17.個体番号:����/観測断片-3
板戸の向こうで、また誰かの叫びが途切れた。
ルニアは肩を震わせた。
外の音は途切れ途切れなのに、その途切れ方だけが妙に鮮明だった。
悲鳴が長く尾を引くことはない。
怒鳴り声も、助けを呼ぶ声も、途中で線を断たれたみたいにぷつりと消える。
そのたびに、あの細い音が聞こえる気がする。
キィン――
耳を澄ませたから聞こえるのか、怖さが音の形を作っているのか、自分でもわからない。
ただ、その音と誰かの死が、もう頭の中で離れなくなっていた。
家の中は暗い。
さっきまで眠るための暗さだったものが、今は隠れるための暗さになっている。
炉の灰の匂いも、木の壁の匂いも、従弟の泣き声を押し殺す母の腕の震えも、全部が狭い家の中へ押し込められていた。
「ルニア」
母の声はひどく小さい。
囁きですらない。
喉の奥で形を作っただけの声だ。
「裏から出るよ」
ルニアは一瞬、意味がわからなかった。
「え」
「ここにいたら駄目だ」
母の声は震えている。
だが言葉だけははっきりしていた。
恐怖で固まっているように見えたのに、その実、母の中ではもう決まっていたらしい。
この家に隠れるのではなく、出る。
ルニアの胸がどくりと打つ。
「でも、外……」
「村の真ん中に近い方が危ない。人が集まってる場所ほど、よくない」
母は従弟を抱き直しながら言った。
外の様子を見た時間はルニアより短かったはずなのに、その判断は妙に冷静だった。
たしかに、村の道では人が飛び出し、灯りが揺れ、怒鳴り声が飛んでいた。
人が集まり、光が増えるところから順に狙われているように見えた。
ならば、家へ閉じこもるのが正しいとは限らない。
「北へ行く。森の方へ」
その言葉で、ルニアは喉を鳴らした。
森へ逃げる。
夜の森だ。
普段なら近づきたくもない。
それでも、海側から何かが入ってきているなら、逆へ逃げるしかない。
村の北は家並みが途切れ、畑を抜ければ木立が広がる。
隠れる場所はそちらの方が多い。
「今はなんとか生き延びる方を選ぶよ」
母の一言は短かった。
けれど、その短さの中に迷いがなかった。
従弟は涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、声だけは必死に殺している。
いつもなら泣き出したらなかなか止まらないのに、今は幼いなりに何かを察しているのだろう。
肩が細かく震え、母の服を掴む指に力が入りすぎていた。
外で、何かが倒れる音がした。
近い。
家二つか三つ隣くらいの距離に感じられる。
母が身をかがめ、床近くに置いてあった小さな袋を掴んだ。
干し餅と布だけを放り込んだような、ろくな荷でもない。
だが逃げるにしても何も持たないわけにはいかない。
ルニアは水差しへ目をやったが、持っていく余裕はないとすぐにわかった。
音が出るし、重い。
「裏口から出る。走れって言ったら走るんだよ」
母が言う。
ルニアはうなずく。
声を出したら、それだけで泣きそうだった。
裏手の小さな戸は、普段は薪や漁具を出し入れするためのものだ。
人が一人ずつようやく通れるくらいの狭さしかない。
母が静かに閂を上げる。
木が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
全員、息を止める。
外から何かが反応する気配はない。
警鐘と悲鳴と、どこか遠くで鳴る足音と、時折混じるあの細い音だけが、夜を満たしている。
母が戸を押し開けた。
夜気が流れ込む。
裏手は家と家の隙間にあたるため、表よりずっと暗かった。
月の光も届きにくく、干した網や積まれた薪が黒い塊になって沈んでいる。
先にルニアが出る。
足元の土は少し湿っていた。
夕方に水を捨てた跡が残っているのかもしれない。
そんなことを考えた自分に、ルニアは場違いな気持ち悪さを覚える。
今考えることじゃないのに、頭はどうでもいいことを拾おうとする。
次に母が従弟を抱いて出る。
戸を閉める暇はなかった。
閉めたところで何の意味もないかもしれないし、逆に音が出る。
家の裏から北へ回る。
正面の道を避け、家々の間を縫うように進むしかない。
村の裏手は、昼に見ると案外乱雑だ。
網を干す柱、薪の束、貝殻を積んだ籠、打ち捨てた桶、修繕途中の柵。
暮らしの裏側に押しやられた物が、狭い場所へ積み重なっている。
普段なら慣れた景色なのに、今はそれらすべてが足を取る障害に見えた。
表の道から、走る影が横切るのが見える。
村人か、警護か、それとも――と考えた瞬間、その影はもう見えなくなった。
「こっち」
母が低く言う。
ルニアは先に立ち、家の角へ寄る。
その先は少し開けていて、向こうに別の家の裏庭がある。
裏庭といっても、畑にするには狭く、物を仮置きするだけの土の空き地だ。
そこを抜ければ北へ出やすい。
だが、空き地の中央に、人が倒れていた。
昼に井戸端で見かけた女の人だった。
名前まで知っている人だ。
仰向けとも横向きともつかない崩れ方で、手の先がまだ痙攣しているようにも見える。
その喉元に、暗い線があった。
ルニアは足を止める。
「行くよ」
母の声が刺さる。
見てはいけない。
見たら足が止まる。
ルニアは自分へそう言い聞かせ、視線を外した。
女の足先の向こうには、ひっくり返った籠と、転がった大根が二本見えた。
きっと、何が起きたのかもわからないまま外へ出てきて、ついでに籠も持ってしまったのだろう。
そんなありふれた仕草の名残が、却って残酷だった。
空き地を走る。
土が柔らかく、足が沈む。
従弟が小さく声を漏らし、母が慌ててその口を押さえる。
その瞬間、すぐ近くで――
キィン
耳の奥を引っかくような、あの細い音が鳴った。
ルニアの背筋が凍る。
反射的に振り返る。
家の角の暗がりに、何かが立っていた。
立っていた、と認識できたのは偶然だった。
最初は、そこに夜が濃く溜まったようにしか見えなかった。
けれど、その濃い影の中に、人の形に近い輪郭がある。
頭がある。
肩がある。
腕がある。
だが、呼吸も、迷いも、そこにはない。
顔が、こちらを向いている。
獣に見つかった時のような圧ではない。
敵意でも怒りでもない、ただ処理対象として捉えられた感覚。
それが、ルニアの喉を一瞬で締め上げた。
母が息を呑む音がする。
次の瞬間、その影がわずかに前へ出た。
月が雲の切れ目から一瞬だけ顔を出し、その輪郭を照らした。
黒い外殻。
人の身体を理想の形でなぞったみたいに整いすぎた線。
肩や胸を覆う滑らかな装甲。
その継ぎ目の奥で、青白い光が冷たく灯っている。
裂けた黒布が腰や肩から垂れ、風に遅れて揺れていた。
顔は人に似ているのに、あまりにも無表情で、眼だけが青く濡れたみたいに光っていた。
手には細身の刃がある。
その姿を見た瞬間、ルニアの頭に、昔聞いた遠い大陸の話が蘇った。
海の向こうの、もっとずっと遠い土地。
魔力をほとんど持たず、身体も強くない人々がいる。
代わりに脳が発達し、道具を作り、自分たちの弱さそのものを埋めるように技術を育てた。
肉体の欠点を補うために自らの身体へ手を入れ、さらに自らを補助する武器や装具へ異様なほど精通している――そんな話だった。
酒の席で聞いた与太話だと思っていた。
潮印村から見れば、遠すぎて本当かどうか確かめようもない場所の話だ。
けれど、今目の前にいるものは、もしその話に形があるなら、こういうものかもしれないと一瞬だけ思わせた。
もちろん、本当にそうなのかはわからない。
だが、その一瞬でルニアの中に生まれたのは、魔獣とも盗賊とも違う、もっと別の種類の恐怖だった。
人が、自分の弱さを補うために、ここまで自分を変えたもの。
そう思ってしまった次の瞬間、その影が動いた。
速い、というより、途中の動作がない。
一歩踏み込んだのか、滑ったのか、跳んだのかもわからないまま、距離が消える。
ルニアは叫べなかった。
足が竦むとはこういうことかと、妙に他人事みたいに思った。
けれど、その一撃はルニアではなく、横合いから飛び出してきた別の人影を裂いた。
若い警護だった。
昼にからかうように祠のことを聞いてきた槍を持った傭兵ではない。
もっと年上の、胸当てを着けた男の人だ。
ただ、暗くて詳細まではわからない。
たぶん、さっきまで別の場所にいたのだろう。
こちらの動きに気づいて、影の前へ割り込んだらしい。
男の手には剣があった。
だが、その剣は役に立たなかった。
構える前に喉元へ暗い線が走り、男は何が起きたのかわからぬまま膝をついた。
ルニアの目の前で、人が一人、守るために割り込んで、そのまま静かに終わる。
それだけで、心の何かにひびが入った。
「走れ!」
母が叫ぶ。
さっきまでの押し殺した声ではない。
腹の底から絞り出した、本当の意味で命令する声だった。
ルニアの身体がようやく弾かれたように動く。
空き地の奥へ走る。
北へ、北へ。
そう頭が叫んでいる。
母も従弟を抱えたまま続く。
背後で誰かが倒れる音がし、次いでまたあの細い音が鳴る。
キィン――
夜の中を走るたび、村がどこまで壊れているのか嫌でも見えてしまう。
隣家の戸口に、誰かが縋りついている。
その向こうでは戸を閉めようとする手と、開けようとする手がぶつかっていた。
誰かを中へ入れようとしているのか、逆に中へ入れまいとしているのか、それすらわからない。
少し先では、荷車が横倒しになって道を塞いでいる。
その脇に、牛を繋ぐための杭が折れていた。
牛はもういない。
逃げたのか、先にやられたのかもわからない。
井戸端には、灯りだけが落ちている。
そこにいたはずの人は見えない。
見えないだけで、近くに倒れているのかもしれないと思うと、ルニアはそのあたりを見られなかった。
「母さん、こっち!」
家々の並びが切れ、畑へ抜ける細い通路が見える。
昼なら何でもない幅だが、今はそこが命綱に見えた。
ルニアは通路へ飛び込む。
土の匂いが濃くなる。
踏み荒らされた麦の葉が足首を打った。
その先の畑は、夜のせいで地形がひどく曖昧だった。
昼に見れば、畝の流れも水路の位置もすぐわかる。
だが今は、黒い土と黒い葉が重なって、どこへ足を出せばいいのか一瞬ごとに迷わせる。
月が雲の向こうへ隠れるたび、足元の輪郭が消えた。
ルニアは転ばないよう両手を半ば前へ突き出して走る。
風が麦の穂を撫でるたび、その揺れが別の何かの動きに見えて、何度も心臓が跳ねた。
背後では、まだ村の中から悲鳴が上がっていた。
女の声。
男の怒鳴り声。
子どもの泣き声。
それらが入り混じっているのに、不思議とひとつの騒ぎには聞こえなかった。
誰も同じ場所にいないからだ。
村全体のあちこちで、別々の終わりが同時に起きている。
そう思わせる散らばり方だった。
「ルニア、足元!」
母の声に、はっとする。
細い水路があった。
気づかず踏み込めば足を取られていたかもしれない。
ルニアは飛び越え、振り返りざまに母の動きを見る。
従弟を抱えたままなのに、母は驚くほどしっかりと着地した。
だがその呼吸はもう荒く、肩で息をし始めていた。
従弟の重みは軽くない。
昼間ならまだしも、真夜中に恐怖のまま走り続ければなおさらだ。
「私が――」
代わる、と言いかけて、ルニアは口をつぐんだ。
今ここで従弟を受け取れば、その受け渡しだけで時間がかかる。
止まれない。
止まればそこまでだと、もう身体が知ってしまっていた。
また、あの音が鳴る。
キィン
遠いのか近いのか、わからない。
風の向きで音が揺らぐのか、それとも複数が別々に動いているのか。
ただ、その音がするたび、まだ追われているのだとわかる。
「急げ!」
今度は母が言った。
声が細くなる代わりに鋭くなっている。
畑の中ほどまで来ると、村の家並みが少し離れた。
道と家の隙間を縫っていた時より、視界は開ける。
けれどそれは安心にはならなかった。
隠れる壁がない。
こちらが見えるなら、向こうからも見える。
実際、振り返らなくてもわかった。
背中が開きすぎている。
広い場所は、逃げるには向いていても、狙われるにはもっと向いている。
右手の少し先で、誰かが走っていた。
村人だ。
男の人だった。
片手に何か棒のようなものを持ち、もう片方の手で小さな子を引いている。
妻らしい女がその後ろを転ぶように追っていた。
彼らも北へ向かっているのだろう。
同じことを考えたのだ。
だが、次の瞬間、その男の身体が不自然に止まった。
走っている最中に止まる人間の形ではなかった。
膝から力が抜けるとか、前のめりになるとか、そういう段階がない。
ただ、動いていた線が途中で切れたみたいに、ふっと止まり、そのまま崩れた。
子どもが転ぶ。
女が叫ぶ。
キィン
女の叫びも、最後までは続かなかった。
ルニアは目を逸らす。
逸らしても、耳には残る。
足音が途切れたことも、衣擦れが土へ沈んだ音も、全部わかってしまう。
「見るな!」
母の声が飛ぶ。
叱る声ではない。
祈るみたいな声だった。
ルニアは唇を噛む。
見たくなくても、視界の端へ入ってくる。
村人たちは別々に逃げているようで、どこかで必ず影と交差してしまう。
誰かの逃げ道は、もう誰かに読まれているみたいだった。
そして、通路の出口、畑へ出る手前に、ひとつの影が立っていた。
いつからそこにいたのか、まったくわからない。
村の家並みの闇と、畑の闇の境目に、そいつは最初から立っていたかのように自然にいた。
黒い外殻は闇へ溶け、裂けた布だけが風もないのにわずかに揺れている。
青い眼だけが、こちらを見ていた。
母も止まる。
従弟がしゃくり上げる。
ルニアは左右を見る。
戻る道はない。
後ろにも別の影が追ってきているかもしれない。
横の畑へ飛び込むにしても、夜の中では足を取られて転ぶだけだ。
ここで終わる。
その考えが、驚くほど静かに胸へ落ちた。
不思議と叫びは出なかった。
怖いのに、もう怖さの先へ行ってしまったみたいだった。
――ああ、終わるんだ。
母の顔が、横目に見える。
従弟を抱きしめた腕に、まだ力がある。
その力ごと、全部ここで切られるのだろう。
影が、こちらへ動く。
キィン、と細い音が鳴る。
今まででいちばん近い。
耳ではなく、頭蓋の内側へ直接響いたような音だった。
歯を食いしばり、息を止めた。
その瞬間――上から何かが落ちてきた。
何が起きたのか、本当にわからなかった。
空そのものが落ちたのかと思った。
音より先に風圧が来た。
空気が一気に重くなり、次の瞬間、地面が爆ぜる。
影とルニアたちのあいだに、何か巨大なものが叩き込まれる。
土が跳ね、畑の畝が砕ける。
乾いた土と湿った土がまとめて吹き上がり、夜の中で壁のように立った。
遅れて、凄まじい音が来た。
雷より低く、近くで岩が砕けたみたいな衝撃。
ルニアは反射的に目を閉じ、腕で顔を庇う。
細かな土粒が頬へ打ちつけられ、耳の奥で音がひしゃげる。
従弟が悲鳴を上げた。
母がそれを庇うように身を屈める。
土煙の向こうで、何かが砕ける音がした。
木ではない。
骨でもない。
もっと硬く、もっと湿ったものが、一度に壊れる音。
ルニアは恐る恐る目を開ける。
そこにいたはずの影は、もう立っていなかった。
地面にめり込むようにして、ばらばらに散っている。
腕らしきものが、畑の端へ飛んでいた。
先は指の形をしているのに、途中から質感が明らかに違った。
肉ではなく、濡れた金属とも骨ともつかないものが剥き出しになっている。
脚らしきものは逆向きに折れ、継ぎ目のような部分から青い液が糸を引いて流れていた。
腹だったものは完全に裂け、中から臓物のようなものと、臓物ではないものが一緒にこぼれている。
柔らかく濡れた塊の中に、円い部品や細い棒、光を失った何かの欠片のようなものが混じっていた。
青い。
液は青かった。
血に似ているのに、血ではありえない色。
月のない夜でも、そこだけ冷たい色味を持って見える。
畑の黒い土の上で、その青い液だけが異物みたいに広がっていく。
ルニアは息をするのも忘れて見つめた。
それは、機械仕掛けで動く、人のような何かだった。
さっきまで自分たちを殺すはずだったものが、破壊されている。
粉砕、としか言いようがない壊れ方だった。
斬られたのでも、貫かれたのでもない。
上からとてつもない力で叩き潰され、そのまま内部ごと破裂したような有様。
青い液は畝の斜面を伝って流れ、小さな溝へ溜まりつつあった。
その中に沈んだ部品らしきものが、まだかすかに震えている。
生き物の痙攣にも見えたし、壊れた何かの残り火にも見えた。
裂けた腹のあたりからは、臓物のような柔らかなものがこぼれているのに、その中へ埋まるように硬い光沢を持つ輪や板が見え隠れしていた。
ルニアの胃がきりきりと縮む。
吐きそうだった。
だが、吐くことすらできない。
喉は乾いたままで、息を吸うだけで土と鉄に似た臭いが肺へ入ってくる。
母も絶句していた。
従弟は恐怖のあまり声も失い、ただ小さく口を開けている。
そして、その中心に、何かが立っていた。
最初は人とすら思えなかった。
土煙の中に、ひとつだけ動かない塊がある。
それがゆっくりと輪郭を持つ。
高く、厚い。
立っているだけで、その場の空気が少し沈んでいる気がした。
その者の首元で、胸にかかった装飾が淡く灯った。
金とも銀ともつかぬ鈍い地金に嵌められた薄石が、夜の中で息をするように一度だけ光る。
同時に声が聞こえた。
「――恩義に報いん」
低い声が闇夜に響く。
纏ったぼろ衣が、夜風の中でかすかに揺れていた。




