23.5 その背中はただ一人
空を切る音がする。
高所から落ち、地上に至ったところで音は消えた。
「――ミタカ。どうして、剣を振るわなかったのですか」
大地に突き立てられたのは紫電の剣だった。
「…………だって」
月の騎士は、すでに武器を持っていなかった。
「シエルを目の前にしたら、振り下ろせなかった」
その双腕は、紅い髪の少女を抱きとめるために使われていた。
「もしも。私がこの杖を振り下ろせばあなたは敗北する。それを分かって、剣を捨てたのですか」
魔杖は未だ、紅の手の中に。
振り下ろす意思があるのなら、白銀の心臓を貫くことはたやすい。
「……そうだとしても、同じことをしたと思う」
白銀の少女は、微笑んだ。
「まるで、今はそうではないとでも言いたげですね」
「わかるさ。限界なんだろ、シエル」
紅の少女はじっと目をつむる。
「分かりますか」
「さすがに、ここまで近くで顔を見れば、さ」
炎の翼が揺らめき、世界がぼやける。
紅の少女の翼は消えて、広がり続けた異界は部屋と認識できる程度の空間に。
二人の少女は、その足を地につけていた。
「――少しばかり、戦いすぎましたか」
「もう、休んでいいんだ」
炎を司っていた魔杖が、その言葉と共に手放される。
意図的なものではなく。すでに、武器を手にする力も尽きていた、というだけの話。
ぐらり、と紅の少女の姿勢が崩れる。
白銀の少女はその体を支えると、ゆっくりと床に下ろす。
「きっと、シエルはずっと戦っていたんだろう」
「たった百年です」
「それを少し、なんて言ってしまうくらいには、疲れていたんだ」
地面に寝かせると、白銀の少女は紅の少女から手を放す。
「最後に一つだけ」
白い髪が地を離れる手前に、呼び止める声がした。
「あなたはどうしても、逃げてはくれないのですか」
その声は弱々しい。
けれども、拒絶の意思を示すように白銀の髪が横に揺れる。
「この提案はご不満ですか? その力があれば、多くの人を救える。手を尽くせば、この街の人間を逃がしながらDDに抵抗することもできるでしょう。そうすれば、安全に多くの命を救える」
もう、紅の少女が取り繕っていた心の仮面は溶けている。
「怖いなら、痛いなら、逃げてもいい」
その声は震えている。
「ですから、どうか。あなたのような人は、いいえ、あなただけでも、命を捨てないでほしい。この先には、死しか待っていない」
その懇願を受けて、それでも白銀の少女は首を横に振る。
「きっと、逃げる選択が正しかったのだと、あなたは理解できる時が来る。ですから命を賭ける必要なんて――」
「それでも、逃げるわけにはいかない」
見下ろす白銀の少女の顔は優しげな顔で、それでいて決して退かない、という決意に満ちていた。
止めなくてはならない。
「それは、何もせずに逃げるなんて耐えられないからですか」
それは、ソレイユがあの地獄を見てからずっとつぶやいた言葉。
彼女だけでもずっと苦しんできたのに。
目の前の勇者まで、呪縛のような言葉に縛られて、命を捨てさせてはいけない。
だから。肯定の言葉を聞いたのなら、何を言ってでも止めないといけない。
けれど、少し考えて、目の前の少女は首を横に振った。
「それは少し足りなかった」
「では、どんな理由で」
少女はしゃがみ込むと、そっと私の頬に手を添えた。
「目の前の理不尽が許せなかったんだ」
白い指先が視界の下を通った。
「誰かが、涙を流さなくっちゃいけない理不尽が許せなかった」
その先端にはしずくが滴っていた。
「ここで逃げれば、ソレイユはあの涙を忘れられなくなる。見送ってくれたリアの朗らかな笑顔は見られなくなる。そして、だれよりもシエルが笑えない」
なんてことを、あなたは言うのでしょう。
「きっとその涙をこらえ続けることになる。それは、オレには許せないんだ」
まるで、私のために戦うかのような言い方をされては。
「――何も、何も言えなくなるではありませんか、マスター」
少女は立ち上がり、横たわる少女へ背を向ける。
「行ってきます」
誰に見送られることもなく、最後の扉が開かれた。




