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灰塵  作者: 銀城
19/20

18.個体番号:����/観測断片-4


 ルニアの中で、漢の言葉が繰り返す。


 ――恩義に報いん


 その意味を考える際、唐突に祠のお供物が浮かんだ。

 確証はどこにもなかった。

 ただ、それ以外には思いつかなかった。

 思いが届いたのか、そうではないのか、心はいろんな思いで渋滞していた。

 

 名乗るわけではなく、こちらを振り返るでもなく、その漢はただ、砕け散った影の残骸の前に立っていた。

 高く、厚い輪郭が、土煙の奥でひとつの壁みたいに見える。


 ルニアは息をするのも忘れて、その背を見つめた。


 青い液がうねの斜面を伝い、壊れた何かの破片がまだかすかに震えている。

 それなのに、漢の周囲だけは妙に静かだった。

 静かすぎて、目の前で起きた出来事に、現実感がうまく追いつかない。


 だが、追いつく暇はなかった。


 村の方から、またあの細い音が幾つも重なって聞こえたからだ。


 ――キィン


 ひとつではない。


 ばらばらの場所から鳴っているのに、どこか揃っている。

 風に流されてくるだけの音ではなく、同じ合図をなぞるような、妙な重なり方だった。


 母の手が、ルニアの腕へ食い込む。


 「……ルニア……」


 母の声はかすれていた。


 漢は動かない。


 だが、村の方から来る気配が変わっていくのがわかった。

 それまで散っていたはずの気配が、少しずつこちらへ集まり直してくる。

 見えているわけではない。

 けれど、暗い村の方角そのものがこちらを向いたような、そんな気味の悪さがあった。


 あれらは、さっき破壊された一体の消失を知ったのだ。

 どうやって知ったのかはわからない。

 声を掛け合うわけでも、叫ぶわけでもないのに、村のあちこちにいた同じようなものたちが、ひとつの異変を同時に受け取ったみたいに、こちらへ向き直る。


 ルニアの背中へ冷たいものが走る。


 来る。


 そう思った瞬間、漢が一歩だけ前へ出た。


 たった一歩だった。

 それだけなのに、その場の空気が少し沈んだ気がした。

 砕けた残骸の破片が、その足元で鈍く鳴る。


 裂けたぼろ衣の裾が、土煙の中でかすかに揺れる。

 色は土とも灰ともつかぬ鈍い色で、ところどころ擦り切れ、端はほつれ、長く着続けられた布だけが持つ乾いた重みがあった。

 まともな衣としてはとうに役目を終えているように見えるのに、その下にある身体の輪郭だけは妙に崩れない。


 肩は広い。

 背は厚い。

 腕は太いが、力みは見えない。


 鍛えた、というより、長い時間の積み重ねで削られ、残るべきものだけが残った身体つきに見えた。

 立っているだけなのに、何かへ備えているというより、もう最初からそこにいたものみたいな落ち着きがある。

 あれほど異様なものを一撃で砕いた直後だというのに、息ひとつ乱れて見えないことが、かえってルニアには恐ろしかった。


 畑の向こうで、闇がいくつか切り離されたみたいに動いた。


 次の瞬間には、最初のひとつがもう目の前にいる。


 速い。

 そう思った時にはもう遅い。

 音が先に来たのか、動きが先だったのかすらわからない。

 ただ、黒い影が青い眼をひとつ瞬かせるようにして滑り込み、その腕のあたりで刃らしきものが冷たく光った。


 キィン――


 最後まで鳴りきる前に、漢の腕が伸びる。


 ルニアの目には、その動きがよく見えなかった。

 見えたのは、迫ってきた影の頭あたりを、大きな手が掴んだことだけだ。


 ――止まった。


 あれほど速かったものが、空中で唐突に止まった。


 次の瞬間、嫌な音がした。


 硬い殻を中身ごと握り潰したような、湿った破裂音だった。


 影の頭が、漢の手の中でひしゃげる。

 首にかけての輪郭がまとめて潰れ、青い液が細い筋になって飛んだ。

 内部の硬い部品らしきものが砕ける音が続き、遅れて脚が力を失う。


 投げ捨てる動きすらなかった。

 握り潰されたものは、そのまま地面へ落ちる。

 落ちた時にはもう、人の形を保っていない。


 ルニアは目を見開いたまま、瞬きもできなかった。


 先程まで闇に紛れ、圧倒していた相手が、赤子のように握り潰された。

 そんなことが起きるのか、と考える前に、次が来る。


 今度は、左右から同時に音が鳴った。


 キィン

 キィン


 低いところ、高いところで、闇がずれる。

 どちらもさっきと同じ、黒い外殻と裂けた布をまとった影だ。

 だがもう、ルニアには動きの細かい意味まで追えない。

 見えるのは、来る、ということだけだった。


 ひとつは低く潜るように。

 もうひとつは少し高いところから落ちてくるように。


 母が息を呑む。

 従弟も目の前の光景に呆気となり、泣き止んでいた。


 漢は動かない。


 いや、ルニアにはそう見えた。


 次の瞬間、低い方の影が横へと吹き飛んでいた。


 蹴った、とわかったのは、吹き飛んだ胴が途中でくの字に折れたからだ。

 だが足がいつ出たのか、どう当たったのかは見えなかった。


 音が遅れる。


 影の胴体が横へ飛び、飛ぶ途中で内部が持たず、背から腹へかけて割れ、青い液と破片を畑へ撒きながら転がっていく。

 畝を二つ越えたところでようやく止まったが、止まった時にはもう、肩から先が別の方向を向いていた。


 高い方は、まだ空中にいた。


 その一瞬の差で届くつもりだったのだろう。

 だが漢の腕が上がる方が速い。


 開いた手が、その顔のあたりを掴む。

 今度は握り潰さない。

 掴んだまま、ただ下へ叩きつけた。


 地面が鳴る。


 土が跳ねる。


 顔から落とされた影の首元が、そこを支点に不自然な角度で折れ曲がる。

 さらに追い打ちのように、漢の拳が一度だけ落ちた。


 それだけで、頭から胸にかけての部分が地面へめり込み、周囲の土と一緒に砕け散る。


 ルニアは理解できなかった。


 速さも、力も、何一つ追えない。

 目の前で起きているのに、脳の中では何度も思考が停止する。


 相手が来る。

 次の瞬間には掴まれている。

 地面が鳴る。

 青い液と破片が散る。


 それを順に見ているはずなのに、途中が抜ける。


 「……なに、これ」


 声に出たのは、自分でも気づかないくらい細い呟きだった。


 母は答えない。

 答えられない。

 従弟の口を押さえたまま、ただ目だけを見開いていた。


 村の方から、さらに気配が増す。


 来る。

 まだいる。

 しかも、今度は明らかに最初より多い。


 漢が現れてから、向こうは数を集めた。

 最初は村人や警護を切り分けるために散っていたものたちが、ひとつの異常へ対応するように、こちらへ寄ってくる。


 その移動の最中にも、どこかで細い金属音が鳴る。


 キィン


 だが今度は少し違った。

 単なる刃鳴りではない。

 もっと奥で、何かが高速で回り、噛み合い、押し出されるような、細い金切り音が幾つも重なっていた。


 影が三つ、畑の向こうへ現れる。


 いや、三つでは終わらない。

 その後ろにも、さらにある。

 家と家の隙間、崩れた柵の向こう、潰れかけた荷車の影、そのどれもから似たような輪郭が滲み出してくる。

 村の夜が、あの細い影を隠すためにそこにあったみたいに思えるほどだった。


 これまでより速い。


 そうとしかルニアにはわからない。

 さっきまでと同じものなのに、今度はさらに無理な速さで押し出されている。

 黒い外殻の継ぎ目が、走るたび青く一瞬だけ光る。

 胸の明かりも、眼の青も、前よりせわしなく明滅して見えた。


 その時だった。


 漢の首元で、胸にかかった装飾が淡く灯った。


 それと同時に、漢が声を発した。


 低い声だった。

 大きくはない。

 だが、不思議なことに、畑の端にいるルニアの耳へも、村の方から迫ってくるあれらへも、同じように届いた気がした。


 「人の身を捨てし、哀れなる者らよ――」


 ぞくり、とルニアの背が粟立つ。


 その言葉には怒りだけではない何かがあった。

 見下しでもない。

 もっと古く、もっと冷えた響き。

 目の前のものを、すでに終わったものとして弔うみたいな響きだった。


 装飾がもう一度、淡く灯る。


 「――汝らの道、悔いるがいい」


 その言葉が落ちるより早く、最初の影が来ていた。


 加速した黒い輪郭が一直線に入る。

 その後ろからもうひとつ重なり、さらに別の影が横へ散る。

 囲もうとしているのか、別々の角度から斬り込もうとしているのか、ルニアにはわからない。

 わかるのは、暗い刃の線と青い眼が一斉に漢へ向いたことだけだった。


 人間なら、防げない。

 そう思う前に、ひとつ目が持ち上がっていた。


 漢のてのひらが、その顔面を掴んでいる。


 軽々と、そのまま全身が持ち上がる。


 ルニアは目を疑った。

 あれほど速かったものが、まるで投げられた石でも掴むみたいに、空中で止められていた。


 そして、その一体を盾にした。


 二体目の刃らしきものが、その背へ深く食い込む。

 硬いものと柔らかいものをまとめて裂く音がした。

 青い液が噴き、内部の部品が跳ねる。


 だが次の瞬間、漢はその掴んだ一体ごと二体目へ叩きつける。


 ぶつかる、というより、圧し潰される音だった。


 二つの身体がまとめて砕け、腕や脚が別々の方向へ弾ける。

 そこへ横から迫ってきた影がある。


 漢は振り向かないまま、後ろ手に拳を突き出した。


 突き。


 それだけのはずなのに、三体目の胸が真ん中から陥没した。

 背中が不自然に膨らみ、そのまま何かが内部から抜けたように弾ける。

 影の身体は一瞬だけ形を保ったが、次には脚から力を失って崩れた。


 ルニアの思考はもう追いつかない。


 いま何をしたのか。

 どこへ当たったのか。

 拳が触れたのかすらわからない。

 わかるのは、来たものが一瞬で砕けていくことだけだった。


 しかも、それで終わらない。


 村の方からさらに四つ、五つと影が出る。

 畑だけでなく、家並みの影や、崩れた柵の向こうからも現れる。

 細い音はもう連続していた。


 キィン、キィン、キィン――


 速い。

 速すぎて、輪郭がぶれる。

 青い光だけが細く残像を引く。


 だが、漢の前ではそれすら意味を持たなかった。


 一体が上から降りかかる。

 漢は半歩ずれただけで軌道を外し、その首元を掴んで下へ引く。

 落ちる勢いと引く力が重なり、首から先が不自然に千切れかける。

 そこへ膝が入る。

 胴体が折れ、内部の硬い音が連続して鳴る。


 別の一体が背後から迫る。

 ルニアが “うしろ” と言うより先に、漢の肘が短く振られた。

 ただ、その軌跡に触れた影の頭部が横へ吹き飛び、残った身体が数歩だけ前へ走ってから倒れた。


 左右から同時に来た二体は、両の手でそれぞれ掴まれた。


 掴まれた瞬間、二体とも止まる。

 止まったまま、次の瞬間には互いをぶつけられていた。


 鈍い音。

 青い飛沫。

 砕ける内部。

 人に似た輪郭が、あっさりと物の形へ戻る。


 打拳。

 裏拳。

 掌底。

 掴んで、潰して、突いて、叩く。


 ひとつひとつの動きは短い。

 飾りもない。

 けれど、そのどれもが相手を砕くには十分すぎた。


 ルニアはまばたきのたびに、違う場面を見ている気がした。

 そこにいたはずのものが、次の瞬間には地面へ散っている。

 立っていた漢の位置が、気づけば半歩、あるいは一歩だけ変わっている。

 畑の黒い土の上へ、青い液と残骸だけが増えていく。


 母が、知らず知らずのうちにルニアたちを背へ庇うように動いていた。

 その腕の中で従弟が、また泣きそうな顔をしている。

 けれどもう、泣き声は出なかった。

 目の前の現実が大きすぎて、子どもですら声を失っているのかもしれない。


 「……見ちゃ駄目」


 母がそう囁いた。

 だが自分自身、目を逸らせてはいない。


 見てはいけない。

 見ればきっと、これから先も忘れられない。

 それなのに、目が離せなかった。


 漢の胸元で、あの装飾が小さく揺れるのが見える。


 今度の一体は、これまでより少し大きかった。

 腕も太く、肩の張りも違う。

 青い灯りも少し濃い。


 一直線に来る。


 漢は迎え撃たない。

 むしろ一歩、前へ出た。


 互いの間合いが消える。


 次の瞬間、漢の手がその顔を掴んでいた。


 これまでと何も変わらなかった。

 そのまま、押し込む。


 大きい方の影の脚が土を抉る。

 加速していた勢いそのままに押し返そうとしているのだろう。

 だが押し勝てない。

 掴まれたまま、顔から肩、肩から胸へと、じわじわ潰れていく。

 硬いものが悲鳴を上げるみたいな音がした。


 最後に、漢の腕がわずかに沈む。


 その一押しだけで、影の上半身が内側へ折れ込むように潰れた。


 大きい方が潰れた瞬間、残っていた幾つかの影の動きが変わる。


 止まった――ように、ルニアには見えた。


 いや、本当には止まっていないのかもしれない。

 けれど、今までのようにまっすぐ来ない。

 青い眼が向きを変え、黒い外殻がわずかに引く。

 初めて、ためらいらしきものが見えた。


 ひとつが、半歩退く。


 もうひとつは横へ流れる。


 そして次の瞬間、残っていた数体は、来た時と同じように夜へ溶けるように散り始めた。


 逃げる。


 その言葉が、ようやくルニアの頭に浮かぶ。


 漢は追わない。


 追う必要もないとでもいうみたいに、その場から動かなかった。

 ただ、去っていく黒い影へ視線だけを向けている。


 夜の畑の向こうで、青い点が一つ、また一つと遠ざかっていく。

 キィンという細い音も、今度は近づくためではなく、離れていくための音になっていた。


 やがて、それも聞こえなくなる。


 あれだけ騒がしかったはずの村の音が、いつの間にか減っていた。


 最初は気づかなかった。

 激しい音が多すぎて、何が消えたのかわからなかったのだ。


 だが、ふと気づく。


 警鐘が聞こえない。


 悲鳴も、さっきよりずっと遠い。

 いや、遠いのではなく、本当に少ないのかもしれない。

 風の音が戻ってきている。

 畑の麦が擦れる音まで、耳へ届くようになっていた。


 潮印村は、静かだった。


 ついさっきまで、あれほど騒がしかったのに。

 怒鳴り声と悲鳴と警鐘と足音で満ちていたはずなのに。

 今は、自分の呼吸の音だけが聞こえる。


 静かすぎて、ルニアはかえって怖くなった。

 助かったのかどうか、まだわからない。

 村のどこまでが無事なのかも、どれだけ壊されたのかも、何ひとつわからない。

 ただ、耳を塞いでいた騒ぎだけが消え、そのあとの空白が、今度は別の怖さで胸へ落ちてくる。


 漢が、ようやくこちらを向いた。


 ルニアの身体が強張る。


 さっきまで村を襲っていたものたちを砕いていた相手が、いま自分を見る。

 助けられた、そう思ってはいるが、思っているだけの可能性が浮かび、安心より先に身が竦んだ。

 それほど、目の前で起きたことが現実離れしていた。


 顔は夜と土煙でまだはっきりしない。

 それでも、その視線だけはまっすぐこちらへ届く。


 母が従弟を抱きしめ直す。

 ルニアは逃げるべきかどうかも判断できないまま、ただその場に立っていた。


 漢が口を開く。


 その瞬間、漢の胸に下がった装飾品が淡く光った。


 ほんの一度だけだ。

 脈打つほど強くはない。

 けれど、確かにそこに灯りが生まれた。


 低い声。


 「――小童こわっぱよ、受けし恩義、ここに果たした」


 たったそれだけだった。


 ルニアが息を呑む。


 次の瞬間には、漢の姿はもうそこになかった。


 消えた、としか思えなかった。


 跳んだ音も、走り去る気配もない。

 ただ、目の前にあったはずの高い影が、次の瞬間には夜の中から抜け落ちている。

 残ったのは、青い液に濡れた畑と、砕けた残骸と、さっきまでそこに立っていたはずの空間の重さだけだった。


 風が吹く。


 ルニアは腰が抜け、安心と共にその場にへたり込む。


 ぼろ衣の残像だけが、まだ目の奥に残っていた。



• 対象:取得不可/取�不可/取�不可/特異個体

• 目的:���

• 付与:-

• 結果:取得不可

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