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灰塵  作者: 銀城
16/20

15.個体番号:����/観測断片-1


 帝国第九域・潮風都の南東には、海へ向かってひらけた土地がある。


 都を出た道は、しばらくは人と荷馬車に踏み締められた広い街道として続くが、潮の匂いが強くなるあたりから、石畳を失って白っぽい土の道へ変わる。

 両脇には、防風のために植えられた黒松と、丈の低い草地が細く伸び、その向こうには、海から吹き上げる塩を受けながらも粘り強く実る畑があった。


 その先に、潮印村しおじるしむらはある。


 村は海に近い。

 ただし、浜へべったり張りつくような場所ではない。

 潮の荒れる季節を知ったうえで、海からは少しだけ退き、かわりに岩浜を見下ろせるゆるい高みに寄り添って家々が置かれている。


 南には、白い飛沫を立てる岩場の海。

 北には、村を包むように古い森。

 森は深すぎないが、木の幹は太く、根は地を強く抱き、昼でも薄暗い場所がところどころにあった。


 海で魚を取り、浜で貝を拾い、畑で麦や豆を育て、森から薪と薬草を得る。

 広くはないが、生きていくには不自由の少ない土地だった。


 だからこそ、人も獣も寄ってくる。


 潮印村には、雇われの警護がいた。


 都から正式に兵が置かれているわけではない。

 村が金を出し、あるいは都へ出入りする商人たちが共同で銭を積み、腕のある者を雇っているのである。


 軽装の者は、革鎧に短槍や剣を下げて村の外周を巡る。

 重装の者は、胸当てや肩当て、時には盾まで備え、街道口や森側の見張りを受け持つ。

 出自はばらばらだ。

 都で職にあぶれた古兵、流れの傭兵、護衛上がりの男、村の近くに住みついて日銭を稼ぐ者。

 だが、金を受け取る以上は役目を果たすという種類の、乾いた信用があった。


 彼らは朝に海側を見て、昼に街道口へ立ち、夕に森の縁を巡る。

 人手が多い村ではない。

 そうした者たちの存在は、村にとってそのまま安心の形だった。


 とはいえ、近ごろは、その警護たちの方が落ち着かなかった。


 魔獣が減っている。


 最初は、季節の巡りだろうと誰もが思った。

 風向きが変わったのだとか、近くの山で何かあったのだとか、その程度の話で済むはずだった。


 だが、ただ “見なくなった” だけではなかった。


 夜に森の方から聞こえていた唸りが止む。

 畑の端を荒らしていた小型の獣すら姿を見せない。

 森際に残るはずの足跡が、途中でふっと途切れる。

 糞や毛や爪痕といった、そこに生き物がいたとわかる痕跡までが薄くなっていた。


 何かが狩っているのでは、とも囁かれた。

 もっと大きく、もっと獰猛な何かが一帯を縄張りにしたのでは、と。


 けれど、そういう話には当然ついて回るはずのものが見つからない。


 死体がない。

 血がない。

 争った跡がない。


 魔獣同士が喰い合ったなら、骨くらいは残る。

 腕の立つ狩人が片づけたのなら、引きずった跡の一本はある。

 だが潮印村の周囲では、それすら見当たらない。


 ただ、いたものが、いなくなっていた。


 理由のわからぬ平穏は、長く人を安心させない。

 むしろ、わからないからこそ、人はわかりやすい理由へすがりつく。


 そこで村人たちの口に上るようになったのが、森の祠のことだった。


 村の北、森へ少し入った先に、小さな祠がある。


 古い石を積み上げて作られた、名もよくわからぬ祠だ。

 屋根代わりの平石は角が欠け、表面には苔がついている。

 いつ誰が置いたものかも曖昧で、海の神を祀るのだと言う者もいれば、森と村の境を鎮めるためのものだと言う者もいる。

 もっと昔、この土地にまだ村という形がなかった頃からそこにあったのだと語る老人もいた。


 普段は誰も、熱心に拝みはしない。

 祭りの折に酒を持っていく者がいて、嵐の前に塩を供える者がいる、その程度の距離感だ。


 だが、ここしばらく、その祠へ毎日のように通う少女がいた。


 名をルニアという。


 年は十四。

 村の娘らしく、日に焼けた頬と、よく働く者の指をしていた。

 背丈はまだ伸びきらず、肩も細い。

 けれど、目だけはまっすぐだった。

 人と話す時も、黙って何かを見る時も、その視線は妙に逸れない。


 ルニアは、よく働いた。


 朝はまだ空が薄青いうちに起き、水を汲む。

 井戸から運んだ二桶を台所へ置き、火を起こし、昨日のうちに塩へ漬けておいた魚を裏返し、母の手伝いで麦を挽く。

 それから網を畳み、鶏へ餌をやり、年下の従弟じゅうていを叩き起こし、昼前には畑へ出て草を取る。


 昼過ぎに戻れば、洗い物と干し物が待っている。

 夕方には海から戻る舟の手伝いもある。

 日が傾いてからようやく少し手が空き、その頃になって彼女は小さな籠を持つ。


 祠へ行くためだ。


 供え物は、たいそうなものではない。

 麦餅を半分。

 塩をひとつまみ。

 畑で採れた豆や果実があれば少し。

 時には浜で拾った貝殻や、道端の花を添える。


 贅沢な品ではなく、暮らしを削らぬ範囲の慎ましいもの。

 それでも毎日続けば、村人の目にはそれなりに印象深く映る。


 最初は、真面目な子だというだけだった。

 母に言いつけられてでもいるのだろう、と。


 そこへ、魔獣が減ったという話が重なった。


 あの子のお供えが効いているんじゃないか。

 祠の御方が機嫌をよくしてくれているんじゃないか。

 昔からいる境の神さまが、ようやく顔を上げたんじゃないか。


 そんな話が、井戸端で、浜で、畑で、幾度も繰り返されるようになった。


 軽口めかして言う者もいる。

 本気で手を合わせる者もいる。

 警護の中にさえ、森側の見張りが前より楽になったと真顔で言う者が出はじめていた。


 ルニア自身は、そのたびに困った顔をする。


 自分のおかげだとは思っていない。

 祠へ通いはじめた理由は、もっと曖昧で、もっと個人的なものだった。


 幼いころ、高い熱を出して寝込んだ時に、母が言ったのだ。

 無事に済んだなら、少し礼を返してきな、と。

 海も森も、村は借り物の上で暮らしているのだから、と。


 それを、ルニアは覚えていた。


 神さまが本当に食べるとも思わない。

 願えば何でも叶うとも思わない。

 ただ、祠の前へ立って、今日も無事でしたと胸の内で告げると、何となく一日がちゃんと閉じる気がした。

 だから続けている。

 それだけだった。


 ただし最近は、その供え物が消えることの方が、彼女にはよほど引っかかっていた。


 最初に気づいたのは数日前だ。


 置いていった麦餅が、翌日にはなくなっていた。

 風で飛ぶような場所ではない。

 鳥ならついばんだ跡が残る。

 獣なら荒らした形になる。


 なのに、何もない。

 きれいに消えていた。


 次の日も、その次の日もそうだった。

 果実を置けば、皮も種もなくなる。

 塩を包んだ布だけが残っていたこともある。


 盗まれた、という感じではなかった。

 受け取られた、と言った方が近いほど、跡が静かだった。


 母は狐か狸だろうと気にも留めなかった。

 村の子どもたちは面白がり、女たちはますます噂を膨らませる。


 だが、ルニアの胸には妙な引っかかりだけが残った。


 今日も彼女は、昼の仕事をひと通り終えたあと、小さな籠を持って村を出た。


 中には、麦餅がひとつ。

 干した小魚が二尾。

 それから白い小さな貝殻と、道端に咲いていた花が二、三本。


 海からの風は強いが、冷たすぎはしない。

 家々の板屋根の上を光が滑り、干し網が軋み、桶の縁には白い塩がこびりついている。

 いつも通りの村の午後だった。


 柵のそばでは、警護たちが話していた。


 革鎧に槍だけを持つ若い男が二人。

 その横で、胸当てを着けた中年の男が腕を組み、少し離れた場所には、重装の大柄な男が冑を脇に抱えて立っている。


 「また祠か、ルニア」


 若い槍持ちが声をかけてきた。


 「うん」


 「効いてるらしいなぁ、いいことだ」


 からかうような言い方だったが、半分は本気だとわかる。

 ルニアは小さく肩をすくめた。


 「そんなわけないでしょ」


 「いや、でも本当に静かなんだよ。前は森の端まで行くだけでも嫌な感じがしたのに」


 中年の男が髭を撫でながら言う。


 「静かすぎる方が、ちょっと怖いけどね」


 ルニアがそう返すと、男は苦く笑った。


 「それはそうだ」


 重装の男が低い声で口を開く。


 「奥へ行くなよ」


 脅しではなく、確認のような声音だった。


 「祠までだよ。いつも通り」


 ルニアが答えると、男はうなずき、それ以上は何も言わない。

 ただ一度だけ、籠の中身へ視線を落とした。

 白い貝殻が日にかすかに光る。


 「本当に消えるのか、供え物」


 若い槍持ちが、知りたくてたまらない顔で身を乗り出す。


 「消えるよ」


 「足跡は?」


 「見たことない」


 「じゃあ神さまだ」


 もうひとりの若い男が、軽々しく決めるなと肘で小突いた。

 そのやり取りを背に受け、ルニアは村裏の小道へ向かう。


 畑の匂いが薄れ、かわりに森の湿った匂いが濃くなる。

 潮風はまだ届くが、木々の間へ入るにつれ、塩の気配は土と葉の匂いへ溶けていった。


 祠へ通じる道は、立派なものではない。

 村人がたまに往復するから草が倒れている、その程度の細い道だ。

 両脇には古い木が立ち、地面には浅く根が走り、羊歯しだが足元を隠している。


 鳥の声はある。

 虫の羽音も聞こえる。

 なのに、もっと大きな生き物の気配だけが薄い。


 その不自然さを、ルニアはやはり感じていた。


 慣れた道なのに、今日は何度か立ち止まりそうになる。

 怖いというほどではない。

 ただ、森の奥に何かがあるような感覚が、いつもより少し濃かった。


 やがて祠が見えた。


 木々の間にひっそり置かれた石の祠は、今日も変わらず古びている。

 苔の色も、欠けた角も、風雨に磨かれた土台も同じだ。


 けれど、その前だけは妙に整って見えた。


 掃かれたわけではない。

 人の手が入った跡もない。

 それなのに落ち葉の溜まり方が少なく、細い枝がそこだけ避けるように脇へ寄っている。

 何日か前から感じていた違和感が、今日はさらに強かった。


 ルニアは祠の前へしゃがみ、籠を下ろす。

 麦餅を葉の上へ置き、小魚を並べ、貝殻と花を添える。

 それから膝を揃え、静かに手を合わせた。


 ――今日も、みんなが無事でありますように。


 声にはしない。

 胸の中でだけ言う。

 海へ出た者たちのこと、畑へ出ている者たちのこと、家のこと、村の子どもたちのこと。

 願いというより、今日も壊れませんように、と確かめるような祈りだった。


 葉の擦れる音がした。


 森の風は海辺の風と違って、あまり肌へは触れない。

 なのにその時、何かがすぐ近くを通った気がして、ルニアは目を開いた。


 誰もいない。


 祠も、供え物も、そのままだ。

 けれど空気だけが少し変わっていた。

 祠の奥、木立の重なりが、さっきより深く見える。


 ルニアはしばらくそこを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


 「……いるのかな」


 思わずそんな言葉が漏れる。

 返事はない。


 当たり前だ、と自分で思う。

 神さまでも獣でも、こちらの問いに都合よく応えるものではない。


 それでも、胸のざわつきは消えなかった。


 「最近、食べてるの、あなた?」


 誰にともなく言ってみる。

 馬鹿みたいだと自分でも思う。

 だが、どうせ誰も聞いていない。


 森は黙ったままだった。


 その時だった。


 祠のさらに奥、木と木の隙間に、何かが一度だけ揺れた。


 音はしない。

 枝も大きくは鳴らない。

 ただ、暗がりの濃さが一瞬だけ変わったように見えた。


 人の形をしていた、とまでは言い切れない。

 だが、ただの影でもなかった。

 木立のあいだに、もうひとつ夜が差し込んだような、細長い濃淡の揺れがあった。


 それはほんの刹那で、ルニアが目を凝らした時にはもう消えている。


 見間違いかもしれない。

 光の加減かもしれない。

 そう思えるほど、跡は残らない。


 けれど、何もないと言い切るには、あまりに静かすぎた。


 ルニアは立ち上がりかけて、やめた。

 もう一度、祠へ向き直る。

 そして深く頭を下げた。


 「……村に悪いものが来ないなら、それでいいよ」


 祈りでも約束でもない。

 ただ胸の内を置くような、小さな言葉だった。


 返事はない。


 けれどその代わりに、祠の上へかかっていた細い葉が一枚だけ落ち、供え物の脇へ静かに降りた。


 それを答えだと思うほど、ルニアは単純ではない。

 だが、否定するには都合がよすぎる静けさだった。


 彼女は籠を抱え直し、来た道を戻りはじめた。


 帰り道、背中に視線のようなものを感じた気がした。

 追われるのとは違う。

 襲われる気配でもない。

 ただ、森の奥から、何か静かなものに見送られているような、測られているような感覚だった。


 けれどルニアは振り返らない。


 振り返ったところで、何も見えない気がしたし、見えてはいけないものまで見えてしまう気もした。


 木々のあいだから差し込む光が少しずつ明るくなる。

 森の湿り気が薄れ、かわりに海からの塩気が戻ってくる。

 その変化に合わせて、身体の強張りも少しだけ解けていった。


 けれど、完全には消えない。


 途中、ふと足元へ目を落とした時、土の上に薄い影が走った気がした。


 ルニアは立ち止まらなかった。

 気づかなかったふりをするように、そのまま歩く。


 足音は自分のものしか聞こえない。

 籠の縁に指がかかる感触だけが、妙に確かだった。


 森を抜ける手前まで来た頃、前方に村の柵が見えた。

 見張り台があり、槍を持つ警護が立っている。

 その、いつも通りの光景が、今日は少しだけ頼もしく見える。


 背後の森は相変わらず静かだった。


 静かすぎるほど静かで、そこに何かが潜んでいるのか、何かが立っているのか、それとも本当に何もないのか、境目が曖昧になるほどだった。


 それでも、ルニアにはひとつだけわかる。


 供え物は、ただ風で失せているのではない。

 あの祠のあたりには、村の誰も名前を知らない何かがいる。

 それが神か獣か人かは、まだわからない。


 ただ、少なくとも今のところ、その何かは村へ牙を向けていない。


 そこまで考えて、ルニアは自分で少しだけ可笑しくなった。


 海風が吹く。

 髪が揺れる。

 森の匂いが、その奥でかすかに混ざる。


 ルニアは籠を抱えたまま、村へ続く小道を歩いていく。




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