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灰塵  作者: 銀城
15/20

14.個体番号:3���/観測断片-2

・対象:霧島きりしま 源之丞(げんのすけ/男/取得失敗/勇者個体

・目的:参照ログ破損

・付与:出力制限中

・地点:帝国第九域(ていこくだいきゅういき)潮風都(しおかぜのみやこ)

・結果:生存継続/後続ログ封鎖


 だが、次の一撃は来なかった。


 張り詰めていた空気から、ふっと熱が抜ける。

 あれほど濃く満ちていた殺意だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、夜の奥へ溶けていった。


 霧島は構えを解かない。

 大剣を低く保ったまま、暗がりを睨み据える。


 ネリシュアもまた手首に指を添えた姿勢のまま、浅い呼吸を整えていた。

 偏向膜の残光が、袖口の下でかすかに明滅している。


 「……何ですか、今の」


 返事はない。


 代わりに、暗がりの向こうから微かな足音がした。


 乾いた土を踏む、静かな足取り。

 重くも軽くもない。

 隠れる気も、威圧する気もない。

 ただ、そこにいると知らせるためだけのような歩みだった。


 やがて薄闇の中から、一人の男が姿を現す。


 全身、黒一色。


 外套ではない。

 布の重なりを極限まで削ぎ、体の線も存在感も殺すためだけに仕立てられたような黒装束。

 顔の大半も覆われ、露出しているのは目元だけだった。


 そこに熱はない。

 殺意も、敵意も、侮蔑もない。


 ただ、任務としてここに立っている者の目だった。


 その右手には、人ひとり分の重みがある。

 男は片腕だけでその重荷を引きずる。


 土の上を擦っていたのは、人間の身体だった。


 ぐったりとして、もう動かない。

 首は不自然に傾き、腕は関節の向きすら曖昧なほど力を失っている。

 衣服は裂け、土と血に汚れ、ところどころ黒く焦げたような痕まで見えた。


 生きてはいない。


 それだけは、近づくまでもなくわかった。


 黒装束の男は二人からある程度の距離に入ると、死体を無造作に放り投げた。


 身体が地面を転がり、鈍い音を立てて止まる。


 ネリシュアは息を呑み、警戒感を高める。


 霧島は無言で視線を落とし、その骸を見た。


 異界の者ではない。


 衣の質も、腰まわりの作りも、この近辺に現れる異界の者特有の雑多さとは別物だった。

 粗末に見えて、実際には動くためだけに削ぎ落とされた装備。

 装身具はなく、身元を示すものも見当たらない。


 武器の類も持っていないが、奪われたのか、あるいは最初から痕跡を残さぬために持たなかったのかは判別できない。


 ただひとつ確かなのは、この場で二人に向けられていた殺意の正体はこれだということだった。


 喉元には浅い裂傷がある。

 だが致命傷は、そこではない。


 胸骨の沈み方が、わずかにおかしかった。

 肋の内側からまとめて潰されたような歪み。

 外から見れば大きな裂け目はないのに、中身だけが壊れている。


 手慣れた殺し方だ。


 この場にいた何者かを処理した者が、ここに立っている。


 黒装束の男は名乗らない。


 ただ、霧島へ向けて言い放つ。


 「剣を下ろせ、霧島源之丞」


 その声を聞いた瞬間、霧島の目がわずかに細くなる。


 知っている声ではない。

 だが、知っている種類の声だった。


 命令と通達だけを運ぶ者。

 姿も名も残さず、必要な時だけ現れる側の人間。


 霧島は数拍だけ黙り込み、それからゆっくりと大剣を下ろした。


 ネリシュアが目を見開く。


 「え……?」


 理解が追いつかないのも無理はない。

 あれほど即座に踏み込む構えを見せていた霧島が、相手の一言だけで剣を収めたのだから。


 黒装束の男は、霧島だけを見ていた。


 「軍規違反だ」


 乾いた声だった。


 「帰還命令が出ている。大隊の一兵士ならまだしも、三番手がこれでは、下にいる連中に示しがつかない」


 ネリシュアの喉がひくりと鳴る。


 軍規違反。

 帰還命令。


 どちらも、軽く流していい言葉ではない。


 だが霧島は表情を変えなかった。


 「わざわざ、それを言いに来たのか」


 「それもある」


 男の答えは短い。


 「これを機に異端審問官が動き始めた」


 その一言で、夜気がさらに一段冷えた気がした。


 ネリシュアの背筋に寒気が走る。


 その名を詳しく知っているわけではない。

 だが、帝国においてその存在が表へ出る時は、たいてい何かが手遅れになった後だ。


 黒装束の男は、なおも感情を交えず告げる。


 「元勇者の一人として、かつては英雄だったかもしれない。だが、異界の者であることに変わりはない」


 忠告というには、声音が冷たすぎた。


 「排除したがっている者がいることを、忘れない方がいい」


 霧島は黙って聞いていた。

 否定もしない。

 怒りもしない。

 肩に力が入ることさえない。


 ただ、夜の底を見ているような目で、黒装束の男を見返している。


 その静けさ、内容が、かえってネリシュアには異様だった。


 ーー元勇者って何?


 霧島はこの手の相手を知っている。

 向こうもまた、霧島をただの剣士としては扱っていない。


 そこにあるのは初対面の緊張ではない。

 所属こそ違えど、同じ帝国の暗部を見知った者同士だけが持つ、ひどく乾いた了解だった。


 ネリシュアだけが、その外にいる。


 そう悟った瞬間、別の意味で背筋が冷えた。


 自分は今まで、何の説明もないまま、その外縁をうろついていたのではないか。


 黒装束の男は続ける。


 「英雄譚は便利だ。民は勝手に膨らませ、都合よく祀る。だが組織は違う。異物は異物として処理される。必要だから使われ、不要になれば切られる。それだけのことだ」


 ネリシュアは思わず霧島を見た。


 元勇者。

 異界の者。

 英雄の一人。


 物語でしか聴いたことのない単語が並ぶ。

 そしてそれが、隣に立つ無口な男へ、そのまま突きつけられている光景は、まるで別の話だった。


 霧島は一言だけ返す。


 「今さらだな」


 黒装束の男の目元に、かすかな揺れが走った。


 笑いではない。

 嘲りでもない。

 理解に近い、ほんの薄い反応だった。


 男は短く繰り返す。


 「気は抜くな。今でも “勇者” と呼ぶ者と、“異界の残滓” としか見ない者は、同じ帝国の中にいる」


 起伏のない声だった。

 それでも、その言葉は刃のように鋭かった。


 「いま動いているのは、忠誠ではなく理屈で動く連中だ。功績にも情にも価値を置かない。規定と記録と正当性で首を落とす」


 ネリシュアの手のひらに、嫌な汗が滲む。


 異端審問官の実態を詳しく知っているわけではない。

 ただ、分析官として微かな噂に触れる機会はあった。


 焼かれた村の報告にはない。

 消された名前の一覧にもない。

 もっと乾いた形で残されたもの。


 人員整理、権限委譲の本当の理由とは。

 記載してはいけない文言。

 体制変更でときおり混じる同じ名前。


 表へ出ない部署ほど、書類の言葉は綺麗になる。

 その綺麗さの裏に何があるのか想像できる程度には、ネリシュアも帝国に長くいた。


 黒装束の男は、そこで足元の死体へ視線を落とした。


 「これは、さっきお前たちを狙っていたものだ」


 ネリシュアの肩がぴくりと震える。


 「やっぱり……」


 思わず漏れた声に、男は答えない。


 「これは序の口だろう。これから増えるぞ」


 霧島が問う。


 「所属は」


 「不明」


 「吐かせていないのか」


 「吐かせる必要はない。こいつはただの雇われだ」


 その一言で十分だった。


 捕縛して尋問する段階にすら入らず、始末したということだ。


 ネリシュアは死体を見た。


 半開きの目は夜気を映さず、口元には乾いた血がこびりついている。

 指先には浅い擦過傷がいくつもあった。

 逃げたのか、這ったのか、最後に抵抗したのか。


 どれであれ、もう確かめようはない。


 「これは忠告だ」


 男は再び霧島を見る。


 「戻らないのであれば、それ相応を覚悟しろ」


 その言葉が落ちた、次の瞬間だった。


 気配が消える。


 風が吹いたわけでもない。

 土煙が上がったわけでもない。

 ただそこにいた黒が、瞬きひとつの隙に夜へ溶けた。


 痕跡すら残らない。


 ネリシュアは反射的に観測の式を起こしかけたが、遅かった。

 視界のどこにも、輪郭らしいものは残っていない。


 「……はやい」


 間の抜けた声が、かすかに漏れる。


 返るものはない。


 平坦な荒地の上には、霧島とネリシュア、そして投げ捨てられた死体だけが残されていた。


 しばらくして、ネリシュアがぎこちなく霧島を見上げる。


 「た、隊長……今の……何ですか」


 霧島はすぐには答えなかった。


 夜がまたひとつ深くなる。

 遠くで風が土を撫でた。


 ネリシュアの喉はひどく乾いている。

 さっきまでの戦闘への緊張とは違う。

 もっと現実的で、もっと逃げ場のない冷たさが、背筋を這っていた。


 軍規違反。

 帰還命令。

 異端審問官。


 どれも、自分には無縁だと思っていた言葉だ。

 少なくとも、今日ここへ来るまでは。


 「まさか……知らなかったんですけど……」


 自分でも何を言っているのかわからない声で、彼女は呟く。


 「私、知らずに……違反仲間になってません?」


 霧島は彼女へ視線だけを向けた。


 その無言が、逆に肯定のように見えてしまう。


 ネリシュアの顔色が、目に見えて変わった。


 「えっ、ちょ、ちょっと待ってください。いや、待ってくださいよ。そんなの困るんですけど。全然よくないんですけど。私、ただ新作の観測刻式を試しに来ただけなんですけど?!」


 声がみるみる上ずっていく。


 彼女は勢いよく立ち上がり、土を払うのも忘れたまま早口で続けた。


 「帰りましょう!」


 ほとんど悲鳴だった。


 「もう十分です! 情報は取れました! かなり嫌な形ですけど取れてます! 帰ってから解析は進めます、整理します、徹夜でもやります、だから一回帰りましょう!」


 呼吸は浅い。

 だが思考は止まっていない。

 恐怖と職業意識が、妙な噛み合い方をしていた。


 「わかり次第、連絡します。軌跡の再現も界傷の層も、あの再現不能の空白も、持ち帰ればまだ詰められます。現地で粘る意味、今かなり薄いです! というか危険度が一気に上がりました!」


 霧島は地面に転がる死体を見下ろした。


 男か、女か。

 年齢は。

 能力は。


 近づけばもう少し拾えるかもしれない。

 ネリシュアの観測灯を使えば顔立ちも見えるだろう。

 衣の繊維を見れば粗方の出身も読めるかもしれない。

 残留魔力を辿れば、どう殺され、その前に何をしようとしていたかも、ある程度はわかるはずだ。


 だが、それは "わかるかどうか" と "今やるべきか" は別だった。


 黒装束の男は、わざわざこれを置いていった。

 持ち帰らず、隠さず、ここへ転がした。

 警告だと言っている。


 そして、見たうえで退けと言っている。


 つまりこれは、単なる始末の結果ではない。

 通達の補強だ。

 言葉だけではなく、物証まで添えてきた。


 ――お前たちを狙う者はいる。

 ――だが、それを潰せる側もいる。

 ――その上でなお、警告は別にある。


 そこまで読めば十分だった。


 ネリシュアはまだ落ち着かない様子で、死体と霧島のあいだへ視線を行き来させている。


 「隊長、聞いてます? 帰りましょう。今ならまだ、ただの現地検証です。報告の仕方によっては、私まで変な扱いにならずに済む余地があります。ありますよね? あると言ってください」


 霧島はしばらく無言だった。


 その沈黙が、ネリシュアにはひどく悪いものに思えた。


 「ありますよね?」


 「……知らん」


 「知らんじゃ困るんですけど?!」


 半ば悲鳴だった。


 「困るのはこっちなんですよ! 私、今日まで、自分は現場に付き合わされてるだけの分析官だと思ってたんです。危険はあっても、せいぜい異界の者か野盗か、その程度だと思ってたんです! 何ですか今の、帰還命令って。軍規違反って。異端審問官って!」


 霧島は答えない。


 その沈黙そのものが、彼女の焦りを煽った。


 「しかも元勇者って何ですか……今度詳しく教えてください」


 そこで一度、息が切れる。


 彼女は胸を押さえて呼吸を整え、それでも続けた。


 「私は研究者です。記録を見て、痕跡を読んで、回路を組む側なんです。誰かの政治的な爆薬の隣に立つ係じゃないんですよ……!」


 最後のほうは、ほとんど本音だった。


 霧島はようやく口を開く。


 「お前は巻き込まれただけだ。これでよいだろう」


 「その言い方、まったく安心できないんですが」


 「事実だ」


 「戻ったら証言してくださいよ!」


 即答だった。


 だが、そのやり取りがほんの少しだけ、ネリシュアの呼吸を戻した。

 怒鳴れるうちは、まだ思考が壊れていない。


 霧島は死体から視線を外し、黒装束の男が消えた暗がりへ一度だけ目を向けた。


 そこにはもう何もない。


 あるのはただ、夜と、平らな荒地と、観測しきれなかった痕跡だけだった。


 セルシヲが戦い、死んだ場所。

 何者かの輪郭が結ばれず、界傷だけが歪んで残る場所。

 そこへさらに別口の狙撃者が潜み、それをまた別の帝国側の人間が処理して、警告だけを残していった。


 状況としてはあまりよくはない。

 要素が多すぎる。

 しかも、どれもひとつずつ綺麗に切り分けられる類の悪さではない。


 セルシヲの死は、やはりただの戦死では終わらない。

 ここには人為が混じっている。

 異界由来の異常だけではなく、帝国側の思惑も。


 そのうえで、今この場に留まり続けるのは得策ではなかった。


 やがて霧島は、大剣を肩へ担ぎ直す。


 その仕草を見た瞬間、ネリシュアはあからさまに安堵の息を吐いた。


 「……戻るぞ」


 短い一言だった。


 それだけで十分だった。


 「最初からそうしてくださいよ……!」


 半泣きなのか半怒りなのかわからない声で返しながら、ネリシュアは急いで巻物と測具を回収し始める。

 指先は少し震えていたが、手の動きそのものは速い。

 こういう時ほど無駄なく片づけるあたり、やはり場慣れしていた。


 巻物の端を揃え、測具を小筒へ差し戻し、簡易記録板に走り書きしていた数値の確認まで忘れない。

 恐怖していても手順は崩さない。


 そのあたりは、霧島も認めていた。


 最後に、彼女は地面へ転がされた死体をちらりと見た。


 「……これ、どうするんですか」


 「放っておけ」


 「放っておくんですか?」


 「今ここで拾う方が面倒になる」


 拾えば、別の意味を持たされる。

 そういう言い方だった。


 ネリシュアは顔をしかめる。


 理解はした。

 納得はしていない。

 だが、この場で霧島に食い下がっても答えが増えないことも、もうわかっていた。


 「……ほんと嫌ですね。帝国のこういうところ」


 ぽつりと漏れたその言葉に、霧島は何も返さなかった。


 否定しないこと自体が、返答のようなものだった。


 二人は平坦化された旧山林地帯を、来た時とは違う沈黙の中で歩き始める。


 先ほどまでこの場に満ちていたのは、観測への緊張と、見えない敵への警戒だった。

 だが今、二人のあいだにあるのは、それとは別種の重さだった。


 見えないものに狙われることよりも。

 正体のわからない敵と戦うことよりも。


 帝国の内側にいる “知っている者たち” に見られているという事実の方が、ずっと冷たかった。


 歩き出してしばらくは、土を踏む音しかしなかった。


 やがてネリシュアが、小さく口を開く。


 「……あの」


 「何だ」


 「軍規違反って、どの程度の……違反なんですか」


 聞いてから、自分でも馬鹿な質問だと思ったのだろう。

 彼女はすぐに付け足す。


 「いや、程度っておかしいですね。違反は違反なんでしょうけど。ほら、始末書で済むものと済まないものがあるじゃないですか」


 「済まない方だ」


 「ですよね!」


 返答が早すぎて、半分悲鳴になった。


 霧島は歩調を変えない。


 「お前については、知らなかったで押し通せばよい」


 「押し通せるんですか?」


 「押し通すしかない」


 ネリシュアは額を押さえた。


 頭が痛い。

 情報量が多すぎる。


 界傷の異常だけでも研究対象としては十分すぎるほどなのに、そこへ軍規と異端審問官と元勇者問題がまとめて降ってきた。


 今日一日の報告書が何枚になるのか、想像もしたくない。


 「……帰ったら、まず観測記録を整理します」


 半ば自分に言い聞かせるように呟く。


 「今回の界傷は、通常の異界侵入痕と比べて乱れ方が不自然でした。戦闘再現の方も、相手側だけ輪郭が結ばれない。あれが同じ原因なのか、別系統の何かしらの妨害なのか、切り分けないといけません」


 恐怖の中でも仕事の話へ寄るあたり、彼女らしかった。


 「観測刻式の感度設定も見直さないと……」


 少しずつ、声が落ち着いていく。


 整理できるものを整理する。

 名前のつくものへ手を伸ばす。

 そうしなければ、今日の出来事そのものに呑まれる。


 霧島は前を向いたまま言う。


 「わかったことだけ上げろ。推測は分けろ」


 「それは当然です」


 分析官の口調に戻ったネリシュアは、すぐに眉をしかめた。


 「でも今日の件、推測抜きでも嫌な事実が多すぎますよ。セルシヲ隊長の戦闘地点で説明不能の観測妨害があって、何者かが私たちを狙っていて、その狙撃手を別口が処理して、しかもそっちから軍記違反の警告を受けるって、どう報告をまとめればいいんですか」


 「事実だけ並べろ」


 「並べた結果が一番嫌な報告書になるやつですね」


 霧島は否定しない。


 夜の底で、土の匂いが薄れていく。


 背後には、名を持たぬ何かの痕跡と、語られなかった警告だけが残された。


 霧島は振り返らない。

 ネリシュアも、もう後ろを見なかった。


 ただ一度だけ、彼女は小さく呟く。


 「……これ、帰ってから解析して、もっと嫌なことわかったらどうしましょうね」


 霧島は歩きながら、淡々と答えた。


 「何も出ないよりはいい」


 「まぁそうですね……」


 情けない声が夜に溶ける。


 ネリシュアは少しだけ口を閉ざす。


 帰路の先には潮風都の灯がある。

 報告があり、解析があり、追及があり、あるいはそれ以上のものが待っている。


 それでも今は、まず戻るしかない。


 平坦化された旧山林地帯を抜けるころには、夜はすっかり深くなっていた。

 雲間を月が行き来し、そのたび荒地の凹凸が淡く浮かんでは消える。


 振り返れば、あの場所はもう闇に呑まれていた。


 セルシヲの戦場も。

 輪郭を持たない敵の痕も。

 置き去りにされた死体も。

 忠告だけ残して消えた黒装束の男も。


 すべてが夜の底へ沈み、最初からそこになかったように見える。


 だが、消えたわけではない。


 見えなくなっただけだ。


 ネリシュアはそれを思い、ぞっとする。


 観測できないものは、存在しないことにならない。

 むしろ、観測できないまま存在し続けるものの方が、よほど厄介だ。


 今夜、自分たちはそういうものの縁に触れた。


 夜の荒地を離れていく二人の背を、名も持たぬ闇だけが静かに見送っていた。


・対象:霧島きりしま 源之丞(げんのすけ/男/取得失敗/勇者個体

・目的:参照ログ破損

・付与:出力制限中

・地点:帝国第九域(ていこくだいきゅういき)潮風都(しおかぜのみやこ)

・結果:生存継続/後続ログ封鎖

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