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教室の色づき

 次の日の朝は、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。

 カーテンの隙間から入る光はまだ薄く、部屋の中には静けさが残っている。天井を見上げたまま、数秒だけ動かずにいた。こういう朝が、前の人生にも何度あったのかは思い出せない。

 布団から出る。

 足の裏に触れた床が少しひやりとしていた。

 机の上には、昨日持ち帰らなかったりんごの絵の代わりに、教科書と筆箱、それから入部希望届の控えが雑に重なっている。

 机の上を少々片付け、教科書を広げる。来週、中学始めの実力テストがある。こういうのは、スタートダッシュが重要なのだよ。ワトソン君。


 制服に着替えながら、昨日の美術室を思い出す。

 紙の匂い。絵の具の薄い匂い。たった一時間にも満たない見学だったのに、思い返す場面が意外と多い。

 台所へ行くと、母がすでに朝食の準備をしていた。

 フライパンの上でベーコンが小さく鳴っていて、味噌汁の湯気が立っている。目の前にある光景が、懐かしいと思う。その矛盾に、言い表せない感情を覚える。

「早いね」

 母が言う。

「学校近いから、余裕あるだけ」

「いいことじゃない」

「まあね」


 朝食を食べ終えて、歯を磨き、鞄を持つ。

 玄関で靴を履く頃には、マンションの廊下にも登校する気配が増えていた。どこかの部屋の扉が開く音、子どもの声、エレベーターが別の階で止まる音。春の朝の空気はまだ少し冷たいのに、陽の当たる方だけやけに明るい。

 エントランスを抜ける。

 校門へ向かう途中、ふと運動場の方を見る。

 朝練をしているらしい野球部の声が、乾いた空気を通って響いてきた。短い掛け声、ボールを受ける音、金属バットではなく木製バットみたいな鈍い打音。

 朝の校舎はまだ人の熱が薄くて、廊下の空気も少しだけ冷えていた。窓際の床に朝日が四角く落ちている。教室へ向かう途中で、何人かとすれ違った。まだ大きな輪が固まっていない今の時期は、顔見知りかどうかの判定が曖昧だ。目が合えば軽く会釈するか、しないか、その一瞬だけで決まる。

 教室の前まで来たところで、先に着いていた宇羽野がちょうど席に鞄を置くところだった。

「おはよう」

 おれが言うと、

「おはよう」

 宇羽野が振り向く。

 昨日より少しだけ、そのやり取りが自然だった。

「吹奏楽どうだった」

 席に着きながら聞く。

「いきなりそこ?」

「気になるだろ」

「まあ……よかったよ」

 宇羽野は鞄の中を整えながら、少しだけ考えるみたいに言葉を選んだ。

「思ってたより厳しそうだったけど、でもちゃんとしてて。見てるだけでも楽しかった」

「へえ」

「何その反応」

「本当にそう思っただけだよ」

 そう返すと、宇羽野は少しだけ笑ってから、今度は逆に聞いてきた。

「岡君は?」

「美術部?」

「うん」

何故かそこで会話が終わった。


そのうち、ほかのやつらもぽつぽつと教室へ入ってきた。

 挨拶する声。椅子を引く音。プリントを探して机の中をひっくり返す音。誰かが窓を少し開けると、朝の冷たい空気が細く入ってくる。


 ホームルームのチャイムが鳴る少し前、担任が教室へ入ってきた。

 黒板に日付を書き、その横に今日の予定を並べていく。チョークの音は相変わらず乾いていて、朝のざわめきを少しずつ薄くしていった。

「提出物、まだ出してない人は今日中に出すこと。あと、部活の仮入部期間は今週いっぱいです。よく考えて決めるように」

 その言葉に、教室のあちこちで小さく反応がある。

 もう決まっているやつもいれば、まだ迷っているやつもいる。たったそれだけのことで、話題が広がっていた。やはりこいつらはガキだ。


 朝のホームルームが終わって、一時間目が始まる。

 先生が教科書を開くように言い、ページをめくる音が一斉に重なる。昨日よりは少しだけ授業らしくなったが、まだ本格的には始まってはいない。

 黒板に書かれる文字を追いながら、俺は時々ぼんやり考える。

 この時間を、九年前のおれはどう受け取っていたんだろう。退屈だと思っていたのか、面倒だと思っていたのか、あの頃の感情は、思い出そうとするが、何も掴めない。ただ、今こうして座っていると、その曖昧さごとこの教室に混ざっていく気がした。

 昨日の美術室も、たぶんそうだろう。

 たった一時間の見学なのに、妙に印象に残っている。絵の具の匂い。紙のざらつき。三堀の迷いのない線。野上の、わりと遠慮のない言い方。どれも小さいことなのに、思い返すと結構覚えていた。

 そういう断片が、九年前にはちゃんとあったのに、時間の中でこぼれ落ちていったのだとしたら、少しだけ惜しい気もした。


 二時間目の終わりに、先生が教卓の上を片づけながら言った。

「来週、実力テストがあります。範囲は広くありませんが、最初のテストなので、しっかり準備しておくように」

 その一言で、教室の空気が少しざわついた。

 前の席のやつが「もう?」とぼやき、後ろでは誰かがため息をつく。俺は、実力テストというものを待ち望んでいた。一旗揚げる絶好の機会だ。


 休み時間になると、杉本が振り返ってきた。

「岡君、勉強できる方だったよね」

「何その雑な聞き方」

「実力テストあるって言うから」

「まあ、最初くらいは何とかしたい」

「最初くらいって感じがもう腹立つな」

「分かる」

 宇羽野まで乗ってくる。

「岡君、変に余裕ある時あるし」

「余裕じゃないよ。願望だよ」

「じゃあ、なおさら腹立つ」

「理不尽だな」

 そんなことを言いながらも、少し楽しかった。

 まだ始まったばかりのクラスなのに、こういうどうでもいい会話が少しずつ増えていく。


 窓の外では、春の光が朝より高くなっていた。

 人の声と、紙の音と、チョークの粉っぽさが混ざって、教室が色づき始める。

ガールズは、一着三着固定すべし


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