第5話 認知症利用者への声かけと誘導
介護現場では、声かけが非常に重要である。
声かけは、ただの会話ではない。
利用者を安心させるための技術であり、必要な行動へ導くための技術であり、拒否や不穏を減らすための技術でもある。
特に認知症利用者への対応では、声かけの良し悪しがその後の流れを大きく変える。
同じ内容を伝えているのに、言い方ひとつで受け入れてもらえることもあれば、拒否が強くなることもある。
同じ誘導をしているのに、ある職員ならスムーズに動いてくれるが、別の職員だと怒ったり不安定になったりすることもある。
これは珍しいことではない。
認知症利用者への対応では、正しいことを言えば通るとは限らない。
「トイレに行きましょう」
「さっき行っていませんよ」
「汚れているかもしれません」
「危ないから座ってください」
「薬を飲んでください」
これらは、職員側から見れば必要な声かけである。
しかし、利用者側がその言葉をどう受け取るかは別である。
トイレに行きたくない。
もう行ったと思っている。
汚れていると言われて恥ずかしい。
座れと言われて命令されたように感じる。
薬を飲まされることに不安を感じる。
自分の行動を否定されたように感じる。
そう受け取られれば、拒否や怒りにつながる。
だから、認知症利用者への声かけでは、言葉の内容だけではなく、相手が受け取りやすい形に変えることが重要になる。
基本は、優しく丁寧に声をかけることである。
たとえば、トイレ誘導なら、
「トイレに行っておきましょうか」
「今のうちに行っておくと安心ですよ」
「確認だけさせてくださいね」
「少しだけ見せてもらってもいいですか」
「念のため行っておきましょう」
このように、言い方を柔らかくする。
もちろん、利用者によって通じる言い方は違う。
だから、どの言い方がその人に合うのかを覚える必要がある。
同じ「トイレに行く」という目的でも、言葉の選び方によって結果が変わる。
真正面から「行ってください」と言うと拒否が出る人でも、「確認だけさせてくださいね」と言えば動いてくれることがある。
「汚れているかもしれません」と言うと怒る人でも、「少し整えておきましょうか」と言えば受け入れてくれることがある。
「危ないです」と言うと反発する人でも、「こちらで少し休みましょう」と言えば誘導できることがある。
介護の声かけは、相手を言い負かすためのものではない。
相手に納得してもらい、安全な行動へつなげるためのものである。
ここで重要なのは、否定しすぎないことである。
認知症利用者は、実際にはトイレに行っていなくても、「もう行った」と言うことがある。
汚染確認ができていなくても、「大丈夫」と言うことがある。
薬を飲んでいなくても、「飲んだ」と言うことがある。
何度も同じ訴えをしていても、本人の中では初めて言っている感覚の場合もある。
この時、職員が強く否定すると、関係が悪くなることがある。
「行っていませんよ」
「飲んでいませんよ」
「さっきも言いましたよ」
「何回も同じことを言っていますよ」
こう言いたくなる場面はある。
現場は忙しい。
同じ訴えが何度も続くと、職員も疲れる。
時間がない時に繰り返されると、苛立つこともある。
しかし、強く否定しても、良い結果にならないことが多い。
本人が不安定になる。
怒る。
拒否が強くなる。
帰宅要求が増える。
職員への不信感が出る。
その後の介助が難しくなる。
だから、正面から否定するより、言い方を変えて誘導する。
「確認だけさせてくださいね」
「念のため見ておきましょう」
「一緒に行っておくと安心ですよ」
「少しだけこちらへお願いします」
こうした声かけで、相手の気持ちを大きく傷つけずに必要な確認へつなげる。
もちろん、すべてが上手くいくわけではない。
どれだけ丁寧に言っても拒否が出ることはある。
その場合は、少し時間を置く。
別の職員に頼む。
言い方を変える。
危険度が高い場合は、他職員と相談して対応する。
介護では、職員によって利用者の反応が変わることがある。
この職員ならトイレに行く。
この職員なら薬を飲む。
この職員なら落ち着く。
逆に、この職員だと拒否が強くなる。
そういう相性はある。
それを個人の好き嫌いだけで片づけるのではなく、現場の技術として使うことも大事である。
自分で対応しようとして拒否が強くなるなら、通りやすい職員にお願いする。
別の職員が声をかければスムーズに動くなら、その方が安全で早いこともある。
介護は、職員一人の意地で進める仕事ではない。
現場全体で利用者を安全に誘導する仕事である。
無理に自分だけで押し切る必要はない。
特に認知症利用者の場合、無理やり誘導することは危険である。
手を引くことはある。
体を支えることもある。
安全のために方向を変えることもある。
しかし、無理やり引きずるように誘導してはいけない。
利用者が怖がる。
身体をこわばらせる。
拒否が強くなる。
怒りや不安につながる。
転倒リスクも上がる。
職員への不信感が残る。
さらに、その場だけでは終わらないこともある。
無理な誘導によって精神的に不安定になる。
帰宅要求が頻回になる。
日勤帯だけでなく、夜勤帯にも不穏や異常行動が出やすくなる。
雑な対応は、その場を一瞬だけ進めるかもしれない。
しかし、後で現場全体を重くすることがある。
だから、認知症利用者への誘導では、言葉や手引きでゆっくり行うことが基本である。
急がせすぎない。
否定しすぎない。
怖がらせない。
本人が動ける速度に合わせる。
必要な時は理由を変える。
通りやすい職員に頼む。
無理に押し切らない。
これらは、甘い対応ではない。
現場を安定させるための技術である。
同じ訴えが頻回にある場合も難しい。
「トイレに行きたい」
「家に帰りたい」
「財布がない」
「家族はどこか」
「ここはどこか」
「まだ帰れないのか」
こうした訴えが何度も繰り返されることがある。
職員側からすれば、また同じ話である。
しかし本人にとっては、毎回本当に不安なのかもしれない。
同じ訴えでも、完全に放置できない場合が多い。
特にトイレの訴えは判断が難しい。
頻尿で何度も行きたがる人もいる。
実際には出ないこともある。
しかし、本当に排泄がある場合もある。
汚染確認が必要な場合もある。
放置すれば失禁につながることもある。
だから、ただ「さっき行ったからいい」と切り捨てるのは危険である。
可能であれば対応した方がよい。
少なくとも、観察する必要がある。
ただし、すべての訴えに毎回同じ強度で対応することは、現場の人数によっては難しい。
その場合は、危険度を見る。
今すぐ転倒や汚染につながりそうか。
本人が不安定になっているか。
本当に排泄の可能性が高いか。
他の利用者対応との優先順位はどうか。
少し観察を増やせば対応できるか。
ピンポイントで誘導すれば済むか。
危険が少ない場合は、その都度観察する頻度を増やし、必要なタイミングで対応する。
完全に放置するのではない。
かといって、毎回すべてを最優先にするわけでもない。
観察しながら、必要なところで動く。
これが現実的な対応である。
認知症利用者の行動には、ある程度のパターンがあることも多い。
この時間になるとトイレを訴えやすい。
夕方になると帰宅要求が出やすい。
疲れると不穏になりやすい。
特定の職員の声かけなら落ち着きやすい。
大きな音があると不安定になりやすい。
食後に立ち上がりが増える。
夜間にせん妄が出やすい。
こうしたパターンを覚えると、対応はかなりしやすくなる。
介護では、利用者ごとの傾向を覚えることが大事である。
大体の行動は同じように繰り返されることが多い。
もちろん毎回同じではない。
体調や環境によって変わることもある。
それでも、傾向はある。
その傾向を知っていれば、先回りできる。
この時間に声をかけておこう。
この人はこの言い方が通りやすい。
この人はトイレを早めに誘導した方がよい。
この人は拒否が出たら別職員に頼んだ方がよい。
この人は不安定になる前に場所を変えた方がよい。
こうした対応ができると、現場は少し楽になる。
認知症利用者への対応で大切なのは、理屈で勝とうとしないことである。
職員側が正しいことは多い。
危ないから座ってほしい。
薬を飲んでほしい。
トイレ確認をしたい。
汚染があれば更衣したい。
施設から出ていくのは危ない。
それは事実である。
しかし、正しいことを強く言えば、相手が受け入れるとは限らない。
だから、正しさをそのままぶつけるのではなく、受け入れやすい形に変える。
これはごまかしではない。
介護技術である。
相手の不安を増やさず、安全な行動につなげるための技術である。
声かけは、介助の一部である。
手で支える前に、言葉で安心させる。
動いてもらう前に、目的を伝える。
拒否が出たら、言い方を変える。
不安が強ければ、急がせない。
必要なら別の職員と連携する。
認知症利用者への対応は、職員の性格だけではなく、技術で変えられる部分がある。
優しく丁寧に。
理由を変える。
否定しすぎない。
手引きでゆっくり誘導する。
無理やり引きずらない。
同じ訴えでも危険度を見る。
利用者ごとのパターンを覚える。
これらを積み重ねることで、拒否や不穏、事故リスクを減らしやすくなる。
介護は、利用者を従わせる仕事ではない。
利用者の不安や混乱を見ながら、必要な方向へ安全に導く仕事である。
認知症利用者への声かけと誘導は、そのための重要な技術である。




