Forth Turn 海と蒼と氷
アルフォンソとミーナローザと共に港町に着いたのは、太陽が沈みかけた頃。真っ直ぐに宿場へとやって来たところ、待っていたクラウディオから慶太は散々言いたい放題言われる事となった。
何でドラゴンから落ちただの、勝手に動き回るなだの、自力で港町まで来いだのと理不尽極まりない事ばかり。ハケ口が慶太しかないからと言って、全てのイライラをぶつけられても困るというもの。全て右から左へ聞き流していたものの、げんなりしていたのも事実。気が済むまでの辛抱だと思っていたが、そのまま朝までコースになろうかという時に、天の助けが入った。
「クロウ、それくらいにしよう。寝不足になったら僕、クロウの事、呪い殺せそうだよ」
無邪気な笑顔でどす黒い事を平然と言い放ったアルフォンソの言葉でクラウディオの愚痴は無事に終わりを告げ、止めてくれたアルフォンソに心から感謝する。
しかしながら、不機嫌なのかクラウディオはアルフォンソを睨み付けていて、言い合いの始まりそうな二人から逃げるように、慶太は宿の外へと飛び出した。
特に目的のなかった慶太は、夜も更けて静寂に包まれた街に響く波音を頼りに海を目指し、防波堤の方までやって来ると人影がある事に気が付いた。
月明かりに照らし出されているのは、海に溶けてしまいそうな蒼色のフィアレスティア。彼女はじっと海を眺めながら佇んでいる。ただそれだけの事なのに、何故か見惚れてしまった。
そのせいだろうか、普通に声をかける事が恥ずかしく思えてしまって、けれどもこのまま宿に戻る気にもなれず、照れ隠しで驚かせてみようかなと子どもっぽい発想が頭を過ぎった為にすぐさま行動に移す。
ゆっくりと足音を立てないようにそっと背後から近づいて、大きな声を出そうと息を吸った時、不意に腕がぐんと勢いよく前に引っ張られたかと思うと体は宙に浮いていて、そのまま重力に従って慶太は海の中へダイブした。
急いで海面に顔を出すと、赤い瞳と目がかち合った。
「何してるの」
「……よく分かんなかったけど、オレ、フィオに落とされたんだよ」
しれっとしている彼女はわざとやった訳ではないという事なのだろうか。
とにかく一度上がろうと、左に一メートル程泳いだ所に海面と変わらない高さの防波堤があったのでそこに上がると、階段を降りてフィアレスティアもやって来る。
座り込み、後ろについた手に体重をかけながら、隣に突っ立っているフィアレスティアを見上げた。
「フィオ、いきなり海に放り投げるとか、さすがに酷くない?」
「背後に立ったから」
「いや、それは悪かったけど……」
今のは慶太にも非がある為にそれ以上の文句は言えず、まあいいかと流すと欠けた月を見上げてみる。日本の夏並みの気温の為、風邪を引く心配はなさそうなのでこのままでいいやと思い、座ったらと自分の左隣をトントンと叩くとフィアレスティアはちょこんと座って膝を抱える。
「フィオ、こんなとこで何してたの?」
「海、見てた」
「好きなんだ?」
すぐにコクンと頷いて返された事に驚きながらも、慶太は笑みを浮かべて海を眺める。
「オレも好きだよ。毎年、夏になったら海行くんだ。水が冷たくって気持ちよくってさ。プールもいいけど、オレは海の方が好きかな」
「知らない」
何となく話に乗ってくれそうで、訊かれてもいない事を話した途端にバッサリと切られてしまい、これは流石に胸が痛くなってがっくりと肩を落とした。多少は仲良くなれたのかと思っていた矢先のこの反応は、自信過剰だったという事だろうか。
「海、見るだけ」
しかし次に彼女の口から出た言葉に、更なる勘違いをしていたという事に気が付いた。彼女が伝えたかった事はもっと違う事なのだろうと、恐る恐る言葉を紡ぐ。
「もしかして……海、入ったことないの?」
するとコクリと彼女は頷いて返してきて、慶太はハァーっと大きな息を吐いた。
「そうならそうと早く言ってよ」
そう言うと慶太は立ち上がり、せーのという掛け声と共に大きくジャンプした。水飛沫が盛大に上がり、慶太は再び海の中へと逆戻り。ギリギリの所に座っていたフィアレスティアに思い切り水が掛かっていたけれど、慶太は気にも留めなかった。
何故なら、水をかけるのが目的だったのだから。
「フィオも入ってみなよ。すっげー気持ちいいから!」
ニカッと笑いながら、慶太は防波堤の淵に右手を置き、左手をフィアレスティアに差し出した。初めて入るのには勇気がいるだろうと思っての事だ。多少、恐怖が軽減されれば良いなと思ってフィアレスティアを見ていると、抱えていた膝を地面につけて覗き込むようにこちらを見、白く冷たい手が差し出した慶太の手のひらにちょこんと乗せられた。それを確認するなり、慶太はフィアレスティアの手をぎゅっと握って引っ張った。
慶太の力に逆らう事無く海の中へダイブしたフィアレスティア。
海の中に入り、慶太の腕に掴まりながらフィアレスティアは呆然とした様子で水面を眺めている。
「フィオ、どう?」
静かに訊ねると、フィアレスティアは水面を見たまま口を開いた。
「気持ちいい。水、好き」
言いながら水を右手で掬い上げるフィアレスティア。指の間を擦り抜けて落ちていく透き通った水を眺めるフィアレスティアの表情は、初めて見るものだった。今まではそうなのかもしれないとしか感じられなかったその表情が、今はハッキリと見て取れる。
微笑んでいる。普通の人よりはずっと乏しいけれど、それでも笑っている。
彼女は感情を知らない訳ではなく、ただ出せないだけ。慶太はそう確信した。だが、こうして少しでも見せたという事は表に出す方法を知ったのかもしれない。それだけでも、海に引き込んで良かった、海の中に入る事が出来て良かったと、そう思った。
「ケイ」
不意に、フィアレスティアが視線を上げて慶太の方を見てきた。月の光に照らされて、フィアレスティアのルビーのような目がキラキラと輝いている。
「ありがと」
微笑んだような顔で言われ、その綺麗な顔にドキリとしながらも、慶太はニカッと笑って返した。
「どういたしまして」
フィアレスティアを知る良い機会になれて、ここに来て良かったと改めて思った。
港町には宿に泊まっただけで他に用事はないらしく、朝食を済ませるとすぐに船に乗る事となった。
木製の船は船内に客室があり、慶太は宛がわれた客室内を見回した。不機嫌そうにベッドに横になっているクラウディオは、どうやら乗り物に強くないらしい。表情はいつもとあまり変わらない気がするのだが、青褪めているところを見ると酔っているのだろう。竜車の時に不機嫌だった理由もそこにあるのだろうと思った。ミーナローザとアルフォンソは机を挟んで椅子に座り楽しそうに話をしていて、フィアレスティアだけがこの場にいない。先程アルフォンソに訊ねてみたのだが、甲板に行くのを見たと言っていたので、恐らくは大好きな海を眺めている筈だ。
そんな中で、慶太はずっと気になっていた事を訊いてみる事にした。
「あのさ、ちょっと訊いていい?」
二人の会話を遮る事をするという事と、質問の内容が一度クラウディオに怒られたものだという事もあり気が引けたが、アルフォンソとミーナローザの間に立ったまま、何でも訊いてと言うように微笑を浮かべているアルフォンソに慶太は口を開いた。
「アルフ達って、何で一緒に旅してんの?」
「そうだね……僕はこの世界の生まれじゃないけど、この世界はおかしいって感じたからかな。一見平和そうだけど、恐怖に脅えて暮らしているように見える」
「この世界の生まれじゃないって、アルフも異世界から来たっていうこと?」
「そうだね。ケイと同じ地球人だよ」
「……へ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。にこやかに笑顔でサラッと重大な事を言った気がするのは、恐らく気のせいではないだろう。
自らをテロリストだと言った時にも思ったが、アルフォンソは重要な話ほど笑顔で軽く言う。天邪鬼と言うか、捻くれていると言うか、話の内容とのギャップが激しいせいで重要性がイマイチ伝わってこない。
「僕、生まれはイタリアでね、十年前にこの世界に来たんだ」
世界を渡ったのは偶然だったのだとアルフォンソは言う。どこか別の世界に行きたいと願い、家出をしようと窓の隙間から外に出た所、そこは切り立った崖に囲まれた小さな村だった。家出する手間が省けたと、突然放り出された異世界でも気にする事なく、生まれついての記憶力を頼りに世を渡り歩いていたのだと。
そんなアルフォンソの話を聞きながら、慶太は全く別の事を考えていた。
当時六歳だったと言うアルフォンソ。それから十年が経っている。
十年前、十六歳、それが頭の中で妙に引っかかっている。何だかもやもやとした気持ちが渦を巻いていて、正直アルフォンソの話に集中できていない。
何だろう、この感じ。何だろう、この気持ち。
それが顔や態度に出ていたのだろうか、様子が違うという事に気が付いたらしいアルフォンソが慶太の顔を覗き込む。
「ケイ、どうかした?」
瞬間、何かに弾かれるように慶太はアルフォンソの腕を掴んでいた。
「アルフ、ホントにイタリア人? 嘘じゃない? もしかして、ホントは、にい……!」
突然、言葉が詰まって声が出なくなった。今、自分が何を言おうとしたのか、途端に判らなくなる。
どうしたの、ともう一度アルフォンソに訊ねられたが、それ以上何も言えなくなった慶太は何でもないと答えると掴んでいたアルフォンソの腕を放した。思いの外、強く掴んでいたらしい。アルフォンソの左腕には慶太の爪が食い込んだ痕が出来ている。
「あ、ごめ……」
「このくらい平気だから気にしなくていいけど……ケイの方こそ大丈夫? 顔、真っ青だよ」
そう言って慶太の方へ伸ばされたアルフォンソの腕を、慶太は反射的に払い除けた。パシンッと乾いた音が室内に響き、キョトンとしたようなアルフォンソを見て、慶太は今し方アルフォンソの腕を払いのけた自分の右手を見てハッとし、何となく背に隠す。
ぎこちない空気が流れているのを肌で感じて、慶太はどうしようかと視線を宙に彷徨わせるけれどどうしたら良いのか考え付かず、数秒黙った結果、取り繕うように引きつった笑みを張り付ける。
「あ、あー……オレ、フィオ捜してくる!」
誤魔化す事を早々に諦め、半ば自棄になったように船室を飛び出した。
船内を走りながら、ずっと自己嫌悪するような考えがぐるぐると頭の中を巡っていた。
(何言ってんだよ、オレ……! 地球人、十年前、十六歳……たったそれだけで、兄ちゃんかもしれないなんて! 顔も、性格も全然違うのに、偶然に決まってんのに! もう兄ちゃんはいないんだから、そんなわけないのに!)
甲板に出て、頬を撫でる潮風に足を止めると乱れた呼吸を整える。
普段なら絶対にあんな事は考えないのに、自分でも歯止めが利かなくなりそうだった。元々自分の意思など持ち合わせていないけれど、まるでそう考えさせられているような感覚に陥った。
気持ち悪い。
気分転換をしたくて気分を晴らしたくて、左側の手摺を頼りに後方までやって来た時、一面の青に違う蒼が混ざっている事に気が付いた。
風に靡く髪。両手首と両足首、首に付けた金色の輪っか状のアクセサリーが、それぞれ光を反射してキラリと光った。
「……フィオ……」
掠れるような声で名を呼ぶと振り返った彼女の顔を見ただけで何故だか安心して、足に力が入らなくなったように慶太はその場にへたっと尻餅をついて座り込んだ。
そうすると、フィアレスティアはゆっくりとした足取りでやって来ると慶太の傍にしゃがみ、顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「……何か、気持ち悪い」
「船酔い?」
訊ねられ、そう言えば車に酔った時と同じような気持ち悪さかもしれないと思った。
「あー、これが船酔いか……オレ、船初めてなんだよ……」
「吐く?」
「や、いい。猛ダッシュしたせいもあるだろうし、じっとしてれば治ると思う」
言いながら手摺に体重を預けて上を向いて目を閉じる。けれども気持ち悪さは一向に治まってはくれず、こういう時にどう対処したら良いのか判らない慶太は、立っている時より幾分か良くなった気がするという理由だけでこのまま座っていようと思った。その時、ふわりと体が何かに包みこまれた。
冷たくて、けれども柔らかくて暖かいものに。
優しく抱きしめられているのだと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
「フィオ……?」
「辛い時はこうしてあげるといいって――が言ってた」
今、何か言葉を聞き逃した。
「それ、この場合何か違う気がするけど……」
それでも、離れてほしいとも恥ずかしいとも思わなかった。何だか心地良くて、ホッとして、気分が和らいていくような気がした。
きっと触れているフィアレスティアの体が冷たいからだと思った。それにどこか懐かしい感じもして、ぐちゃぐちゃにかき回されていたような頭がスッキリしていくようだ。
けれども暖かく優しい静寂は、突如として響き渡った轟音と大きな揺れにかき消される。
降り注ぐ水飛沫、落ちる影。
顔を上げて振り返って見て、視界いっぱいに広がっているのは黒。それが船だという事に気付くまで数秒を要した。水飛沫が上がる前までは確かにそこには何も無かった筈なのに、慶太達が乗っている船の倍以上はある巨大な漆黒の船が横づけをしているのだ。横付けされるほど接近するまで、気付かないような規模の船ではない。何よりその威圧感に圧倒される。同色の帆に描かれたものを目にした時、慶太はその船の正体を知った。
ダンッと床に何かを強く打ちつける音と中年男の低音が、突如として響き渡る。
「今からこの船は、ワシら海賊ブラックオルカのもんじゃ!」
その風貌、船。海賊だと言われて疑う要素はどこにもなかった。
そして、海賊が何故ここにいるのかという疑問も浮かんではこなかった。度重なる襲撃に嫌でも思い知らされるクラウンという存在。
甲板には先程まで姿のなかった、お揃いの黒いベストを身に纏った海賊が数人いる。海賊船がぶつかるまで発見されなかったのも、音もなく海賊達が船に現れたのも、恐らくは何らかの能力なのだろう。それが何かを慶太が知る事は出来なかったが、この世界の人間が持つ能力というのは厄介なものが多いのだと身をもって知った気がした。
どっしりとした重みのある足音が近づいて来て、気が付いた時には慶太の目の前で止まっていた。見下ろしてくるのは海賊の船長らしい、小太りで鼻眼鏡についているような髭を生やした、まるで絵本に出てきそうな格好の男。ピーターパンに出てくるフック船長の身長を低くして太らせ、フックを木の杖に変えたらこんな感じかもしれない。
「ほう、今回のクラウンは随分と幼いのう」
幼いとは失礼すぎないかと、そんな文句は出なかった。
「ワシらが、用があるのはクラウンのみ。他の者は大人しくしていた方が身の為だ」
騒然としている甲板。誰もが言葉を無くし、立ち尽くしている。慶太だって、船長に見下ろされているだけで、蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなっている。
けれどそんな中で唯一、彼女は立ち上がると、手を伸ばせば届くという距離まで船長に近寄り、慶太をその背に隠すと船長を見据える。
「させない。ケイ、渡さない」
「歯向かうか……主のような小娘に何が出来る」
言いながら、それでも船長は警戒するようにフィアレスティアを止めろと部下に顎で指示を出していて、海賊の一人がフィアレスティアの左側からナイフを手に持って向かって来た。けれども一歩後退したフィアレスティアは手刀で海賊の手からナイフを落とし、そのまま手を掴んでぐるんと回せば宙を一回転した海賊の男は慶太とは逆の方へと飛び、そのまま床に叩きつけられた。
合気道に似たフィアレスティアの体技。
ズダンッと勢いよく叩きつけられた音が響く。部下が華奢な少女に投げ飛ばされるという光景を目の当たりにした船長は、ニヤリと口元に楽しそうな笑みを浮かべた。
「なるほど。クラウンを連れているだけの事はある。じゃが、抵抗されても面倒なのでな」
強く杖の先で床をつけば、船上にいる海賊の内の二人が乗客に銃を向けた。
「一歩動く度に一人犠牲になる。主が何もしなければ、ワシらもクラウン以外には何もせん」
悪役らしい言動だ。こういう、ある種のお約束のような出来事はどんな世界も共通しているらしい。けれども人質を取ったという事は、フィアレスティアには敵わないと判断したという事だろうか。屈強な男が数人もいて、少女一人に怖気づくとは何とも情けない話だが、生で戦闘を見たいわけではないので慶太が何かを口にする事はなかった。
これが脅しかそうではないかはまだ判断がつかないが、大人しくしていれば何もしないと公言している以上は、動かない方がいいに決まっている。
常識で考えれば。
「知らない。ケイが助かればいい」
そう言って一歩、踏み出そうとした彼女には常識などないらしい。しかし、動く事は叶わなかった。腕や足をがっしりと掴んでいる三人の男女。それは明らかに船の乗客で、慶太は目を丸くし、船長は笑みを濃くする。
「お願い、それ以上動かないで!」
「クラウンさえ渡せば去ってくれるんだ、大人しくしていてくれ!」
懇願するような乗客達。それはフィアレスティアを掴んでいる以外の者達からも、視線で感じ取れる。フィアレスティアならば、もしかしたら海賊を退けられるかもしれないが、そうする間に犠牲が出る可能性がある。だからより安全な、何もしないを乗客達は選んだ。
船長の表情から察するに、恐らくはこうして乗客が邪魔をする事を狙っていたのだろう。
しかし、それでも彼女が動こうとしているというのがすぐ近くの慶太には判って、手摺で体を支えながら立ち上がった。
「フィオ……待って。オレ、行くよ」
まだ足元がふらつく。お世辞にも格好良いとは言えない姿。それでも、船長をしっかり見据えれば、船長は自身の立派な髭を触って品定めするような視線を慶太に向ける。
「ほう。見かけによらず度胸があるのう。これからどんな目に遭うとも知らずに」
「度胸があったら足、震えてないよ。オレは痛いのも怖いのもイヤだけど、他の誰かがオレのせいでケガすんのも、哀しむのもイヤだ」
「良い覚悟だ」
言い、慶太の目前まで迫ると、慶太の顔の真横に杖を突き出した。かと思った次の瞬間、顔の右側に強い衝撃を受けて吹き飛ばされるとそのまま床に強く頭を打ち付けた。
額から、つ……と一筋の血が流れる。
「そこに倒れておる部下の礼じゃ。悪く思うでない」
打ち付けた頭がずきずきと痛む。倒れた時の衝撃で、肩も、背中も、あちこちが痛い。上半身を起こして、垂れてきた血が目に入りそうになって左目を瞑る。視界がぼやける。気が遠くなりそうだ。
不意に、冷たい風が肌に触れた。それは、冷たいというほど生易しいものではない冷気。真冬の痺れるような冷たさ。体の芯から凍えるような冷たさ。
一度、慶太は体感した事のあるそれに、咄嗟にフィアレスティアの方を見た。しがみついていた人達が、凍えそうなほど震えて彼女から距離を置いている事が判り、確信する。
フィアレスティアが、能力を使おうとしている。
夏場の気温だというのに突然の冷気に包まれて何事かと混乱する船上で、唯一、別の反応を示しているのは海賊の船長だった。その表情から見て取れるのは、慄き。
「この冷気……まさか、この娘が……!」
一歩、また一歩と、フィアレスティアは船長との距離を縮める。そして真っ直ぐ手を前に伸ばせば船長の眼前で止まり、そのまま指先だけが船長の額に触れると、フィアレスティアの体から溢れていた冷気がフィアレスティアの体に収束していく。
ヤバいと、全身で告げている。止めないと。
「フィオ、ダメだ!」
必死に声を張り上げるけれど、慶太の体は動かない。床に倒れたまま立ち上がれない。
船長に触れている指先から凍気が伝わっていくように、ピシピシと海賊の船長は額から凍りついていく。
「心入人形-マインドレイドール-……!」
それが、船長の最期の言葉だった。
頭から肩、腕、腹部、足と凍っていき、数秒で氷が全身を覆い尽くすと船長は氷の塊と化していた。
途端にざわめき出す船上の者達。それは乗客だけに留まらず、海賊も口々に声を発する。
「心入人形……あれが……」
「永久氷結の魔女だ」
「心まで凍った人形は全てを凍らせるって、私達も殺されちゃう……!」
噂が噂を呼び、憶測が憶測を生む。船上はあっという間にパニックに包まれ、船長を失った海賊達も冷静さを失い、リーダー格のような海賊の一人が全員に撤退命令を出すと横付けした海賊船に戻ろうと渡し板へと向かい始めた。けれども渡し板の前に人が立っていた為に、海賊達は足を止めざるを得なかった。
黒地に赤いラインの入った、軍服と言って差し支えの無い制服に身を包んだ男が海賊船へ続く渡し板の前に立っていて、男は小さく口を開いた。
「グラビティケイジ」
声が空気を震動させて広がっていくのが目に見えて判った直後、海賊達と、先程フィアレスティアを止めた内の一人の男性がその場に倒れ込んだ。
重力に押し潰されるような海賊達。それが、制圧完了の合図となったかのように海賊船と慶太達の乗っている船の進路を塞ぐように、海賊船の倍以上はある黒と赤の軍艦が姿を現した。
皇帝軍が来てくれたと安堵する乗客達の声。
しかし今、この状況での皇帝軍の登場は、慶太達にとって喜ばしい事ではない。何故なら、海賊とは言えフィアレスティアは人を殺したのだから。皇帝軍は警察のような組織だとアルフォンソは言っていた。どう考えても状況は芳しくない。
数人の皇帝軍の人間が、こちらの船に下りて来る。何か訊かれる前に、このまま逃げるべきなのだろうが、海に囲まれた場所から逃げる事は不可能だと言っていい。
そのまま皇帝軍の一人が船内へ続くドアに手をかけた時、バンッと勢いよくドアがこちらに向かって開いた。ドアにぶつかり、衝撃で吹き飛ぶ皇帝軍の男。
ドアの所に立っているのは、至極不機嫌そうなクラウディオ。
「るっせえんだよ! 大人しく寝かせろ!」
クラウディオのイライラ加減が通常時の三倍は増しているだろうか。八つ当たりをするかのように出て来た彼は皇帝軍の制服を見るなり、眉間の皺をより一層濃くしている。
こうして見ると、クラウディオの方が海賊よりもよほど悪党らしい顔をしているというのも気のせいではないのだろうと、彼の後ろに立っているアルフォンソは船に突っ伏している海賊達を眺めながら思った。
「うーわ、何かムカムカしてきた」
「それはイライラと船酔いのどっち?」
「んなもん、両方に決まってんだろうが」
こうしてクラウディオとアルフォンソが呑気なやり取りをしている間に、仲間を吹き飛ばされた事で皇帝軍は、クラウディオを完全に敵と認識したらしい。皇帝軍のリーダーらしき男がクラウディオを取り押さえろと周りの者に命令し、それを合図に皇帝軍の者達は一斉にクラウディオに向かって行く。
五人もの男がクラウディオに向かっている中で、目を鋭く細めたクラウディオは床を強く蹴って飛び出すと正面の男に右ストレートを打ち込み、左側から来る男二人の内の、小柄な方の腕を掴んで勢いよく振り回してもう一人にぶつけると手を離して投げ飛ばした。
「右から電磁砲が来るよ」
呑気なアルフォンソの声を聞き、視界の端に映った電気の砲撃を、顔を傾ける事で避けてすぐさま床を蹴って飛び出すと、残りの二人の顎に同時に掌底を中てて吹き飛ばす。
ほんの数秒の出来事に、他の皇帝軍の者も船上にいる者も唖然としている。
皇帝軍五人を見事に蹴散らしてもイライラは治まらないのか、引き抜いた二本の短刀を握りしめているクラウディオを見て、皇帝軍に緊張が走る。素手であれだけ強いクラウディオが、武器を持ったらどうなってしまうのかと考えているのだろう。
「てめえら、他人の迷惑っつーもんを考えろ!」
今正に他人に迷惑をかけている男が何を言っているのかという空気に包まれる船上だが、それを口に出す強者はおらず、又、クラウディオもそんな事は関係ないとばかりに短刀を構えている。
そのまま、クラウディオはすぐ後ろにいるアルフォンソに声を投げかける。
「おい。殲滅と逃亡、どっちが楽だ」
「断然、逃亡だね。いろいろとコンディションが最悪かな。それに、どう見たってケイが危険だよ」
二人の視線の先にいる、座り込んだ状態の慶太。
額から滴り落ちる血。焦点の合っていない目。怪我もそうだが、何より精神が危ぶまれる。
何があったのかは定かではないが、外に出た瞬間のヒヤリとした空気、氷漬けになった男、それらが導く答えは一つしかなかった。それを目にした時のことを考えれば、普通の少年にとっての精神的なショックは計り知れない。
「そうと決まりゃ、一発でかいのぶちかますか」
「あれ、簡単に弱点視えたみたいだね」
「ここをどこだと思ってやがる」
「それもそうだね」
再び呑気な会話をしていると、あっという間に取り囲まれた。取り囲んでいる皇帝軍の人数は、先程の倍以上になっている。その上、槍や剣などの武器を向けられていて普通ならばピンチという状況だ。
「大人しく投降しろ」
さもなくば容赦なく攻撃をすると言う、皇帝軍のリーダーらしき男。圧倒的な人数の差、狭く不安定な場所。クラウディオは短刀を腰の鞘に差し、降参するように両手を上げるとニヤリと笑う。
「誰が投降なんかするかよ!」
言いながら拳を握りしめた右腕を振り上げ、そのまま真下へ正拳突きをするようにつき下ろすと船の床が大きく陥没した。それは同時に大きな亀裂を生み、木造の船はあっという間に崩壊を始める。
海の上では成す術のない皇帝軍は乗客の避難を最優先事項としたらしく、自分達の戦艦に避難誘導している。すでに何人か海に投げ出されているという状況で手一杯になっている皇帝軍が、クラウディオの相手をしていられる筈もなく、待っていたとばかりにクラウディオは声を上げた。
「来い、ガリアード!」
クラウディオの声に呼応するようにどこかの船室の窓ガラスが割れ、凄まじい風が吹いたかと思うと、クラウディオ、アルフォンソ、そして慶太とフィアレスティアは一瞬の後に上空にいた。
白緑色の体皮、絹のような翼。大きな黄色い珠のついた耳飾り。それは以前、クラウディオに崖から落とされた慶太を助けてくれようとしていたドラゴンで、その背に乗って慶太達は空を回遊している。
そして沈みゆく船と乗客、人命救助に勤しむ皇帝軍を尻目に慶太達は空の彼方へ飛んで行くのだった。
雲の上を飛行中、慶太はずっと黙っていた。
何度も何度も、海賊の船長が凍っていく光景が脳裏を過る。その度に、凍えそうな冷たい空気を思い出して背筋が凍りそうになる。フィアレスティアの冷たい瞳に、自分の心が凍りつきそうになる。
怖い。
ホラー映画やお化け屋敷の怖さとは違う。オカルトではなく、殺人鬼が出てくるサスペンスのような怖さ。それは、人間ではなくなったヒトを見たかのような怖さ。
人形、魔女。そう呼ばれている理由を知ったような気がして、けれどそれがとても悲しく感じて、自分に嫌悪する。
気持ち悪い。
乗り物酔いとは違う気持ち悪さ。生理的に受け付けないような気持ち悪さ。
それは海を渡り切って森林の中に降り立っても変わらなかった。
地面に降り立ち、背から皆を下ろすとドラゴンは光に包まれ、光が小さくなって消えるとそこにはミーナローザが立っていた。ドラゴンの正体がミーナローザだったという事を初めて知った筈の慶太だったが、今は巨木の傍らに佇んでいるフィアレスティア以外は目に入っておらず、クラウディオ達はそんな慶太とフィアレスティアの様子を遠巻きに見守っている。
一歩、慶太がフィアレスティアに近付いた。
「……フィオ……何で、殺したの……?」
振り絞るような震える慶太の声。
本当は訊かなくたって判っている。フィアレスティアが能力を使った時の事を考えれば、理由など一つしかない。それでも、フィアレスティアの口から聞くべきだと思った。
このままにはしておけない、大事な事だと思ったから。
「ケイ、傷つけた」
「っ、そんなの! オレ男だからケガなんて普通だし、それで殺すのはおかしいよ!」
「ケイが無事な事、それが一番大事」
それは慶太がクラウンだから、慶太が無事で居なければ何の意味もないと言う事。それは理解している。けれどそれでも、納得は出来ない。
「でも、あいつ海賊だけど、家族がいるかもしれないだろ。友達とか、部下だっていっぱいいた。その人たちを泣かせていいことにはなんないよ」
独りぼっちの人間など、きっと居ない。必ず誰かとどこかで繋がっている筈だ。親も兄弟も居なくても、誰か気にかけてくれる人がいる筈だ。自分では気が付かないかもしれないけれど、大切に想ってくれている人がいる筈だ。どんな事情があったとしても、その人を悲しませて良い理由にはならない。
それが普通の考えなのだと、思っていた。
「……カゾクって、何……?」
「……えっ?」
彼女の抱く疑問が、慶太には理解できなかった。
「何って、家族は家族だよ。親とか兄弟とか……フィオには、家族いないの……?」
慶太の質問にフィアレスティアは無表情のまま小首を傾げていて、それは家族が居ないという事よりも衝撃を受けた。家族そのものを理解していない。彼女の言葉も表情も空気も、全てが物語っている。
何を言っているのか解らないと言われている。それがとても信じられないという慶太の様子に痺れを切らしたように、口を挟んだのはアルフォンソだった。
「ケイが生まれたニッポンは、豊かで平和だから想像もつかないかもしれないけれど、家族がいない、家族を知らない人間なんて多いんだ。それほど格差もなく、誰もが教育を受けられ、皆が人として見てもらえる、幸せな国でケイは育ったんだよ」
「……だって、それが普通だったから……」
それが当たり前で、ありふれていて、皆がそういう風に育ってきた。そんな事は常識だと、そう育てられてきた。
不意に、アルフォンソの纏っている空気が冷たくなった。
「けれどこの世界は、誰もが他人と違う。みんなと同じではいられない。この世界に普通はないんだよ」
誰もが誰とも違う。同じ能力を持った人間など存在しない。この世界に多数など存在しない。民主主義で、多数決や皆と同じで過ごしてきた慶太にとって、それは自分の常識を根本から覆す事。
それは、自分が自分で居られなくなったという事と同じ。
「じゃあ……じゃあ、どうしろって言うんだよ。普通がない世界で、普通の人間のオレはどうしたらいいんだよ!」
吐き捨てるような慶太の言葉。混乱する頭ではもう何も考えられない。何が正しくて何が間違っていて、何をどうしたら良いのか、全てが判らなくなった。
その時、繊細だが力強い声が耳に届いた。
「ケイはケイだよ。みんなじゃない。誰かじゃない。ケイだよ」
声を発したのはフィアレスティアで、初めて彼女自身の言葉を聞いた気がした慶太は驚いて目を丸くするものの、その言葉の真意を理解する事が出来ずに眉を顰める。怪訝と嫌悪の入り混じったような表情だ。
「……何だよ、それ……意味分かんない」
「ケイは、人殺すの嫌?」
「イヤに決まってるだろ! いいわけない」
「それは、法律で決まっているから?」
今度はフィアレスティアではなく、アルフォンソに訊ねられて言葉を詰まらせる。しかし、視線を逸らしながらも慶太は次の言葉を紡いだ。
「……理由のない人殺しは、人じゃなくなる。そんなの、怪物と一緒だ。オレは、フィオには人でいてほしい。ずっと、人でいてほしい。だから、フィオに人殺しなんかしてほしくない」
言って、真っ直ぐにフィアレスティアのルビーのような眼を見つめる。
常識だとか、皆が言っているからとか、慶太の中にあるものは殆どがそういったものだけれど、それでも何も考えないで生きている訳ではない。自分なりの考えも多少なりとも持ち合わせている。しかしそれを外に出すのは、暫くぶりではないだろうか。
普段は、誰かの意見に乗っていればそれで良かった。誰かと同じで全て上手くいっていた。それが出来なくなった今、心の内側にあるものを言葉にしなければならないのだと、そうしなければいけないのだと、追い詰められてから気が付いた。
正直に答えると、フィイアレスティアはコクンと小さく頷いた。
「分かった。ケイが嫌ならしない」
「約束、してほしい……」
「うん。約束」
納得してくれたらしいフィアレスティアに、ホッと安堵の息が漏れる。
もう人殺しをしない、それは当たり前の事だというのに彼女はそれが何故いけない事なのかという部分が抜け落ちていて、それが彼女の感覚を麻痺させているのだと思うと怖かった。慶太の中にあった常識はこの世界では通用しないという事が嫌という程分かった今、慶太が感じるのは恐怖だけだった。
感覚の違いがここまで重大な事だなんて知らなかった。他人に合わせて生きてきた慶太にとっては、人生観が変わるようなもの。
ただ、それでもフィアレスティアが理解してくれたから安堵したのだろうと思う。これからも共に過ごしていれば衝撃的な事は沢山あるだろう。それでも、理解し合える事が分かっただけで、不安が少し和らいだような気がした。
いつまでも立ち止まってはいられないと、次の行き先を考え始めたクラウディオをよそに、アルフォンソは神妙な顔で慶太に近付いた。
「ケイ、一つ言っておかなきゃいけない事があるんだ」
妙に改まった様子のアルフォンソに、動く気になれなかった慶太は視線だけを向ける。
目の前で人が死に、殺したのがフィアレスティアで、その事についていろいろ話したこの状況ではまともに話をする気になどなれなかったが、アルフォンソの纏っている空気が無視をしていいものではなくて仕方なしに、だが。
けれどそれで構わないのか、アルフォンソは表情を変えずに言葉を紡ぐ。
「今の皇帝は、僕達と同じ地球人なんだ」
思ってもみなかった事実に驚き、反射的にアルフォンソの方を向いた。
「地球人って……偶然?」
「判らない。けど、流星河の日以降、この世界に来る地球人は増えたらしい」
「……流星河の日……異世界リンク説が正しかったんだ」
河のように流星が空を覆い尽くした日、確かに世界は繋がっていた。それ以降、この世界は地球へのゲートが開きやすくなったのだと言う。アルフォンソがこの世界に来たのもその為だ。
「それから、皇帝は多分、日本人だよ」
「えっ?」
どうしてそう思うのか、その理由はアルフォンソの次の言葉でハッキリと判った。
「名前はタチバナ アオト。ケイと同じタチバナなんだ。ケイの知り合いじゃない?」
しかし、そんな事は一気にどうでもよくなった。
タチバナは判らないけれど、アオトなどそう居る名ではないと思っている。慶太のようにありふれた名前でない事だけは確かだ。同姓同名の別人が偶然にも異世界に来ているとは考え難い。そんな確率、天文学的な数字になるのではないだろうか。
死んだ筈の兄が生きている。生きていてほしいと願っていた事なのに、生きていてくれて嬉しい筈なのに、素直に喜ぶ事が出来ない自分の事が、慶太は何より信じられなかった。
皇帝という人間の話を聞いて想像していた人物は、兄とは似ても似つかない。全く別の人間になっているのだとしたら、それは兄ではないのではないか、そんな考えさえ頭を過ぎる。
様々な情報が頭の中で渦を巻いて、ぐちゃぐちゃにかき回される。何も判らなくなる。
「兄ちゃん……」
恐怖と驚愕の色を浮かべた慶太の意識は、その言葉を最後に、突如ぶつりと途切れた。




