も伝えた。
「私は堀。堀紗奈と言います。よろしくね」
そして、勢いで連絡先も渡してしまった。
「分からないことがあれば教えてあげるから」
つい、ウインクまでしてしまった。いや、職員として。そう、職員として必要な案内だ。たぶん。皐月さんは少し戸惑ったようにメモを受け取り、帰っていった。その背中を見送りながら、私は思う。顔だけは、高レベルなのは間違いない。あとは、常識と身分証とハンター証があればいい。連絡、来ないかな。そんなことを考えながら、私はまた別のハンターへ声をかけた。
夕方、本部へ戻った私は、職員用の休憩スペースで友達に声をかけられた。
「どうしたの、紗奈? なんだかご機嫌ね」
「分かる?」
「分かるわよ」
私は思わず笑った。
「今日ね、良い出会いがあってね♪」
「へ〜、そうなんだ」
反応が薄い。かなり薄い。
「なんか興味なさそうね〜。まあ、あなたはブラコンだからね」
「ブラコンって何よ。私はお兄ちゃん一筋なだけよ」
「それがブラコンなんでしょ」
友達は、少しむっとした顔をした。春日若葉。ギルドの受付で、私の友人。そして、筋金入りのお兄ちゃん大好き人間だ。私は椅子の背にもたれながら、さっきの男性を思い出す。
「あ〜、連絡ないかな〜。皐月さん」
その瞬間、若葉の動きが止まった。
「え?」
「ん?」
「皐月って言った?」
「言ったけど…」
若葉の目が変わった。さっきまで興味なさそうだったのに、急に前のめりになる。
「どんな外見だった?」
めっちゃ食いついてきた。私は瞬きをした。え。何、この反応。
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