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Third Turn ”グン”

 例のストーカー事件で一刻も早く村を出立したかったが、次の街・村までは少々距離があるので警戒しながら村で一泊し、翌朝すぐに出発する事となった。ストーカーに至ってはクラウディオの脅しが効いたのか夜の間は何事もなく、しかし早々に出来るだけ遠くに行かなくてはならなくなった一行は、地球で言えばタクシーのような存在の竜車に乗って一路、山間の街を目指していた。

 その山間の街は、居住者の殆どいない旅人の為の街だと言う。

「凄いなー、オレ、恐竜なんて初めて見た」

 荷台の前方についている窓から、引っ張ってくれている生物を見つつ、慶太は感嘆の声を漏らした。

 竜車とは所謂、馬車の恐竜版といった乗り物で、世界各地で利用できる主要の交通手段である。体長が四メートルもあるケラトサウルス――角を持つトカゲと呼ばれる、ティラノサウルスのように二足歩行の恐竜のような姿をした、こちらの世界ではドラゴンと称する竜が馬の代わりに車を引いている。スピードは丁度、法定速度の車並みくらいだろうか。ゆったりとしたイメージのある馬車とは、速度の面では段違いだった。しいて言うならば、タクシーの馬車版の方がしっくりくる。

 初めてと言っていい異世界らしいものを目の当たりにして思わずテンションの上がった慶太だったけれど、発した声はすぐに消えていき、車内に静寂が訪れると上がったテンションは一気に下がった。重苦しい雰囲気が漂っている狭い空間で、無理にでもはしゃがないと気分が落ち込みそうだ。

 向かい合わせに置かれたシートの、正面には相も変わらず無表情のフィアレスティア。その左隣には窓枠に頬杖をついているクラウディオ。

 今ここに、救いの手を差し伸べてくれるアルフォンソは居ない。山間の街の下見をしておくとミーナローザと共に先に出発してしまったからだ。

 アルフォンソが居てくれれば、この二人と同乗したところで何の問題もなかったのだが、その頼みの綱が今はない。

 せめて何か返してくれればいいものを、慶太が何を喋っても全くの無反応。これはシカトを決め込んでいると言ってもいい。だからと言って、この空気のままずっと居るのも勘弁願いたい。そう思ったまま、すでに数時間が経過していた。後どのくらいの時間で山間の街に到着するのか慶太には判らないので、もし、もう数時間このままで居ろと言われたらお断りだ。

 こういう時は。

「ネコが寝転んだ」

 ……。

「庭には二羽鶏がいる」

 …………。

「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」

 ………………。

「隣の竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのです」

 ……………………。

「東京特許許可局許可局長、急遽許可却――」

「だーっ、もう何なんださっきから鬱陶しい!」

 どうやら聞く度にイライラを募らせていたらしいクラウディオに、漸く反応を変えさせた事でしてやったりと慶太は心の中でほくそ笑んだ。

「何って、ダジャレ。後半早口言葉だったけど」

「訊いてんのはそこじゃねえ。何でいきなりそうなったのかってことだ」

「いや、別に意味なんてないけど」

 気を散らせられれば何だって良かった。当たり障りのないような事を言うものだから、無視されていると考えての事だったのだから。だったら何か突拍子もない事を言えば、これまで見たクラウディオの態度から何かしら反応がある筈だと踏んでいた。

 実際、こうしてイライラをぶつけてきたのだから作戦は成功したと言っていい。それで何をしたかったのかと問われると本当に何もないのだが。

「だってさ、クロウもフィオもガン無視だったじゃん。あそこまでシカトされると正直辛いってか、泣きたくなるってか……な?」

「知るか。別にいいだろ、会話なんかしてなくても」

「ずっと無言もどうかと思う」

 フィアレスティアがまるで会話をしないという事は、これまで見て理解した。訊ねられたら返すか、明確な目的がある時にだけ声をかける。それ以外は一切口にしないので、寡黙というレベルを超えている。それは人形と言うよりはまるで機械のよう。

 だからフィアレスティアとの会話は早々に諦め、こうしてクラウディオにちょっかいを出しているのだ。別に怒らせるつもりはないのだけれど、こうでもしないとクラウディオが相手をしてくれないのでそこは仕方がないだろう。

「そういや、クロウ達っていつから一緒にいるんだ? 最近知り合ったばっか?」

 そしてクラウディオは一度相手をしてくれると、何やかやでその後も本当に面倒くさくなるまでは会話をしてくれるという事も判った。

 訊きたかった事を率直に訊ねてみれば、少しばかり困ったような顔をしている。そんなに困るような質問をしたつもりはなかったので首を傾げていると、クラウディオから溜め息が漏れた。

「六年だ」

「六年って……意外に長い。え、それなのに名前で呼んでなかったわけ? ある意味スゴイな」

 小学校で言えば、入学してから卒業するまでの間ずっと、名前も苗字も呼ばずに過ごしているのと同じ事になる。そんな状態でよく過ごしていられたなと思ったが、メンバーの中で話すのは専らクラウディオとアルフォンソの男二人だろう。女二人は、話しかけられるのが殆どの筈。そう考えると不便さはないのかもしれない。

 しかし、今はそこに慶太が混ざっている。三人で話をするとなると、今までのようにはいかない。ハッキリ言って、慶太が入る前と同様に話をしていたら誰に話しかけているのか判らずこんがらがってしまう。

 実際、最初の頃は慶太も多少なりとも混乱しており、そもそも慶太には名を呼ばない事が信じられなかった。クラスメイトと違い、生活を共にしているなら尚更だ。地球の、こと日本においては名を呼ぶ事が普通だと慶太は思っている。集団で行動するのが基本だからだ。慶太が知っている中で、名で呼ばない者は相手を見下しているか全く接点のない者くらいではないだろうか。

「何で一緒にいることになったの? 六年ってことは幼馴染とかじゃないわけじゃん」

 昔からの知り合いで共に旅をするというのなら、こういう世界の話にはよくある事だ。けれども、十代後半だろうクラウディオ達の年齢で六年の付き合いであれば、見知らぬ者同士が集まった事になる。

 すると突然、クラウディオの目が鋭く細められた。

「それ、知ってどうする」

「へ? ……別に、どうもしないけど……何か接点あるようにも見えないし、どうしてかなって思っただけで……」

「余計な詮索すんな」

 怒気を含んだ声音。いつもの苛立ちとは質の違う怒りに、慶太は反射的に息を飲んだ。

「っ、詮索って、そこまで踏み込んでな……っ!?」

 突如、竜車が急ブレーキをかけて止まった事で車体が大きく揺れた。横倒しになるのではないかと思われたが、何とか持ち堪えたらしい。揺れた時に壁に打ち付けた肩を摩りながら、慶太は声を荒げる。

「な、何。交通事故?」

「何言ってやがる。襲撃だ」

「……襲撃? 何で? 何の」

「お前がいるからに決まってんだろ。いいか、こっから絶対出んなよ。お嬢、行くぞ」

 そう言われ、自分は《クラウン》だとか何とか言われていた事を思い出した。この世界を創り返る事の出来る人間なのだと。

 そんな事を呑気に考えている間に、クラウディオはポンとフィアレスティアの肩を叩くとドアを開けて外に飛び出して行った。襲撃だと言っていたのにまさかフィアレスティアまで出て行ってしまうとは思わず、驚いて閉められたドアについている窓から外を覗いて見ると、山賊かと思うような風貌の男達が数十人、ぐるりと竜車を取り囲んでいた。

 クラウディオが強いという事はストーカーの一件で知っているが、あの華奢なフィアレスティアが体格の全く異なる男を相手に出来る筈がないと慶太は思っていた。しかし、目に飛び込んできたのは触れただけで男を吹き飛ばしているフィアレスティアの姿という、現実離れした光景だった。CGではないかと思うような出来事に、慶太の口はぽかんと開いたまま塞がらない。

 合気道か気功か……そういった印象を受ける、とんでも技。クラウディオの怪力にも十分驚いたというのに、フィアレスティアのは次元が違う。まるで達人のようだ。

 一方のクラウディオもやはり素手のみで男達を倒していて、彼の場合は格闘技と言うより喧嘩に近い。ただ力を行使しているような印象だ。

 自分がした事ないだけではなく、殴り合いの喧嘩に直面した事すらない慶太にとってそれは、現実とは程遠い感覚だった。友達とプロレスごっこをして遊んでいるものとはまるで違う。それはテレビドラマを見ているかのよう。窓を挟んでいるというのが、余計に錯覚させている。

「……すご……」

 巨漢の男を軽々と蹴り飛ばすクラウディオ。触れただけで大男を吹き飛ばすフィアレスティア。二人の闘う姿は鮮やかとしか言いようがない。そして何よりも、綺麗で華麗だ。

 武器を持っている者に対して怯む事無く立ち向かうその姿は、物語の英雄のよう。

 竜車を取り囲んでいた者達はあっという間に蹴散らされ、最後の一人となった男が持っていたナイフがクラウディオによって蹴り上げられると、遠くの地面に突き刺さる。

 反動で尻餅をついた山賊風の不精髭の、おじさんと呼ばれる年齢の男。

「ったく、この程度の腕で襲い掛かって来るとか有り得ねえだろ」

 クラウディオに追い詰められた不精髭の男の背には岩がある為にそれ以上後退する事は出来ず、不精髭の男の前に立ったクラウディオは左足を上げたかと思うと、不精髭の男の真横に足をついた。ビクリと不精髭の男が身を震わせる。

「何で襲ってきた」

「……」

「どこで知った」

「……」

 完全黙秘を決め込んでいる不精髭の男に対して舌打ちすると、クラウディオはぐっと左足に力を込めた。すると簡単に岩に亀裂が入り、パラパラと落ちていく岩の欠片を横目で見た不精髭の男の顔から血の気が引いていった。

「う、噂だよ!」

「噂? どこの誰がしてた」

「し、知らねえ。聞いただけなんだ。クラウンを連れた連中が山ん中の街に向かってるって。本当にそれだけだ!」

 震えている声、脅えた目、慄く表情、縮み上がった体。ここまで恐怖に支配されている状態で嘘をつけるほど、目の前にいる男に度胸があるとは到底思えない。だとするならば、ここにいる者からこれ以上の詳細な情報を得る事は出来ないだろう。

 クラウディオが岩から足を降ろした事で戦闘が終わったのだと知り、慶太はホッと息をついた。次の瞬間、不意にドアが開き、慶太はドアに全体重を預けていた為にそのまま重力に従って転がるように地面に落ちた。

「わっ!」

 驚いたような慶太の声に、クラウディオとフィアレスティアは振り返り、目に入った光景にクラウディオは眉を顰めた。

「何やってんだ」

「う、動くんじゃねえ!」

 背後から首に腕を回されている慶太。腕を回しているのは、恐らく周りに倒れている連中の一味だと思われるバンダナを巻いた男。

「てめ、ぜってえ出てくんなっつっただろうが!」

 この状況で言う事がそれかと思いつつ、これは不可抗力だと心の中で弁解する。慶太の意思で出て来た訳ではなく、恐らくはこのバンダナの男がドアを勝手に開けた事によるものだ。

 そのまま慶太の方へ向かって来ようとするクラウディオに、バンダナの男が声を荒げる。

「動くと、こいつの首をへし折るぞ!」

 いかにもと言うような悪役台詞。追い詰められた下っ端は本当にそんな事を言うんだと少しだけ感心してしまう。お世辞にも、慶太を捕らえているひょろっとしたバンダナの男にそのような力があるとは思えない。ずる賢さだけが取り柄と言ったところだろう。力では敵わないから、こうして人質を取っている筈だ。

 けれども慶太の細い首が折られないという保証もない。巷で人気の細マッチョという部類の人間かもしれず、実はクラウディオのように怪力の持ち主なのかもしれない。筋肉など、どこにも見当たらないのだが。

 その時、スッとフィアレスティアの目が細められた。冷気が立ち込めているように空気が一瞬にして凍りつくのを肌で感じた。まるで冷凍庫の中にいるような寒さ。否、それ以上。絶対零度と言っても過言ではないほどの寒さを感じて肌が泡立つ。吸った息さえも冷たく感じる。全てが氷結されたかのような空気。

(何だ、これ……)

 怖いと思った。冷たいよりも、寒いよりも、怖い。震え出す体は、寒さからではなく恐怖からのもの。怖くて震えるのは初めてだ。今すぐこの場から逃げ出したくなって、けれどもその感覚も寒さも怖さも、不意に一瞬にして消え去った。クラウディオがフィアレスティアの前に腕を出し、制したからだ。フィアレスティアがクラウディオを見上げる。

「能力は使うな。そんなレベルの相手じゃねえ」

 一歩、クラウディオが足を踏み出した。

「く、来るな」

 バンダナの男を睨み付けたまま、真っ直ぐ歩いて近付く。

「来るんじゃねえ! こいつが殺されてもいいのか!?」

「別に構わねえよ」

「……へ?」

「やりたきゃやればいいだろ。俺には関係ねえからな。ただ、殺るからには殺られる覚悟もしとけよ。人質がいなくなった瞬間、その辺に転がってる連中と同じになると思え」

 ゴクリと、バンダナの男が喉を鳴らした。慶太の首に回されている腕はガタガタと震えていて、その震えは地震でも起きているのかと思うほど大きく、ハッキリ言って情けない。ライオンに狩られるウサギのような心境なのだろうか。

 するりとバンダナの男の腕が、慶太の体からずり落ちた。

「か、勘弁してくれよ~! ほんの出来心だったんだよ~! この通りだ!」

 解放された事で後ろにいるバンダナの男を振り返ってその行動を見た時、慶太は思わずぎょっとした。何故ならバンダナの男は、土下座をしていたのだから。謝る時に土下座をするのはてっきり日本だけのものだと思っていたのに、実は異世界にまで浸透していたらしい。

 呆然としたまま座っている慶太の隣に立ったクラウディオは土下座をしているバンダナの男を見下すように見下ろし足を上げると、何の躊躇をする事もなく男の頭を踏みつけた。唖然とする慶太。バンダナの男の顔は完全に地面に埋まり、衝撃で意識を飛ばしたらしく土下座スタイルのままぐったりとしていて、そんなバンダナの男を一切気にする事無くクラウディオは首をポキポキと鳴らしている。

「どの通りだよ。ったく、やめるんなら最初からやるなっつーの、めんどくせえ」

 ズカズカとだるそうに竜車に乗り込んでしまったクラウディオを、慶太は半眼で見やる。

「ひでえ……」

 容赦がないどころか、血も涙もない。そして、どうやら土下座の意味は彼には伝わらなかったらしい。伝わっていて無視したという事も、クラウディオなら有り得そうだが。

 そうしてクラウディオを見ていると、スッとフィアレスティアが隣を通り過ぎて行くのが横目に映って、慶太は慌てて呼び止めた。

「フィオ!」

 そうすればフィアレスティアは立ち止まり、竜車の手前で振り返る。

「ありがと」

 笑みを浮かべてお礼だけを述べると、フィアレスティアは黙ったまま見返すだけだった。頭上に疑問符が浮いているような気がして、慶太は真っ直ぐにフィアレスティアを見つめる。けれども端正な顔立ちに見つめられるのが恥ずかしくなると、少しだけ視線を彷徨わせた。

「さっきさ、能力使ってオレのこと助けようとしてくれただろ。フィオの能力がどういうのか判んないけど、オレ、フィオに嫌われてるのかもってちょっと思ってたから、すっげー嬉しかったんだ。だから、ありがと」

 この世界の人にとって、能力を使うのは当然の事なのかもしれない。生まれながらに持っていて、能力があるのが当たり前。能力を使ったからといって、周りが驚く事も気味悪がる事も怖がる事もない。息をするように自然な事。

 けれどその常識は、慶太にはない。自分には出来ない特別な事で、能力がある者の感覚は知り得ない。けれどだからこそ分かる事があるのかもしれない。

 自分が、普通の人間がどうして必要とされているのかもまだよく理解できてはいないが、能力がない事がこの世界にとって重要だという事は何となく理解できた気がする。

 そうしてフィアレスティアと向き合っていると、竜車から「早く乗れ」とクラウディオの不機嫌な声が降ってきて、急かされた事でフィアレスティアは言葉に従いさっさと乗り込んでいった。何も返ってこなかった事に不安を覚えて頬をかき、けれど悩んでいてもクラウディオのイライラが増すばかりだと慶太も後に続いて竜車に乗り込めば、竜車は再び走り出した。

 揺られながら、慶太はあの状況でよく逃げなかったなと竜車を引っ張っているドラゴンに感心する。襲われたら普通、動物などは驚いて逃げるものではないだろうか。

 思った事を率直に声に出してみれば、すぐにクラウディオから溜め息が漏れる。

「竜車ってのはそういうもんなんだよ。決められた目的地まで何があっても搭乗者を運ぶ」

「ふぅん、偉いんだな」

「少なくともお前よりは賢いな。言われたことすら守れないお前より、な」

 トゲトゲとした物言い。これはきっと、竜車の外に出た事を言っているのだろう。先程も思ったが、あれはどう考えても慶太に過失はない。そもそも、あんな状況下で一般人の慶太が出て行く筈がない。一瞬でノックアウトされるのは目に見えていたのだから。

 けれどそんな事を言ったところで、言い訳としか受け取ってはもらえないだろう。クラウディオは慶太が悪い前提で話をしているのだから。

「はいはい、オレが悪うございました」

 そう言って大袈裟に頭を下げると、クラウディオから溜め息が聞こえた。これはどうやら回避できたと取っても良さそうだ。チラッと上目でクラウディオを見てみると、頬杖をついて窓の外を眺めているのでイライラが治まった事を確信する。

 頭を上げ、そう言えばと慶太は話題を変えた。

「フィオが強いなんてビックリしたよ。あれがフィオの能力……ってわけじゃないんだよな?」

 わざわざ能力を使う必要はないとクラウディオがフィアレスティアを止めていたのだから違うという事を知ったが、念の為にクラウディオに訊ねてみれば息をついていたので、どうやらまだ相手をしてくれるらしい。無視をする時はとことんまで無視をするので、多少なりとも反応があれば相手をしてくれる事も、この二日で学んでいた。

「ったり前だろ。元々の能力とは違う、努力して手に入れた力だ。クラウンを連れて歩く為には必要な力だ」

 闘う力が必要だという事は先程の襲撃で身に染みている。襲撃の目的がクラウンである事は昨日、アルフォンソに説明してもらったから知っている。そして、こう立て続けに騒動が起こっているのに気が付かないほど慶太は鈍くはなかった。

 クラウディオもフィアレスティアも持って生まれた能力とは別に、鍛錬して力を身に着けたという事だ。例え特殊な能力を持っていても、目的の為に努力をしなければいけないのは同じらしい。世界が違っても能力を持っていても、同じ人間という事なのだろうと慶太は思った。

 その時、再び竜車が急ブレーキをかけて停まった。

「何、また襲撃!?」

 山賊風の男達に襲われてからまだ十数分しか経っていないと言うのに、いくら何でも間隔が短すぎやしないだろうか。クラウディオ達が強いからと言っても、力を行使し続けたら体力的に辛くなってくる筈だ。

 勘弁してほしいと思ったその時、ドアについている窓が叩かれた直後、ドアが開いた。

「この先は駄目だよ!」

 切羽詰ったような声は聞き覚えのあるもので、目に映ったのは先に山間の街へと向かった筈のアルフォンソだった。

「アルフ? 何でここにっ」

 いるのかと訊ねようとした慶太の顔を横向きのまま右からシートへ押さえつけ、クラウディオが身を乗り出した。やけに強引な手段に出たなと思いつつ、慶太を押しのけてまでアルフォンソと話をしようとしている事に緊急事態かと考えた慶太は抗議するのをやめ、口を噤んだ。

「どういうことだ」

「街に《グン》がいるみたいなんだ」

 グンという単語を聞いた瞬間に、眉を顰めてクラウディオの表情がいつになく不機嫌なものになった。否、不機嫌などと生易しい感情ではない。未だシートに押さえつけられている慶太もその殺気立った雰囲気が腕から直に伝わってきて、今すぐこの場から離れたい衝動に駆られている。

 怪力に、このまま頭を潰されてしまいそうな気にさえなってくる。林檎を握力だけで潰すようにぐしゃりと。考えただけで寒気がするほど恐ろしい事なのだが、容赦のないクラウディオならば本当にやりかねない事が更に恐ろしいところだ。

「グンだと? 何で奴らがこんなとこに」

「分からないけど、街に近付いただけでアウトだよ」

「チッ、めんどくせえ」

「この先に分かれ道があるから、海に向かおう。今はそっちの方が安全だって、ミィが」

 慶太を押さえつけているのとは逆の手を顎にあてて思案するような素振りを見せていたクラウディオだが、数秒も待たずに口を開く。

「しゃあねえか。あっちには確か港町があったな。そこに行く」

 結論が出たところで、慶太はつい今し方、話していた事を思い出した。

 一つ問題があるのでは、と。

「でもさ、竜車って最初に決めた目的地に絶対運ぶんだろ? 勝手に変更なんてできるわけ?」

 最初に訊ねた時に、クラウディオはどんな事があっても絶対にと言っていた。という事は、もしもルートから逸れても結局は山間の街に向かってしまうのではないだろうか。

 だが、クラウディオからもアルフォンソからも不安の声はなかった。

「問題ねえよ」

「うん。ミィがいるからね」

 どうしてミーナローザが居ると大丈夫なのかと疑問に思わない筈がなく、不思議そうに眉を顰めていればそのミーナローザがアルフォンソの横にひょっこりと顔を出した。相変わらず体はアルフォンソの背に隠れたままだ。

「目的地、変更してくれたの」

「ありがとう。それじゃ、行こう」

 こうしてアルフォンソとミーナローザが竜車に乗り込み、竜車は再び走り始めた。

 二人が合流した事で、慶太の左隣にフィアレスティアが座り、慶太の向かいにいるクラウディオの右隣にアルフォンソ、更にその隣にミーナローザが座る事になった。

 山間へと続く道の途中にあった左へと伸びる横道に入って行き、細い崖際の道を竜車は走って行く。

 道を逸れたという事は本当に行先を変更してくれたという事。そこで引っかかるのはやはり、ミーナローザが居るから大丈夫だと言ったあの言葉。それが何を指しているのかは慶太には判らないけれど、未だ聞いていないミーナローザの能力なのかもしれないと思ってみる。

 人間以外の生物と心を通わせる事が出来るのかもしれない。鳥や動物と話をするミーナローザを思い浮かべると、似合っている気がする。そういう能力を持っていたとしても、まるで違和感がない。

 もしかしたらあの恥ずかしがり屋な性格は、人間と話すのに慣れていないからかもしれないなと思うと妙に納得してしまった。

「しっかし、グンまで居やがるとはな」

「さすがだよね。もう知ってるなんて、耳が早いよ」

 まったくだと疲れたように息を吐くクラウディオ。そこで慶太はふと、ある事を思った。

「あのさ、さっきから言ってるグンって何? 何かの群れ?」

 キョトンとしたように言えば、クラウディオの眉間に皺が寄った。これはきっと馬鹿にされるか怒鳴られるに違いない。短い時間の中で幾度となく見てきた彼の表情、行動。そこから導き出されるものは限りなく少ない。

「は? アホかお前。グンっつったら軍隊のことに決まってんだろうが」

「……軍隊……? 軍隊!? 軍隊って、戦車乗り回したり、銃ぶっ放したり、巨大なロボットに乗って宇宙で核戦争とかするあれ?」

「そんな感じ。ケイは本当にお馬鹿さんなんだね。僕、ちょっと引いちゃった」

 慶太の中にあるイメージがえらく曖昧なのは、今の日本に軍というものが存在しないからだ。

 軍隊についても慶太の認識はとても曖昧なものだ。戦争のない時代に生まれたのだから仕方ないと言えるかもしれない。世界のあちこちで紛争が起こっているけれど、日本の中学生にとってそれは遠い存在で出来事。軍隊は自分の国を護り自国の為に戦争をする人達、という認識しかない。

 しかし国の為にというところだけは恐らくは間違っていない筈だ。その軍が山間の街に来ていて、会うのはマズいから回避したというのが今の状況だろう。軍に会ってはいけないという事は国に対して何らかの反逆行為を行っているという事なのだろうか。

 とすれば。

「やっぱ、アンタ達テロリストだったんだ……」

 初めて面と向かって心の中でずっと思っていた事を口にすると、クラウディオには半眼で見られ、アルフォンソには失笑され、ミーナローザは目を潤ませてビクビクしている。

「そっか、そうだよね。僕達テロリストだ」

 こんなににこやかに爽やかに明るく、自らをテロリストだと名乗る人物が他にいるだろうか。

「アルフ、何か違う。それ、テロリストの言い方じゃない」

 僕達まだ学生だよね、みたいな軽いノリで言われても口にした言葉の重さが軽くなる事はない。

 しかし、こうして面と向かって直に名乗られてもイマイチ、ピンとこない。テロリストと言えば、自分達が絶対の正義でその為には何をやっても許されると思っていて、残忍な事も平気でやってのける非情な者達だ。

 確かに平気で食い逃げはしたけれど、そんなものは軽犯罪以下。むしろ犯罪にすら属さないような行為だ。クラウディオは容赦のない事をしてきたけれど、拉致したり襲撃してきたり人質にとったりと全て一方的に相手が悪いのだから自業自得と言われればそれまでだ。

 もしかしたら、軍は悪逆非道の組織なのかもしれない。そんな悪をのさばらせない様に正しているのがクラウディオ達で、そんな彼らが目障りだからと敵対しているのだとすれば、全くの誤解という事になる。否、誤解というよりは善悪が逆になるのだ。つまり、それが事実であるとするならばクラウディオ達は正義の味方という事になる訳で。

「あのさ……もしかして軍って、すっごい悪い奴だったりする?」

 そうであるならば勘違いしていて申し訳ないと恐る恐る訊ねてみて。

「んなわけねえだろ」

 あっさり否定された。

「軍は正義の味方って感じだよ。弱い者の味方って言った方が正しいかな」

「弱い者の味方?」

 どういう意味かと首を傾げる慶太にアルフォンソはクラウディオを見、腕組みしたまま説明してやれと顎で促されたのでアルフォンソはそのまま話を続ける。

「この世界にいる人はみんなそれぞれ能力を持っていて、それがクラス分けされてるっていうことは話したよね」

「うん。で、最高クラスがオレなんだろ」

「そう。そのクラスには、当然だけど分ける基準があるんだよ」

 前にも説明をしていたが、クラスⅣは自分にも他人にも影響を与えない能力。例えば、《石から生活用品を生成する》能力、《三日以内に壊れた物を直す》能力など、人体に与える影響は皆無なもの。

 クラスⅢは、自分に影響を与える能力。例えば、《腕の力を十倍に強化する》能力、《足踏みをした数だけ足が速くなる》能力などの肉体強化系の能力。その他にも、《半径二キロメートル以内の建物の中にいる者を見る》能力や《声を聞いた相手の声を真似る》能力など、自らの身体に関係するもの全てがここに入る。

 クラスⅡは、他人に間接的に影響を与える能力。《半径十メートル以内の重力を制御する》能力、《対象の能力を見る》能力、《疑似空間を作り出す》能力など、自分以外の人間に影響を及ぼすもの。

 クラスⅠは、自分にも他人にも影響を与える能力。例えば、《血液からナイフを生成する》能力、《自分に向かってくるエネルギーを反射する》能力、など。戦闘に有利な能力が多いのが特徴と言える。

 そしてクラス特Aは、他人に直接作用する能力。例えば、《触れた相手の思考に潜り込み操作する》能力、《目が合った相手に痛覚を与える》能力など。対象を見たり、触れたり、声を聞かせたりという手法が多い。危険が伴う能力が多いのだが、実はクラウディオにストーカーと言われた男の《触れている相手の動きを封じる》能力と、ストーカーの相棒の《触れた相手に催眠をかける》能力は特Aに入る。

 ちなみに、とアルフォンソはそれぞれの能力を紹介してくれた。

 アルフォンソの能力は「瞬間記憶予知」でクラスⅢ。物事を一瞬一瞬で記憶する事が出来、記憶した様々な事から未来を予測する事が出来るというもの。

 ミーナローザの能力は「飛龍超聴覚」でクラスⅢ。ドラゴンになる事が出来、ドラゴンでいる間は遠くの音を聴く事が出来る。

 クラウディオの能力は「ブレイクアーマー」でクラスⅡ。武器を手にすると、どんなものでも弱点を見る事が出来る。

 フィアレスティアの能力は「心入人形-マインドレイドール-」で特Aクラス。触れたものを凍結させる事が出来る。

 みんなの説明を受けて、先程フィアレスティアから発された冷気が、能力を使う前兆なのだという事を知った。だからクラウディオがフィアレスティアを止めたのだという事も。

「特A、クラスⅠは特に影響力が強いから、下位クラスにとっては脅威になる。ⅢとⅣが他クラスの能力に対抗する事ができないっていうのは判るよね」

「まあ、何となく」

 恐らく、虐めっ子と虐められっ子の違いという事で良いのだろう。

「つまり、強者と弱者の構図になる。弱者は強者に逆らえない。だから、暴行や恐喝、嫌がらせの対象になるんだよ。この世界には法も秩序もなかったからね」

「ちつじょ?」

「つまり、警察も取り締まる人もいない無法地帯って事」

 日本で言えば警察も法律も何もなくなり、喧嘩・犯罪し放題、対抗する手段を持たない一般市民は搾取されるのみ。誰も助けてくれず、されるがまま。恐怖心だけが募る日々になるという訳だ。

 考えただけで恐ろしい光景だ。

「今まで、下位クラスは虐げられるだけだったんだ。もちろん、全ての上位クラスがそういう事をするわけじゃないし、誰もが脅えて暮らしてるってわけじゃないよ。でも、被害に合ってる人がいる事も事実なんだ」

 力がある人間が全て虐めっ子になるかと言えばそうではなく、また、力を持たない人間が全て虐められっ子になるかと言えばそうでもない。虐めの対象になるのは一部の人間だけ。けれども対象がいない事はない、という事なのだろう。

「軍ができてからは殆ど無くなったみたいだけどね。軍には制圧するのに適した能力が集まってるんだ。世界が落ち着いたのは軍のおかげだよ」

「凄いんだな、軍って。軍を創った人は救世主ってとこか」

「そうだね。皇帝陛下は救世主かもしれないね」

 またサラッと言われた言葉に一瞬驚いた慶太だったけれど、日本にも総理大臣や天皇がいるのだから、この世界に皇帝が居たとしてもおかしな事は何もないので声を上げる事はなかった。

「皇帝陛下が創った軍だから、僕達は皇帝軍って呼んでるよ」

「皇帝軍……」

 何だか凄い呼び名だなと思う。仰々しいと言うか威圧的と言うか、何だか物々しい感じがする。それに、軍というのはその国の名前がつくのではないだろうかと思った。他の国の軍の名も大抵その国の名で、連合軍や地球軍などという軍も存在するにはするが、宇宙規模のものはフィクションとなるから別だろう。

 ただ単純に創設者の名を入れているだけだろうか。アルフォンソもそう言っており、深く考える事ではないと思ったその時、慶太の体に慣性の法則が働いた。本日三度目になる急ブレーキである。

「何なわけ、さっきから! オレなの、オレのせい?!」

 二度ある事は三度あると言う。半ば自棄のように声を荒げた慶太に、立ち上がったクラウディオは真正面から慶太の頭を鷲掴みにするとシートへ押し付ける。シートに押し付けられるのも二度目となり、またかよと思った慶太だったけれど力の差は歴然で、何を言ったところでクラウディオが慶太の言う事を聞かない事も判り切っているので押し黙った。

 今はクラウディオをイラつかせている場合でもなさそうだという事は、車内に漂っている緊張感から伝わってくる。アルフォンソが服にしがみついているミーナローザを宥めているけれど、その表情はとても険しいものだ。

 その理由は、響いてきた声ですぐに明らかとなった。

「我々は皇帝軍である。逃亡中の凶悪犯が竜車に乗っているという情報があり、捜索している。確認の為に即刻降りられよ」

 あれ、と思わず慶太の口から声が漏れた。

 てっきり、クラウディオ達を追尾して来たのかと思っていたのだが、どうやらそういう訳でもないらしい。逃亡中の凶悪犯と言えば、思い浮かぶのは指名手配犯か脱獄犯。それを追跡しているのであれば、山の中だろうが崖の上だろうが所構わず竜車を止めるのは当然の事だろう。

 警察が検問を張るのと同じ事。それが彼らの仕事なのだと言うのであれば、協力するのが一般市民の義務だ。どうやら、軍という名の警察だと考えて良さそうだ。

「誰か捜してるみたいだから、大人しく出てった方がいいんじゃ――」

「黙ってろ」

 鋭い目で一睨みされると委縮してしまう。これが蛇睨みというものか。確かに動けなくなるのだから、効果覿面と言える。

 しかし委縮した筈の慶太は、クラウディオが腰に手を回して握った物を見た瞬間に思わず声を荒げていた。

「何する気ですか?!」

 クラウディオが取り出したのは、持ち手が逆を向いていて柄の形状がアームガードのようになっている刃渡り二十センチメートルはありそうな短刀。ファンタジーなゲームに出てきてもおかしくないビジュアルのそれ。しかし問題なのは見た目ではなく、短刀そのものだ。

「黙ってろ。気が散る」

 それを右手で胸の前で構えるように持ち、目を閉じるクラウディオ。距離はあるけれど刃が慶太の方を向いている為に背筋が薄ら寒くなった。

「いや、んなこと言ったって!」

 抗議の声を上げれば、しーっと向かいのシートから声のような音のようなものが聞こえて視線を動かせば、口元に人差し指をあてて合図を送ってきているアルフォンソとミーナローザが映った。さすがにこの二人に注意をされると黙るしかなく、声を出さないように慶太は口を結ぶ。まさかミーナローザがそういう事をするとは思わず、驚きと共に何だか穏やかな気持ちになるのを感じていた。

 しかし視線を少しずらすとクラウディオが映り込み、気持ちは一気に引き締まる。クラウディオと、アルフォンソとミーナローザ。緊迫感と緩さのギャップが激しすぎて頭の中は軽くパニックになりそうだ。

 今の状況を考えるとクラウディオが正解なのだろうが、個人的には緩い方でいたいと思う。押さえつけている手から伝わってくるものを全て無視して。

「我々の要求に従わぬ場合は反逆行為と見做し、武力行使も厭わない。これは忠告ではなく、警告である!」

 竜車の外は外で、穏やかとは程遠い。

 クラウディオには黙っていろと一喝され、アルフォンソとミーナローザには黙っているように促されたものの、このまま無視を決め込んでいればそう遠くない内に突入されるであろう事は簡単に予想できる。どうやら皇帝軍の者達は竜車を崖ギリギリまで押しやり、半円状に竜車を囲んでいるようだ。隣にいるフィアレスティアは我関せずとしていて、今の慶太に味方はいない。

 しかしながら、この手の組織の人間に逆らって良い事があるとは到底思えない。何故なら、警察に逆らうなど進んで犯罪者になるのと同じ事だと思っているから。公務執行妨害というものだってあるのだから、それが皇帝軍にないとも限らない。

 クラウディオ達はどうしても皇帝軍との接触を避けたいようだが、軍から逃れなければならないほど疾しい事があるようにも思えない。彼らは世界崩壊を目指している、自称テロリストなのだから――――疾しい事、大有りだった。

「速やかに投降せよ! これが最後の警告だ!」

 いつの間にか投降する事になっている。無反応は肯定と受け取る主義なのだろうか。

 これは本格的によろしくない事態だ。慶太はすでに、今すぐにでも出て行きたい衝動に駆られているのだが、何分、押さえつけているクラウディオが一切力を緩めてはくれない。

 かと思われたが、フッと頭から手が離れた次の瞬間に慶太とクラウディオが居る方のドア、皇帝軍とは逆のドアがクラウディオによって蹴破られると、子猫よろしく首根っこを掴まれた慶太は勢いよく竜車の外へと放り投げられた。

「え……」

 声が漏れた時に視界いっぱいに広がっていたのは、青。それから竜車のある崖、そして竜車を取り囲んでいる同じ鎧や制服に身を包んだ者達。それら全てが段々と高くなっていって、自分が落下しているのだと気付いたのは、全てが見えなくなり崖しかなくなった頃。

「って、嘘だろおおぉおお!?」

 人生二度目の紐なしバンジージャンプ。今回は背中から落ちているので下が全く見えない状態だ。地面との距離を測りながら落ちるのは嫌だが、どこまで落ちるのかいつまで落ちるのか判らないというのも相当な恐怖であり、慶太的には非常に困る。上空何千メートルとはいかないだろうが、距離を知っているのと知らないのでは恐怖は段違いだ。

 紐なしバンジージャンプと言っているけれど、飛び降り自殺とやっている事は全く同じなのだから、下手をすれば命を落とすのだ。冗談抜きで。

「クロウのバカー! アホー! 人殺しー!」

 恐怖から、目に浮かぶ涙が上空へと消えていくという初めての体験に感動する暇もなく、今できる精一杯の悪あがきで思い浮かんだクラウディオへの精一杯の罵倒を叫んだ直後、突如、空が陰った。雲はない。それとは別の巨大な何かが、慶太が落とされた崖の方から飛び出したのだ。逆光で影にしか見えないそれは一直線に慶太へと向かって来ていて、スッと慶太の横を通り過ぎて行った。

 何が起こったのか理解できず、成す術なく落下しているとふわりと体が浮いたような感覚を覚えた。自分の体が何かに乗っている。樹の上にでも落ちたのだろうかと思った時、自分の両脇に現れたのは翼。鳥の翼とは全く異なる形状のそれには見覚えがある。現実の世界では決して見る事のない翼。

「へ? ……んな……ドラゴン!?」

 慶太が乗っていたのは、白に近い緑色のとても美しい空想上の生物であるドラゴンだった。左耳には黄色い球が垂れ下がったピアスをつけている。幻想的、神秘的という言葉はこのドラゴンの為にあると言っても過言ではないほどの優雅な姿に目を奪われる。

 一瞬、竜車を引いていたドラゴンが飛び出して来たのかと思ったが、猛々しい雰囲気の竜車のドラゴンとは似ても似つかない。何より、慶太が乗っている白緑のドラゴンにはまるで絹のような透明感のある翼が生えている。

 体を起こしてドラゴンに跨るような体制になると、そっと首の付け根辺りに触れてみた。動物とは全く違う、柔らかい鱗のような未知の感触だった。

「助けてくれるのか?」

 振り向いた白緑色のドラゴンの、宝石のような黄色の双眸が慶太を捉える。ドラゴンが頷いたその時だった。ガツンと交通事故に遭ったかのような強烈な衝撃が走った次の瞬間、バランスを崩した慶太は再び地面に向かって真っ逆さまに落ちていた。

「えええぇぇええ!」

 すぐに視界は緑で埋め尽くされ、樹の上に落ちたのだと気付いたのも束の間、そのまま重力に従って慶太は草と葉っぱで出来たクッションへ背中からダイブした。

「~~っ!」

 落ちた高さのせいか受けた衝撃は凄まじく、背中を強く打ちつけた事で肺が圧迫されて息が出来ない上に、痛みで声も上げられない。

 数秒間、身じろぎ一つ出来ずに仰向けのまま寝転がっていたけれど、時間が経ったからか呼吸が出来るようになるとむさぼるように息を吸い込み、むせ返る。

 大慌てで呼吸を再開したからか、運動後のようにゼーハーと息が上がっていてとても荒い。動けそうだったけれど息が整うまでは今しばらくこのままでいようと思い、腕を大の字に広げた。

 落下時間から考えて、かなりの高さから落ちた筈だというのに痛みを感じるのは直接打った背中のみ。それも衝撃からくる痛みだったのか、今はもう和らいでいる。樹の枝にも相当ぶつかっているのだから怪我くらいしていてもおかしくはないが、あるのは多少の擦り傷のみ。

「何でオレ、無事なんだろ……」

 無事だったのならば何よりで、大怪我をしたかった訳ではない。けれど、にわかに信じ難い。確かに背中から伝わる葉っぱのクッションはとても柔らかく、体育の高跳びの時に使うような分厚いマットを思い出すけれど、それにしても衝撃を吸収し過ぎではないだろうか。

 丁度良かったと言うか都合が良いと言うか、よく落下地点にあったなと思ってから見上げた遥か上空に、小さく空が見えた事でその理由を知る。

「って、オレがバッキバキに折った枝と、その時落ちた葉っぱの山じゃんか」

 ふと横目で葉っぱの山を見てみれば所々枝が突き出ている事で、確信した。

 途端にさっと葉っぱのクッションから降りると、枝を折ってしまった樹の前に正座をする。

「悪気はこれっぽっちもなかったしかなり不可抗力だけど、すいませんでした」

 とりあえず土下座してみる。樹を相手に誠意の見せ方が判らなかったので、自分の中で最も誠意が伝わるものを選んでみた。クラウディオには全くもって伝わらなかったものだが、樹には少しでも伝わってくれている事を祈って。

 それから立ち上がって服の埃を落とし、数秒の沈黙の後、思わず溜め息が漏れた。

「にしても、フィオには突き落とされるわ、クロウには崖から投げ飛ばされるわ……誰だよ、オレのこと必要とか言ったヤツ。アイツら、絶対オレのことどうでもいいだろ」

 必要だから来てほしいと半ば強引に連れて来た者に対する行為ではない。世界を変える為に必要な人間をこんなに粗末にするなど、彼らの気が知れない。罰ゲームでさえ、もう少し扱いは良いというものだ。

 今一度、空を仰いでそこに白緑色のドラゴンがいない事を確認するとまた溜め息が漏れた。

「あのドラゴン大丈夫かな。返事する為によそ見して樹にぶつかるとか……ドジっ子?」

 樹にぶつかる危険性がある高さで飛んでいたのであれば別に返事をしてくれなくても良かったのにと思う。律儀なのか、マイペースなのか、何も考えていないのか。それでも助けようとしてくれていた事は事実なので何も文句はない。相当痛そうだったから心配なだけだ。

 墜落の恐怖も和らぎ、大分落ち着いて改めて辺りを見ると、見事に樹ばかりだった。と言うより、樹しかなかった。傾斜はないけれど、登山道から外れた山の中といった感じだ。クマ出没注意という看板があっても驚かないような、そんな森林の中に佇んでいる。

「オレ、こっから出れるかな……」

 もしここが樹海のような場所だったとしたら、それは死を意味する。普通の森林だったとしても道がなければ遭難するというのに、方向感覚が狂ってしまうような樹海だったら抜け出る事など出来る筈がない。そもそも、樹海のような場所だったならば、放り投げたクラウディオは冗談抜きで人殺しになる。

 迷った時は動くなと言うのが鉄則だが、この状況で動かない方が駄目な気がしている。ドラゴンがいる世界なのであれば、モンスター的な何かが居てもおかしくはないのだから。地球にいるような普通のクマやオオカミが出て来たとしても慶太は軽くノックアウトされるだろうから、このままじっとしていても助かる保証はない。とにかく森から抜け出なければと、慶太は草を踏みしめ歩き始めた。

 森林から抜け出たのは数十分ほど経った頃だった。案外楽に出られたなと、心配が杞憂に終わった事に安堵する。携帯電話は持ち歩いたままだったけれど、先程落ちた時に下敷きにしたので画面は割れていた。帰ったら怒られるだろうかとも思ったのだが、不可抗力でしかないといい訳をしてみる。元々、この世界に携帯電話は存在していないらしく、持っていた所で使えないから同じだろう。

 森を抜けた先にあったのは小高い丘のような場所で、下方には海が広がっている。

 海沿いには街と思しきものが見え、船が何艘も停泊している所を見ると、どうやら目指していた港町らしい。ただ、ここから港町までどのくらい距離があるのか定かではない。街と言っても遠くに小さく見える程度なのだから。けれども、森の中と同様に立ち止まってなどいられない。

 そう思って丘を下って行くと、一軒の家を発見した。キャンプ場にありそうなログハウスみたいな家だ。その家を囲むように色とりどりの花が咲き乱れ、それは庭園かと見紛うほど圧巻だった。

「すご……」

 本来、男なのであまり花に興味がある方ではないけれど、ここまで立派なものを目にすると最早そんな事は関係なかった。マリーゴールド、薔薇、スズラン、コスモス、百合など、色も種類も様々だ。慶太が判るのは薔薇くらいなものだったけれど、それぞれが違う種類だという事くらいは、幾ら疎くても一目瞭然だ。

「おや、珍しい。どうかなさったかね」

 落ち着いた男性の声にビクリと身を震わせ振り返れば、そこには白髪頭にサンタクロースのような立派な髭を生やした物腰柔らかな初老の男性が、優しい微笑みを浮かべて立っていた。

「や、あの、オレ別に怪しい者じゃなくて、ちょっと人生以外の道に迷ったっていうか、その……いや、迷ってはいる、のか?」

 あたふたとして軽くパニック状態になっている慶太。自分でも何を言っているのかよく判らなくなってきた。

 するとサンタ髭の男はホッホッと笑う。何だか笑い方もサンタクロースみたいだ。

「旅人かと思ったらお前さん、迷子だったのかい」

 どうやら墓穴を掘っていたらしい。この世界では子どもが旅をする事はよくあるようだ。思えば、クラウディオ達も外見的に成人はしていない筈で、そこまで頭が回らなかった自分が恨めしい。

 厳密に言えば慶太は迷子ではないのだが、今の状況ではそう変わらないだろう。中学生になって迷子などと決して肯定したくはなかったのだが、慶太は恥ずかしさに耳まで真っ赤にしながら頷いた。ここで嘘をついたり見栄を張ったりしたところでどうにもならず、する必要性も感じないのだから。それに、デパートやテーマパークのように迷子の放送が入るわけでもない。

「どこに向かおうとしていたんだね」

「港町。友達、ともはぐれちゃって」

「それは大変だ。しかし、ここから港町までは遠いからのう。もうすぐ陽も暮れる、夜までに辿り着けない以上、今日は諦めた方がいいだろう」

 太陽の状態から、陽が沈みきるまで数時間ある筈なのだが、それでも辿り着けないと言うのであれば見えている以上に遠いのだろう。地の利のない慶太では、更に時間が掛かる筈。

 がっくりと項垂れる慶太に、サンタ髭の男は優しく言葉をかける。

「お前さんさえ良ければ、今日はここに泊まっていきなさい」

「え、いいの?」

「ああ。港町には明日の朝、向かえば問題ないだろう」

 ニッコリと笑って迎え入れてくれたサンタ髭の男、基、ハンクスという名らしい男性に案内されたのは、庭に面しているらしいバルコニー。正直どこが庭だか判らない程に花で埋め尽くされているけれど、家主が庭と言うのだから庭なのだろうと納得し、バルコニーに並んで腰掛けた。

 若い頃に奥さんを亡くし、ずっと一人でここに住み続けていると言う。

「花、好きなの?」

 愚問だとは思ったけれど他に話題がないので振ってみると、ハンクスは微笑んだ。

「それもあるが、私の能力は《土に植えた種を芽吹かせ花を咲かせる》というものでね」

「……どういうこと?」

 普通に育てるのと何が違うのかと首を傾げると、ハンクスは傍に置いていた小さな麻袋から種を一粒取り出し、庭の一ヶ所に小さな穴をあけると種を置いて土を被せた。

 するとすぐに芽が出、にょきにょきと成長し、数秒もかからずに蕾からピンク色のチューリップが咲いた。

「すっげー」

「要するに、花の成長を早める能力という事になる。何の役に立つのか判らない、クラスⅣの能力だよ」

「何で? 凄いじゃん、本物の花咲かじいさんってことだよ。オレは尊敬するけどな」

「そう言ってもらえると嬉しいねえ。けど、上位クラスとは比べ物にならないだろう」

 途端にハンクスの表情が曇る。それを見て、竜車でアルフォンソから聞いた話を思い出していた。

「もしかして、じいちゃんもイジめられてたのか?」

「……ああ。花を踏み荒らされ、家を壊され、沢山の物を奪われた。皇帝軍が出来たおかげで、そんな事はもうないがね」

「じゃあ、じいちゃんも皇帝軍は正義の味方だって思う?」

「そうさな……私らにとって皇帝軍は言わば英雄。皇帝陛下は神様のようなお方だ」

 ヒーローと神。そう思えるほどに、上位クラスからの嫌がらせは酷かったのだろう。苛めた事も苛められた事もない慶太には実際には分からないけれど、テレビの中でなら見た事があるので想像は出来る。けれども、それは想像でしかない。ハンクスがどんな思いをしたのか、どれ程の事をされたのか、知りうる事は慶太には出来なかった。

 地獄のような日々に光を差してくれた皇帝。それが神のように思えるのは、救いの手を差し伸べてくれる者が誰もいなかったから、縋るものがなかったから。だからこそ心酔しているのだろう。

「そういえば、一人暮らしだって言ってたけど、子どもは?」

 いないのかと訊ねれば、ハンクスが目を伏せた。

 また、してはいけない質問をしてしまったような気がする。

「娘がいたが、七年前に亡くなってしまったよ」

「あ……ごめんなさい」

 やはり質問を間違えてしまったらしくしゅんとすると、気にしないでくれとハンクスは慶太の頭を優しく撫でる。

「いいんだよ、事故だったのだから」

「事故って?」

「クラスⅡ同士の諍いに運悪く巻き込まれてしまったらしい。まだ二十三だったというのに。私に上位クラスの能力があればと何度思った事か。私に出来たのは、娘の大好きな花を墓の周りに咲かせる事だけだった」

 夕陽を見つめるハンクスの顔はとても淋しそうで、そんな気持ちを振り払うように慶太は声を上げた。

「何言ってんの! それはじいちゃんにしかできないことだろ。凄いことじゃん。じいちゃんの娘、絶対嬉しかったって。オレだったら何にもできてないもん!」

「え?」

「だってオレ、能力なんてないから」

 驚いてハッとしたような顔になったハンクスを見て、そこで漸く慶太も気付き、ヤベッと口元に手を当てたけれどもう遅い。つい、話の流れでうっかりポロッと漏らした事実は、他の者に決して知られないようにしろと例のストーカー事件があった後にクラウディオに口煩く言われていた事だ。

 それをあっさりと口にしたのは、きっとハンクスになら言っても大丈夫だと思ったからだろう。隣にいる老人が、今まで襲ってきた連中のような事をするとは思えない。

「あ、今のナイショね。オレから聞いたって誰にも言わないでね」

 話してしまった事はもうどうしようもないので口止めだけはしておく。と言うよりお願いに近い。切実な。

 クラウディオにバレたらどやされるどころでは済まない筈だ。何せ、躊躇う事無く慶太を崖の上から放り投げる男なのだから。 

 拝むように懇願すると、ハンクスはニコッと笑った。

「判っているから安心しなさい。ここに近付く者はそういない、漏れる事はないだろう」

「そっか、良かった」

 ホッと胸を撫で下ろした慶太に微笑み、ハンクスはココアを淹れてくると言って家の中へ入って行った。数分で戻って来たハンクスからカップを受け取り、一口飲んだ。甘いアイスココアが口いっぱいに広がる。

「そういえば、じいちゃんともこうやって一緒にココア飲んだなー。オレのじいちゃんってさ、コーラかココアしか飲ませてくんないの。どんな二択だよって言いながら、兄ちゃんといっつも一緒に笑ってた」

 子どもには甘い飲み物って思ってたのかなと慶太はカラカラ笑う。まるで自分の祖父と居るような錯覚を覚えるからだろうか、何だか懐かしい気持ちまで込み上げてくる。外見も雰囲気も全く異なるのに、不思議だ。

 空はすっかりオレンジ色で、太陽は地平線の向こうへ消え始めている。

「あれ、じいちゃんのこと思い出したからかな……安心したら、何か眠く……」

 ガシャンと手に持っていたカップが地面に落ちて割れ、体はバルコニーに倒れた。スー、スーと規則正しい寝息が聞こえていて、ハンクスは持っていたカップを床に置くと立ち上がった。

「皇帝陛下は私ら低ランクにとっては神様だ。君のような子がクラウンなど……」

 慶太を見下ろす目に、優しさは欠片もない。冷たく凍りついた瞳、表情、そして心。

「皇帝陛下を脅かす者は全て消えてもらう」

 バルコニーの傍に置かれていた鉈を手にし、振り上げる。オレンジ色に鈍くギラついたそれを眠る慶太に勢いよく振り降ろした。だが、突風が吹き荒れた事で手が止まり、寸での所で慶太には到達しなかった。

 もう一度、鉈を振り上げようとして、けれどもそれは聞こえてきた声に止められる。

「その子の事、殺してもいいけど、後で苦しむのは貴方ですよ」

 声のした方へハンクスが視線を向けると、沈みゆく太陽を背に立っているのは、息を切らし肩を上下させているアルフォンソ。

 真っ直ぐに見つめてくるアルフォンソにハンクスの表情が変わる事はなく、凍てついたままだ。

「この世界に必要なのは新たな王ではない。現在の皇帝なのだよ。この子がいなくなれば皇帝陛下が脅かされる事はないだろう。皇帝陛下は私らにとって救世主なのだ」

「本当にそうですか? 貴方の娘さんが、皇帝軍に殺されていたとしても?」

 ハッキリと言い放ったアルフォンソの言葉に、凍てついた心にヒビが入る。

 動揺を隠しきれないハンクスの瞳は揺れ、愕然としたような表情になったけれど、すぐに目つきが鋭くなる。

「……何を言っておる。娘は事故だったんじゃ! でたらめを言うでない!」

「でたらめじゃありませんよ、ハンクスさん」

「何故、私の名を……!」

 一度も口にしてはいない筈なのにと驚く彼に、アルフォンソは一度目を閉じ、深呼吸してからしっかりとハンクスを見据えた。その目に、強い光が宿っているような気がした。

「僕は一度でも目にしたり耳にしたりしたものは決して忘れません。この辺りに、花の好きなハンクスという老人が住んでいると聞いた事がありました」

 だからですと説明し、一拍置いてから話を続ける。

「これも何年も前に聞いた話です。貴方の娘のアナベルさんには当時、将来を誓い合った恋人がいたそうです」

「将来を誓い合った恋人だと? 私はそのような話は一言も――」

「ええ。貴方に報告しようとしていた矢先だったらしいです」

 アナベルの恋人は些細なトラブルから下位クラスの男性に怪我を負わせ、そこへ駆けつけた皇帝軍はクラスⅠだったアナベルの恋人を責めたてた。危険な罪人としてアナベルの恋人は牢獄へと連行され、アナベルは無実だと皇帝軍に訴えかけたが聞き入れてもらえず、数日後、恋人が処刑されたと通告された。感情により能力値が変化するアナベルは哀しみにより自分の能力を抑えきれず暴走し、軍に処刑された。その後、皇帝軍はアナベルの死を事故として処理し、ハンクスにもそう伝えたという。

 知っている真実を話し終えた時、鉈を持っている腕は完全に脱力していた。

「そんな……そんな事がある筈がない……」

「辛いでしょうけど、真実です。多を助ける為に一を犠牲にする。これは世界としては当たり前なのかもしれません。けれど、一となった者や家族に運が悪かったですねと言って終わりなんて、惨い。しかし皇帝軍はそれさえもせず、体裁を護る為に隠蔽しました。そんな皇帝軍を信じ……彼を、殺しますか?」

 最後の言葉は、とても優しい口調だった。それだけに心に深く突き刺さる。

 皇帝の名の元に囚人を処刑し、民の為に娘を殺し、真実を闇に葬ったた皇帝軍。皇帝陛下の為に普通の人間だからという理由だけで慶太を殺そうとしたハンクス。どこが違うと言うのだろうか。

 痙攣したかのように小刻みに震える手から鉈が滑り落ちた。慶太を殺害する意思がなくなった事を確信するとアルフォンソの顔に笑みが浮かんだ。

「ハンクスさん。彼は、この世界においてクラウンがどういう存在なのかという事は知っています。それでも、クラスⅣの貴方の能力を凄いと言う。そういう子なんですよ、ケイは」

「お前さん……もしや、話を聞いていたのか」

「ええ。彼女のおかげです」

 そう言って横の方に視線を向ければ、恥ずかしそうに家の影からこっそりと覗いているミーナローザがいて、ハンクスと目が合うとさっと隠れてしまった。その光景にアルフォンソもハンクスも穏やかな笑みを浮かべる。

 それからアルフォンソは慶太に近付くと、その肩を揺さぶった。

「ケイ、起きて。ケイ」

 そうすれば慶太から声が漏れ、ゆっくりと薄っすら目が開いた。

「んぁ……アルフ?」

 開ききっていない目で顔を確認した慶太はすぐに頭が覚醒したらしく、見開くように目を開けたかと思うとバッと飛び起きた。

「アルフ、何でここに?!」

「何でって、迷子になったケイを捜しに来たんだよ。ミィと一緒にね」

 そう言ってミーナローザを見れば再び顔を出している。何だかホッとした。捜しに来てくれた事に、一人で港町に向かわなくて良くなった事に。

 離れた所に竜車が停まっているから、すぐに港町に向かおうと言うアルフォンソに促された慶太は立ち上がり、それからハンクスを振り返った。

「あ、そうだ。あのさ、植える花なんだけど、リクエストしてもいい?」

「リクエスト?」

 突然何を言い出すのかという表情のハンクスを気にせず、慶太は言葉を紡ぐ。

「オレさ、花ん中で好きなのが紫陽花なんだ。ちっちゃい時に雨ん中で咲いてるの見てから何か好きでさ」

 紫陽花。この庭には咲いていない花。その花の名に、幼少期の娘の姿を思い浮かべた。アナベルという名は紫陽花からとったもの。目の前にいる無能力の少年は、その事など知らない筈だ。何故なら、彼の前では娘の名を一度も呼んではいないから。それに、花の事はよく判らないとも彼は言っていた。

「あ、あと。オレ、橘慶太って言うんだ。だからタチバナ! これ絶対ね!」

 ニカッと笑う慶太に、面食らったような顔になったのはハンクスだけではなかった。表情から、アルフォンソもどうやら知っているらしいという事をハンクスは悟った。知識として頭に入っているのだろう。けれどアルフォンソが何かを口にする事はなく。

 ニコリとハンクスが笑う。

「タチバナか……花が咲くのが楽しみだ」

 それからハンクスに別れとお礼を告げ、手を振りながらハンクスの家を後にするのだった。

 ハンクスの姿を視界に捉えつつ、アルフォンソは苦笑する。

(タチバナが花じゃなくって樹だって事、教えた方がいいかな……?)

 しかし、花に詳しいハンクスが知らない筈がないのに訂正しなかったという事は、きっとそれで良いのだろうとその考えを消し去った。

 花のように一瞬で咲かせるのは難しいだろうけれど、一人きりのハンクスにとっての愉しみとなる事だろうと思いながら、アルフォンソは慶太とミーナローザと共に港町を目指した。


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