早まった出会い
「岡君、行くの?」
鞄を肩にかけた宇羽野が、机の横からこっちを見る。
「行くよ。普通に」
「途中で帰らない?」
「おれを何だと思ってるんだ」
「ちょっと飽きっぽい人」
宇羽野はまた小さく笑った。このガキ。
「宇羽野は?」
「吹奏楽、見てくる」
「やっぱり」
杉本が、後ろから割って入ってきた。
「おれ先行くわ。野球部、集合早いらしいし」
「おう」
「美術部、寝るなよ」
「お前の中で美術部は何なんだよ」
「静かそう」
「偏見がすごいな」
杉本は笑いながら手を上げて、そのまま教室を出ていった。
教室に残った生徒たちも、少しずつそれぞれの目的地へ散っていく。
廊下からは、別のクラスの声も聞こえてきた。吹奏楽部どこだっけ、体育館行けばいいんじゃない、テニス部って外だよな――そんな断片的な会話が、放課後の校舎の中をあちこちで跳ねている。
「じゃ、また明日」
宇羽野がそう言った。
「うん。また」
「感性、磨いてきてね」
「まだ言うのかよ」
返事の代わりに笑って、宇羽野も教室を出ていく。
廊下は、授業中とはまったく違う空気になっていた。
窓から差し込む午後の光が、床のワックスを白く光らせている。明るいのに、どこか影が長くなり始めていた。遠くの階段の方では、誰かが駆け下りていく音がした。体育館の方からは、もうボールを打つ乾いた音が響いてきている。外で始まったらしい野球部の声も、風に混じって聞こえた。
廊下を歩きながら、ふと窓の外を見る。
校庭の端では、数人の一年が先輩に連れられてグラウンドへ向かっていた。制服のまま小走りしているやつ、友達同士で肩をぶつけ合っているやつ、やたら緊張した顔で前だけ見ているやつ。
特別棟へ続く渡り廊下は、少しだけ静かだった。
本校舎から離れると、人の声がひと段階遠くなる。足元の鉄板が、歩くたびにわずかに鳴る。窓の外には校舎の裏手が見えて、そこだけ少し日陰になっていた。春の風が抜けて、制服の裾を揺らす。授業中の教室にこもっていた空気とは違う、もっと乾いた匂いがした。
渡り廊下を渡りきったところで、壁に貼られた古い部活勧誘のポスターが目に入った。
吹奏楽部定期演奏会、野球部県大会出場、美術部校内作品展。端が少しめくれている。こういうところは、九年前もあまり変わっていなかった気がする。見覚えがあるような、ないような、曖昧な既視感だけが残る。
特別棟の階段を上る。
一段ごとに、運動部の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。代わりに、どこかの教室から聞こえてくる吹奏楽の音が、壁に反射して薄く届いた。トランペットか何か、高い音がひとつ伸びて、すぐに誰かの笑い声に混ざる。
二階に着いて、廊下を右に曲がる。
そのあたりから、微かに絵の具の匂いがした。
強い匂いじゃない。
でも、油や木の匂いとは違う、水っぽくて少し粉っぽい匂い。筆を洗った水の中に色が溶けているような、そんな匂いだ。
美術室の前に着く。
引き戸は半分ほど開いていて、中から紙を擦る音と、水道の音が聞こえてきた。笑い声もする。思っていたより静かではない。もっと、しんとした場所かと思っていたが、そうでもないらしい。むしろ、喋る時は喋るが、放っておかれる時は放っておかれる、そんな種類の空気かもしれない。
入口の横には、小さな木の札で「美術室」とだけ書かれていた。
その下に、去年の文化祭で使ったらしいらくがき混じりのポスターが貼ってある。部員募集。見学歓迎。絵を描くのが好きな人も、そうでもない人も。最後の一文だけ、やけに力が抜けていて少し笑った。
――そうでもない人も。
俺向けじゃないか。
扉の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
入るだけだ。たったそれだけなのに、背中のあたりが妙にそわそわした。
その時だった。
「あ」
中から、聞き覚えのある声がした。
見ると、窓際の机のところに、同じクラスの三堀晴がいた。
白い紙を前にして座っていて、こっちに気づくと少しだけ目を丸くする。細身で、制服の着方もどこかすっきりして見えるやつだ。
「岡君」
「三堀君?」
思わず名前を返す。
同じクラスのやつが先にいるだけで、緊張が少しだけほどけるのだから現金なものだ。
「岡君も美術部なの?」
「一応、そのつもり」
「へえ」
こいつが美術部であることは、知っていた。何なら、一年の頃、きっかけは忘れたが、映画を見に行った仲だった。
さらにその奥で、もうひとり振り返った。
野上佳乃だった。
同じ学年だが、違うクラス。三年で同じクラスになる予定だ。確か九年後は、駆け出しの女優になっていると親から聞いた覚えがある。
相手は俺のことを知らないはずだから、俺が初対面のふりをする。
「えっと……」
ほんの一瞬だけ間を置いてから、できるだけ自然な顔を作る。
「同じ一年?」
「うん」
野上佳乃はそう言って、机の上に置いていた鉛筆を指先で転がした。肩のあたりで揃った髪が、窓から入る風で少しだけ揺れる。
「野上です。三組の」
「俺は岡。……一組」
危ない。
名前まで先に言いそうになって、途中で飲み込む。三堀が横から助けるように口を挟んだ。
「岡君、同じクラス。学級委員」
「あ、そうなんだ」
「三堀君の知り合い?」
「まあ、同じクラスだし」
「へえ」
それだけのやり取りで終わる。
拍子抜けするくらい普通だった。けれど、こういうのが一番助かる。相手まで妙に食いついてきたら、初対面の演技どころではなくなる。
「見学?」
先輩が、今度はもう少し近くから声をかけてきた。
二年か三年かは分からないが、肩までの髪を後ろで結んでいて、袖口には絵の具の薄い跡がついている。手に持ったカッターの刃を器用に戻しながら、こっちを見ていた。
「あ、はい」
「入りなよ。見てるだけでもいいし、せっかくだから何か描いてもいいし」
「描くんですか」
「そんな構えなくても、りんご一個とかそういうレベルだよ」
おれは鞄を足元に置いて、三堀のひとつ隣の席に腰を下ろした。椅子の脚が少しだけ床を鳴らす。近くの机には、色のついた紙や定規、使いかけの消しゴムが無造作に置かれていた。窓際の流しには筆洗い用のバケツが並び、水の表面に淡い青や緑が薄く残っている。
部屋全体を見回す。
壁には、前の学年のものらしいデッサンが何枚も貼られていた。石膏像、果物、空き瓶、校舎の階段。どれも上手いかどうかは分からないが、鉛筆の濃淡だけでちゃんと物の重さや影が出ている。棚の上には石膏の首像が何体か並び、その横に絵の具箱と新聞紙の束が押し込まれていた。整っているわけではないのに、散らかっている感じはしない。不思議と、部屋の中で物の置き場所が決まっている空気があった。
「今日は一年生の見学も多いから、簡単なのだけやるよー」
奥にいた先輩がそう言って、教卓の上に小さな紙袋を置いた。
中から出てきたのは、りんご、マグカップ、古い鍵、丸めた布。静物デッサンの真似事でもさせるつもりらしい。
「好きなのひとつ選んで、五分くらいで形だけ取ってみて。上手い下手は気にしないでいいから」
その言い方が本当に気楽で、逆に少し困る。
上手く描けと言われる方が、まだ開き直れるのに。
「岡君、何にする?」
三堀が聞く。
「いや、まだ決めてない」
「じゃあ残り物になるよ」
三堀は笑いながら、丸めた布を取った。
野上はマグカップを選ぶ。迷わないあたり、二人とも最初から入る気で来ていたのだろう。おれは少し遅れて、結局いちばん無難そうなりんごを選んだ。
「無難」
野上が言う。
「思ったことそのまま言うな」
「だって分かりやすいし」
「そこは、王道とか言ってくれ」
「言い換えても意味同じじゃん」
その返しが自然で、また少し拍子抜けする。
野上は未来の誰かじゃなく、今はまだ同学年の女子に過ぎない。当たり前のことを、こうして同じ空間で喋っていると少しずつ思い出していく。
紙を前にして鉛筆を持つ。
先輩が「まず輪郭からね」と言うのを聞きながら、りんごを見た。赤い、と言うにはまだ早い。デッサンだから色は関係ない。丸い、と言うには少し歪んでいる。上のくぼみと、横の張り方の違いがあって、ただの円ではなかった。
鉛筆の先を紙に置く。
線が一本引かれる。
思ったより、嫌じゃなかった。
隣では三堀がすでに迷いなく手を動かしている。形を取るのが早い。野上は一度描いてから少し消して、また描き直していた。二人とも静かなのに、張りつめているわけじゃない。部屋のあちこちで鉛筆の音がして、ときどき先輩同士の小さな会話が混じる。廊下の向こうからは、遠く吹奏楽部の音が流れてきた。トランペットかクラリネットか、高い音が少しだけ伸びて、また途切れる。
俺は、りんごの輪郭を二度ほど失敗して、そのたびに消しゴムをかけた。
消した跡が紙の表面を少し毛羽立たせる。その手触りまで、妙に懐かしい。
「岡君、丁寧だね」
野上が言った。
「そう見える?」
「うん。慎重」
「遠回しに遅いってこと?」
「それもある」
三堀が横で吹き出した。
どうやらこの二人、思ったより遠慮がない。
五分後、先輩が「はい、いったん見せてー」と言って回ってきた。
俺のりんごを見て、「あ、ちゃんと見て描いてるね」と言う。褒められているのか慰められているのか微妙なところだったが、悪い気はしない。
「入る気になった?」
先輩が軽く聞く。
「たぶん」
「いいじゃん。向いてそう」
窓の外では、春の光が少しずつ傾き始めていた。
美術室の床の上には、机や椅子の影が長く伸びている。さっきまでただ見学に来ただけのつもりだったのに、気がつけば普通に座って、普通に紙に向かっていた。




