101. 真里さん、鍛え直すと言ったあとカレー六百グラムを食べる
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【サクラ視点】
真里さんから、会いたいと連絡が来た。仕事終わりなら大丈夫です、と私は返した。けれど、その日の会社は大丈夫ではなかった。藤堂さんの仕事のしわ寄せが、想像以上に大きかったのだ。共有フォルダから出てくる資料。取引先への確認。誰がどこまで把握しているのか分からない案件。みんなで手分けしているのに、全然終わらない。
「今日は残業だな…」
上司の言葉に、あちこちから小さなため息が漏れた。私も、真里さんへメッセージを送る。すみません。今日、仕事が終わりそうにないので、リスケさせてください。送信して、スマホを伏せる。その時、影の中からクロの声がした。
『リスケとはなんだ?』
『あれ? クロが皐月さんだった時にはなかったんですか?』
『覚えていない』
『リスケジュール。要は、スケジュールの再調整です』
『なるほど。あったかもしれんが忘れた』
『まあ、千年は長いですよね。私も五年前のことでも怪しいんだから』
『だろ』
思わず笑ってしまった。会社は大変で、藤堂さんのことを考えると胸は痛い。でも、クロとこうして話せる時間は、少しだけ幸せだった。
リスケのあと、真里さんは改めてうちに来た。玄関を開けると、いつものように華やかな真里さんが立っていた。
「ごきげんよう、サクラさん」
「こんばんは、真里さん」
そこまでは普通だった。問題は、その次だ。真里さんは部屋に入るなり、クロを見つけて目を輝かせた。
「まあ、クロ。お久しぶりですわ」
そして、ぎゅっと抱きついた。クロは抵抗しなかった。それどころか、尻尾が揺れている。ふさふさと。とても正直に。なによ、この状況。私がじっと見ていると、クロは目を逸らした。逸らすな。
「ま、真里さん?」
「そうそう、大変でしたわね。また深淵王が出たそうで」
真里さんはクロを抱きしめたまま、さらりと言った。
「あのお兄様でさえ敵わなかったと…」
「そう……ですね」
その話題になると、少しだけ胸が重くなる。深淵王。藤堂さん。まだ、私の中では完全に整理できていない。
「私、鍛え直しますの」
真里さんが、急に真面目な顔になった。
「鍛え直す、ですか?」
「ええ。お兄様でさえ、深淵王には及ばなかった。なら、今の私では到底足りませんわ」
真里さんの声には、いつもの勢いがあった。けれど、それだけではない。悔しさも、不安も、ちゃんと混じっている。ダンジョンは、まだ何も終わっていない。黒い階段も、迷宮核も、大賢者も、ヴァルメリアも。分からないことだらけだ。
「サクラさんも、ご一緒にどう?」
「私も、ですか?」
「ええ。天花隊で一緒に鍛えましょう」
真里さんは、当然のように言った。
「でも、真里さんは天花隊のパーティーですよね?」
「そうよ。一緒にやりましょう!」
きらきらした目で言われた。悪意はない。むしろ、私を心配してくれているのが分かる。だからこそ、少しだけ言いにくかった。
「すみません。私は、そこまで本格的にやるつもりはなくて…」
真里さんは首を傾げる。
「でも、サクラさんは何度も深淵王に巻き込まれていますわ。今のままでは危険だと思いますの」
「確かに、そうなんですが…」
それは、私も分かっている。弱いままでは危ない。守られるだけではいけない。クロの契約者として、もっと強くならなければいけない。でも。私は、私の生活を全部ダンジョンに捧げたいわけじゃない。平日は会社へ行く。週末にダンジョンへ潜る。クロと相談しながら、自分のペースで進む。そのスタイルを、今は壊したくなかった。
「やっぱり、お断りいたします」
私は頭を下げた。
「私は、今のスタイルを大事にしたいんです」
真里さんは、少しだけ目を丸くした。そして、すぐに笑った。
「分かりましたわ!」
「え、いいんですか?」
「もちろんですわ。ですが、いつでも声をかけてくださいね」
「はい!」
無理強いされなかったことに、少しほっとした。
「ところで」
真里さんが、ぱっと顔を上げた。嫌な予感がした。
「クロバ様はどこに?」
やっぱり。私は一瞬だけ固まった。クロバ様。つまり、人型のクロ。そして真里さんの中では、私の兄ということになっている。目の前には黒狼のクロがいる。本人である。本人であるが、言えるわけがない。
「兄は…たぶん地方のダンジョンです」
「そう」
真里さんは残念そうに眉を下げた。
「ここへ来る予定はありますの?」
「全く聞いてません。いつも突然ですから…」
「そう。残念ですわね」
クロは、なぜか目を逸らしていた。いや、目を逸らすな。私だけが嘘をついているみたいになるでしょう。
「さて!」
真里さんは、ぱん、と手を叩いた。空気が切り替わる。
「ご飯に行きましょう!」
「ご、ご飯ですか?」
「晩御飯は食べましたか?」
「まだですが…」
「そう。では行きましょう。行きたい場所がありまして!」
勢いがすごい。断る隙がほとんどない。
「分かりました」
私が頷くと、真里さんはなぜかクロの方を見た。
「クロはどうしますか? 私と行きたいですか?」
なんでクロなの?そして、尻尾。揺れてる。なんでよ、もう。
「クロはお留守番です!」
私は少し強めに言った。クロの尻尾が止まる。真里さんは残念そうにクロを撫でた。
「そうなんですの? それは寂しいですわね」
「召喚獣は公共の場では出せませんので」
「そうですわね!」
真里さんは、クロに向かってにこりと笑った。
「ではクロ、お土産を買ってきますから、お留守番お願いしますわね!」
クロの尻尾が、また少し揺れた。揺れるな。
真里さんは、スマホに作ったリストを見せてくれた。行ってみたいお店リスト。そこには、ファーストフード店やチェーン店の名前がずらりと並んでいた。意外だった。でも、すぐに納得もした。真里さんは天照院のお嬢様だ。きっと、高級なお店には慣れている。けれど、こういう気軽なお店に友達と入る機会は、あまりなかったのかもしれない。
「今夜はこちらですわ!」
真里さんが指差したのは、カレー屋さんだった。
ココ三番屋。うん。ここのカレーは美味しい。私も好きだ。店に入ると、スパイスの香りがふわっと広がる。それだけで、少し幸せになる。私はメニューを開いた。スクランブルエッグ。ほうれん草。ご飯は少なめの二百グラム。これがちょうどいい。今日は疲れているけれど、こういうご飯なら食べられる。
「え〜っと、私は…」
真里さんは真剣な顔でメニューを見ている。
「カツカレーに、コロッケとナスをトッピングしましょう」
「おいしそうですね」
「ご飯の量は少し多めで…でも、どれくらいか分かりませんわね」
真里さんは少し考えた。
「では、六百グラムにしましょ♪」
さ、さすが真里さん。通常の倍あるよ。そして運ばれてきたカレーを見て、私はさらに驚いた。大きい。とても大きい。でも、真里さんは目を輝かせていた。
「まあ、素敵ですわ!」
その顔を見ていると、なんだかこちらまで嬉しくなる。私も自分のカレーを食べた。スクランブルエッグのやさしさ。ほうれん草の安心感。ルーの辛さ。うん。やっぱり、ここのカレーは最高だ。藤堂さんのことも、深淵王のことも、考えなきゃいけないことはまだ山ほどある。でも今は、目の前のカレーがおいしい。それで少しだけ、救われる気がした。食べ終わる頃には、私はお腹いっぱいだった。真里さんは満足そうにスプーンを置く。
「次回は九百グラムにしましょ」
次回があるんだ。しかも増えるんだ。私は笑うしかなかった。
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