ごくありふれた
三時間目は英語だった。
先生は黒板の端にアルファベットを書いて、発音の時だけやけに口を大きく開けた。教科書の最初のページを開かせて、「まずは声に出して慣れること」と言う。ただただ懐かしい。
指名された男子が、慣れない発音で単語を読む。
それに先生が少し被せるようにして直す。
教室のあちこちで小さな笑いが起きる。彼は頭をかきながら、ヘラヘラしている。恥ずかしさを、笑いに変える偉大さが今ならわかる。俺には出来なかった芸当だったから、少なくともこの世界に来るまでは。
俺はノートの端に、さっき先生が言った単語をいくつか書きながら、ぼんやり考える。
今のうちに取れる点は、ちゃんと取っておきたい。見え方も違ってくるはずだ。教師にも、クラスにも、自分自身にも。
卑しいと言われればそうかもしれない。だがな、知っているものを使わない理由もない。
神から与えられたこのチャンス逃したら罰が当たる。
四時間目は国語だった。
思わず、顔をしかめてしまった、決して、国語という教科が、嫌いということではない。むしろ、得意な方だ。そうなってしまった理由は、後々の出来事によるものだった。話すのは、別の機会にするとしよう。
教室の前に立った国語教師は、いかにも国語教師という感じの女だった。
髪は肩のあたりで揃えられていて、声は高くないのに通る。黒板に自分の名前を書く字まで整っていて、最初に言うことが「字は丁寧に書いてください」だった。期待を裏切らない。
ふっ。いけないいけない。嘲笑がこぼれてしまった。
教科書を開くように言われる。
まだ新しいページが、ぱらりと乾いた音を立てた。
クラス中が、一斉にページをめくる音を聞くとともに、空腹を覚えた。この授業を真剣に聞くことが、無意味に思え、目の前の大人が発する言葉の羅列を、左から右に流していくことに決めた。
――もちろん、その決意は長くは続かなかった。
「では」
先生は教卓に教科書を置いたまま、教室をひとつ見渡した。
「最初なので、今日は本文を細かく読む前に、少し書いてもらいます」
先生は黒板の端に、さらさらと書いた。
『中学生になって』
「長くなくてかまいません。今思っていることを書いてください。うまく書こうとしなくていいです」
いや、それが一番困るのだ。
うまく書かなくていいと言われると、人はむしろ何を書けばいいのか分からなくなる。人類というのは、自由に弱い。そんなことも分からないのか、そうだったこの人はバカだった。
前から原稿用紙が回ってくる。素直に感じる、めんどくさい。
俺は原稿用紙を一枚受け取って、しばらく題名を見た。
中学生になって。
思うことなら、いくらでもある。ありすぎる。
これを白紙にぶちまいたところで、行きつく先は良くて保健室、悪くて病院だ。
結局、おれは無難な一行目を書いた。
――中学生になって、少し緊張しています。
そこから先も、なるべく普通の中一っぽい言葉を選ぶ。授業のこと。部活のこと。まだクラスに慣れていないこと。でも、少し楽しみでもあること。
安全運転もここまでくると才能かもしれない。我ながら、非常につまらない文章だ。自分で書いていて欠伸が出てくる。
ちら、と周りを見る。
前の方の席で座っている宇羽野は、もう書き始めていた。優等生万歳。
杉本は、案の定止まっていた。
視線だけが原稿用紙の上を漂っている。同志よ、その気持ちよく分かるぞ。
先生は机の間をゆっくり歩いていた。
別に覗き込んでくるわけではない。けれど、ああやって歩かれるだけで、何となく急かされる。最悪だ。
教室の中は、静かだった。
聞こえるのは、シャーペンの先が紙を擦る音と、たまに誰かが消しゴムをかける音だけだ。窓の外では、春の光がもう昼に近づいていて、校庭の端の木が少しだけ揺れている。
俺は二段落目を書きながら、ふと思う。
こういう時間も、たしかに前の人生にあったはずだ。
書きたくもない作文を書かされて、当たり障りのないことを並べて、提出して、それで終わる。どうでもいい時間だ。今もそれは変わっていない。
だが、『どうでもいい』だけで片付けるには、惜しいと思う自分もいる。
たぶん、二度目だからだ。
一度目は流れていっただけの時間が、二度目になってようやく意味となす。皮肉であり、損な話である。
「あと五分です」
先生が言う。
教室の空気が少しだけ動いた。杉本が急に本気を出したらしく、ものすごい勢いで書き始めている。人は追い込まれると書ける。これもまた真理だ。
俺は、最後の一文を書いた。
――少しずつ、この学校に慣れていけたらと思います。
「そこまで」
手が止まる。
あちこちで小さなため息が漏れた。
原稿用紙が前へ送られていく。
先生は、集めた紙を軽く揃えながら言った。
「文章には、その人の癖が出ます。うまく書こうとしなくていいので、考えたことを、自分の言葉で持てるようにしてください」
あまりに高尚なことを言っているが、あなたが言うと説得力がどこかに飛んでいきますよ。
チャイムが鳴った。
その瞬間、教室の空気が一気に昼休みへ切り替わる。
さっきまで原稿用紙を前に死んだ目をしていた連中が、ものの数秒で弁当箱を取り出し始める。人類のたくましさに感動すら覚える。
椅子を引く音が重なる。机を寄せる音もする。
「岡君」
宇羽野が弁当箱を机に置きながら、俺の方を見た。
「なに」
「作文、何書いたの?」
「嫌なこと聞くな」
「普通に気になるだけ」
「気になるものなのか、それ」
「ちょっとは」
そこへ杉本も机を少し引きずってきた。
この男は、こういう時の合流だけはやけに自然だ。野球部のくせに、そのへんの立ち回りは上手いと思う。
「おれも気になる」
「何でだよ」
「岡がどんな優等生ぶったこと書いてるのか」
「決めつけがひどいな」
ちょっと待て。今、呼び捨てにされていなかったか。
「違うの?」
「……違わないかもしれない」
宇羽野が吹き出した。
こいつは本当に、ちょっとしたことで笑う。前の中学生活では、彼女がこんなに笑うなんて知らなかった。
「ほら」
杉本が言う。
「やっぱり無難なこと書いたんだろ」
おしゃべりが過ぎるぞ、小僧。
「そう言う杉本はどうなんだよ」
杉本は一瞬だけ止まった。
箸でウインナーをつまんだまま、ほんの少しだけ視線が泳ぐ。分かりやすい。こいつ、絶対ろくなことを書いていない。
「……まあ、普通」
「絶対嘘だろ」
「何でだよ」
「顔見ただけで分かるもんだ」
「なにそれ」
宇羽野がまた小さく笑う。
昼の教室には、あちこちで弁当箱の蓋がぶつかる音や、箸が当たる音が混じっていた。窓際ではもう何人かが机を寄せていて、別の列では女子同士が何かで盛り上がっている。昨日より少しだけ、みんなの距離が近い。日を追うごとに、その距離は縮まっていくのだろう。
「で、何書いたの」
「別に。中学頑張ります、みたいな」
「雑すぎるだろ」
「岡に言われたくねえ」
「たしかに」
宇羽野があっさり頷いた。
ひどい。こんなか弱い人間をいじめて楽しいのか!
事実は、時として人を傷つける。こいつらには、そのことを学ぶないといけないようだ。
「宇羽野は?」
「秘密」
「何でだよ」
「別に」
曖昧な返しをしてくる。
「自分だけずるいぞ」
「岡君ほどではないよ」
「は?どこが?」
杉本がそれを面白がるように笑った。
「でも、たしかに岡ってちょっとあるな」
「何が」
「なんか、一歩引いてる感じ」
「悪口?」
「悪口ではない」
こいつら、好き勝手言いやがって。
弁当の卵焼きを口に入れる。
少し甘い。朝、台所で母が作っていたやつだ。味まで覚えているような、初めて食べるような、不思議な感じがした。前の人生でも何度も同じものを食べていたはずなのに、その記憶だけをきれいに引っ張り出すことはできない。
教室の後ろの方で、誰かが笑いながら立ち上がった。別の席では、弁当を食べ終わったやつが机に突っ伏している。
しばらくは、どうでもいい話が続いた。
昨日の部活見学のこと。数学の先生の声がやたら大きいこと。英語の発音で笑っていた前の席のやつの話。そんな、今しか意味のない会話ばかりだ。けれど、その「今しか意味のない」が、後で思い返すと思い出の一ページになるのかもしれない。
予鈴が鳴った。
教室の空気が、一段だけ引き締まる。
まだ喋っているやつもいるが、みんな一応は席へ戻り始める。
おれも弁当箱をしまって、机の中から次の教科のノートを引っぱり出した。
窓の外の光は、昼のいちばん高いところに近づいている。さっきまでの笑い声が少しずつ薄れて、代わりに椅子の音や紙の音が教室に戻ってきた。
こうして、ありふれた午後がまた始まる。




