りんご
さっきまでただ見学に来ただけのつもりだったのに、気がつけば普通に座って、普通に紙に向かっていた。そのギャップみたいなのが、前の世界よりも成長した部分だと思う。
「はい、じゃあ一回置いてー」
先輩が手を叩くように言う。
部屋のあちこちで鉛筆の音が止まった。誰かが椅子を引く音、水道の蛇口を閉める音、窓の外から入ってくる風の気配。そんな音たちが、静かに重なっている。
先輩は机の間を歩きながら、一人ずつ紙をのぞいていった。
三堀の布を見て、「あ、形取るの早いね」と言う。
野上のマグカップには、「取っ手の角度がちゃんと見えてる」と言った。
俺のりんごには、さっきの「ちゃんと見て描いてるね」だった。
褒められているようで、別に上手いとは言われていない。
でも、今のところそれで十分だった。初日から才能を見出されても逆に困る。
「岡君、なんか真面目に描くね」
三堀が、おれの紙をのぞき込んで言った。
「雑にやって失敗するよりよくない?」
「美術ってそういうものなの?」
先輩が、また教卓の前に戻っていく。
「一年生は、入るかまだ決めてなくても、今日みたいに何回か来ていいからね」
「今週いっぱいは見学自由だし」
「描けなくても別に大丈夫。描いてるうちに何とかなる人も多いし」
「何とかならない人もいるけど」
「それ今言う?」
先輩同士でそういう軽口が飛ぶ。身内ノリってやつだろう。
俺はもう一度、紙の上のりんごを見た。
輪郭はそれなりに取れている。でも、立体感は全然ないし、なんとなく平べったい。りんごというより、りんご味の何かのロゴみたいだった。
「難しいな」
思わず、本音が出る。
「でしょ」
野上が言う。
「丸いのに丸いだけじゃないし」
「それそれ」
三堀も頷く。
「布もただのぐしゃぐしゃに見えるのに、影で全然違う」
「三堀君、慣れてる?」
「ちょっとだけ。小学校で描くの好きだったから」
言いながら、三堀は自分の布の線を少しだけ直した。
迷いなく線を引くし、消す時もためらいがない。こういうのは性格なのか、単に経験の差なのか、まだ分からない。
五分だけのつもりだった見学は、そのあともなんとなく続いた。
先輩が「時間あるし、もう少し描いてみる?」と言ったので、結局俺はもう少しだけりんごに向き合った。輪郭の外側に薄く影を入れてみる。上のくぼみを少し暗くする。そうすると、さっきより少しだけ立体に見えた。ほんの少しだけ。それでも、その変化は面白かった。
美術室には、美術室の時間の流れ方があるらしい。
時計を気にしていなくても、なぜか落ち着いていられる。
窓の外の光がさらに傾いたころ、先輩が「今日はこのへんで」と言った。
見学組は紙を回収されるわけでもなく、「持って帰ってもいいし、置いてってもいいよ」と適当な感じで言われた。俺は少し迷ってから、自分のりんごを机の端に置いた。持って帰るほどのものでもないし、かといって捨てるというのも少し違う気がした。
「岡君、帰る?」
三堀が鞄を持ちながら聞く。
「うん」
「おれも」
野上も立ち上がった。
先輩に軽く頭を下げて、美術室を出る。
廊下に出ると、部屋の中にこもっていた絵の具と紙の匂いが少し薄れて、代わりに校舎の冷え始めた空気があった。さっきまで聞こえていた運動部の声は、もう少し遠くなっている。放課後の終わりに向かう時間だった。
階段までの短い廊下を、三人で並んで歩く。
こういう並び方も、今の時期らしいと思う。誰が真ん中になるのか、一瞬だけ探るような間があって、結局なんとなく決まる感じ。おれは一番端になった。
「岡君、入るの?」
野上が聞く。
「たぶん」
俺は逆に聞き返す。
「三堀君は最初から美術部入るつもりだったの?」
「うん。見学したら余計そう思った」
「早いな」
「そうかな」
「そうだよ。きっと」
階段を下りる。
窓の外の空は、まだ明るいのに色だけが少し薄くなっていた。校庭では、野球部がまだ声を出している。聞き慣れた種類の掛け声だ。九年前も、たぶん同じような時間に同じような声が響いていた。けれど、今感じていることは、あの時の俺は感じれていなかっただろう。
「野上さんは?」
三堀が聞く。
「んー、まだ分かんないけど。でも、美術部いいかも」
「そうなんだ」
「静かすぎないのがよかった」
「分かる」
俺は思わず言った。
「あ、そう、それ」
野上がこっちを見た。
「もっと無言の部屋かと思ってた」
「おれも」
「ちょっと安心したよね」
「した」
外へ出ると、夕方に向かう春の風が少しだけ冷たかった。校門の方へ向かう途中、吹奏楽部らしい音がまだどこかから流れてくる。グラウンドには野球部の白いユニフォームが見えて、その中に杉本がいるのかは、ここからだと分からなかった。
「じゃあ、また」
三堀が言う。
「うん。また明日」
野上も軽く手を上げる。
「岡君、りんごもう少し頑張って」
「一言多い」
「だって、惜しかったし」
「惜しかったって一番困る評価だな」
「でも、ちゃんと見て描いてたよ」
三堀が言った。
「それは分かる」
「はいはい、褒めてくれてありがとう」
二人が笑って、そのまま道を分かれた。
おれは校門の方へ歩きながら、ポケットの中の一覧表を指で触る。紙は朝より少し柔らかくなっていた。
マンションは学校のすぐ向かいだ。
だから、帰り道と呼ぶほどの距離もない。校門を出て、横断歩道を渡ればもう見慣れたエントランスがある。便利すぎて風情がない。
自動ドアが開いて、中へ入る。
外の声が一枚のガラスで切られ、急に静かになる。夕方の匂いに、少しだけ消毒液の匂いが混じる。エレベーターを待ちながら、ぼんやり今日のことを思い返した。
それぞれが別々の放課後を過ごして、また明日、同じ教室に戻ってくる。
エレベーターの扉が開く。
俺は乗り込んで、閉まっていく隙間の向こうに、まだ明るい校舎を見た。
学校というものが大っ嫌いだった俺が、平日の明日を待ち望んでいる。何という皮肉だろうか。
まぁ、しかし、悪い気はしなかった。




