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灰塵  作者: 銀城
13/20

12.個体番号:3���


 この訓練場には、乾いた土の匂いが満ちていた。


 だがその乾きは、ただ踏み固められた地面のものではない。

 抉れ、砕け、焼けもせずに削がれた土の匂いだった。


 兵が走るたびに少しずつ削れるような柔い場所ではない。

 もとは岩盤を砕いて均した広地だったはずなのに、今はあちこちに浅い裂溝れっこうが走り、盛り上がった土塊が小さな丘のように残り、古い打ち込みの痕は窪地くぼちになっていた。


 地面そのものが、ここで何年も積み上げられてきた暴力の記録になっている。


 踏み固められた地面の上を、若い兵たちが何列にも分かれて走り、打ち合い、倒れ、また立ち上がる。

 朝から続いた鍛錬は、陽が傾きはじめた今も終わらない。


 怒声と金属音が絶えず響いているのに、その場所には妙な規律があった。

 乱れているようで、崩れてはいない。

 誰かが全体のはくを取っているとわかる動きだった。


 彼らは、見栄えよく剣を交えたりはしない。

 前に出て押し切り、崩れたものをさらに押し流すための鍛錬を繰り返す。

 盾を合わせれば空気が鳴り、踏み込みが揃えば土が沈む。


 木剣の打ち合いで済む段階はとっくに過ぎており、鈍い訓練剣がぶつかるたび、土埃が舞い上がる。

 組み合った二人が崩れれば、そこだけ土が捲れ、足場が一段低くなる。


 列の端では、巨盾役の兵に向けて三人がかりでぶつかっていたが、押し返された側の踵が地を掻いた跡は、ただの滑り痕ではなく、土をうねのように盛り上げて残っていた。


 遠くでは、投槍なげやりの訓練が行われている。


 放たれた槍は的に刺さるだけではない。

 外れた一本が土壁に触れた瞬間、壁の一角をまとめて崩し、乾いた塊が下へ落ちる。


 さらにその向こうでは、重装の兵が大盾を構えて突進し、胸の高さほどあった木柵を正面からへし折っていた。

 折れた木材は破片ではなく、半ば砕かれた杭の群れになって散らばる。


 これら全体を見渡し、拍を取っている男が、一段高い土盛りの脇に立っていた。


 そこもまた、もとは見張りのための小高い場所だったのだろう。

 だが今は周囲の地面が削れ、踏み抜かれ、逆にそこだけが残ったように見える。


 全身を甲冑で包み、その上から灰色の外套がいとうを肩より垂らしていた。

 灰は淡くはない。

 鍛冶場の隅に積もるすすに近く、光を受けてもなお鈍く沈んで見える。


 裾は長く、風をはらむたびにぼろ布じみた裂け目が揺れた。

 端には擦れた跡があり、古い補修の縫い目も走っている。

 着飾るための布ではなく、長い戦場を越えてきたものだけが持つ、乾いた重みがあった。


 冑は頭頂がやや高く、わずかに尖っている。

 飾り気はなく無骨な造りで、額から鼻筋にかけて一本、縦の稜線りょうせんが通っている。


 覗き窓は細く暗い。


 目の位置に、横一文字よこいちもんじの暗い隙間があるだけで、その奥は光を返さない。

 顔を守っているというより、顔というものをこちらに見せるつもりがない形だった。

 傷とくすみを重ねた鉄の面は、華美かびさの代わりに無言の圧を残す。


 かたわらには、大剣が突き立つ。


 剣というより、鉄塊に等しい。

 人の背丈を越える長さと厚みを持ちながら、雑に置かれてはいない。

 地に深く食い込んだその刃を、彼は杖のように左手で押さえている。

 刀身には細かな欠けと擦れが残り、つばにも、何度も何かを受け止めたあとの鈍い傷が刻まれていた。


 その剣が刺さっている場所だけ、地面の沈み方が違った。

 周囲の土は硬く締まっているのに、そこだけは何度も同じ重みを受けてきたように深く落ちている。

 訓練の合間、あるいは終わり際、その大剣がいつも同じように突き立てられてきたのだろう。

 小さな癖ひとつまで、この訓練場の地形に刻まれている。


 右の肩口から先はない。


 失われた腕を隠すための工夫もなく、ただ、そこに欠けがあるという事実だけが残されていた。

 空になった肩の輪郭には、痛ましさはもうない。


 胸甲きょうこうには打痕が散り、肩当てには刃が滑ったような傷が浅く幾筋も走っている。

 継ぎ目には土埃が沈み、くすんだ鉄の色が、外套の灰と馴染んでいた。

 全身を覆っているはずなのに、重苦しいというより、使い込まれた道具のように身体に馴染んでいる。


 目下の者たちの視線は、自然とそんな彼へ集まる。


 彼が声を上げれば列が締まり、黙れば空気が張る。

 褒める言葉は短く、叱責はさらに短い。

 どちらも余計に響かせる言い方をしなかった。


 足運びの甘い者にはそれだけを告げ、剣先の鈍い者にはその一手前の癖だけを正した。

 ひとりひとりを見ているというより、全体の流れの中で狂う場所を見抜いているような視線だった。


 十一紋衆じゅういちもんしゅう 第九大隊 先任紋務官せんにんもんむかん 兼務 鎮圧中隊隊長。


 彼の顔を知る者は少ない。


 そもそも十一紋衆の各大隊においては、上の方で顔が売れている者は多くなかった。

 名と役職だけが先に歩き、当人は冑の奥に沈んだまま年を重ねる。


 彼もまた、そのひとりだった。


 立場だけ言えば、大隊内の三番手にあたる。

 ここは、その大隊に所属する "鎮圧中隊" の訓練場である。


 百人余りがここに収容され、日々訓練に勤しむ。


 鎮圧中隊の者たちは、ただ強いだけでは務まらない。

 前に出るだけでも、斬るだけでも足りない。

 押し潰す波頭になれる者と、その後ろで波を崩さず支える者と、崩れた敵陣の穴へ躊躇なく踏み込める者とでは、身体の使い方が異なる。


 その違いを、彼は一目で見分けていた。


 盾列の噛み合わせが半歩浅い。

 踏み込みの瞬間に腰が高い。

 叩きつけた後の戻しが遅い。


 そうした狂いは、この中隊ではただの未熟で済まされない。

 次の一歩で陣形全体を崩すことにつながってしまう。

 だから彼の短い声は、他所の訓練場より少しだけ重かった。


 走る列の中には、まだ体格に頼って押し込もうとする若者もいれば、逆に慎重すぎて半歩を余らせる者もいる。

 彼はそれを見逃さない。


 前に出た瞬間ではなく、その直前、呼吸の継ぎ目や踵の浮き方で、どこが遅れ、どこが足りず、どこが余計かを測っていた。

 訓練場にいる兵たちは、誰ひとりとしてその視線を真正面から受けたいとは思っていない。

 だが同時に、その視線から完全に外れることも恐れていた。


 見られているあいだは、まだ矯正できる。

 見切られれば、それで終わる。


 そういう種類の厳しさが、この場にはあった。


 一団が組手を終え、次の列が前へ出る。

 その切り替わりの間を縫って、ひとりの伝令が駆け込んできた。


 足音は速かったが、近づくにつれ不自然に小さくなった。

 あの男の前では、急報さえ声量を選ぶらしい。


 伝令は土に膝をつき、かぶとを垂れた。


 「報告いたします」


 彼は訓練場から視線を外さないまま、先を促した。


 短い沈黙があった。


 伝令が言葉を選んだのではない。

 選ばなければならない内容だった。


 「……第九大隊 斥候せっこう中隊 第三小隊 第二分隊が壊滅。これを追った斥候中隊 隊長セルシヲ・ウヴァルーファスも、戦死を確認」


 その一文だけで、彼の近くで空気の重さが変わった。


 叫びが上がったわけではない。

 誰かが動揺を口にしたわけでもない。

 だが、その場にいた者の何人かは、なぜか背筋を伸ばした。


 報告の中身を正確に飲み込めた者ばかりではない。

 それでも、その言葉が軽いものではないと察するには十分だった。


 彼は動かない。


 灰色の外套だけが、風にわずかに揺れた。


 「状況を」


 伝令は顔を上げず、続けた。


 「北東辺境、旧山林地帯。第二分隊は他任務の帰路にあり、その途上で異変に接触したものと推定されます。現地では地形変動を確認。山林は消失し、地表は平坦化。第二分隊隊員の遺体は、各所に散開した状態で発見されたと記録されています」


 伝令はそこで一度だけ息を継いだ。


 「戦死者は、隊長セルシヲ・ウヴァルーファス、ならびに第二分隊隊員総勢十二名。全員、現地で確認済みです」


 全員の名前をここで並べるには、訓練場はまだ明るすぎた。


 「生存者はなし。目撃証言もありません。現地の痕跡、損壊状況、遺体配置、武装断面からの逆算のみです」


 訓練場の風が少し冷えた気がした。


 「セルシヲ・ウヴァルーファスの根拠は」


 彼の指先は、大剣の柄から離れない。


 伝令は答える。


 「灰の外套。破損した特徴的な甲冑。愛用していたと思われる大剣および巨盾。いずれも、隊長セルシヲ・ウヴァルーファスの装備記録と一致します」


 そこにも、目撃はない。


 あるのは痕跡だけだ。

 だが、その痕跡は十分すぎるほど、その者の輪郭を語っていた。


 セルシヲ・ウヴァルーファス。

 灰の外套と大剣、巨盾で知られた、斥候中隊の隊長である。


 「交戦痕から見る限り、戦い方は接近戦。局所的な打突と斬撃の深さ、地面のえぐれ方、盾の接触痕が見られています」


 中央の列では、盾列のひとつが掛け声とともに前へ出た。

 揃った踏み込みで地が沈み、乾いた砂がふわりと浮く。

 その音が、報告の切れ目にかぶる。


 「対象は」


 彼が問う。


 伝令は一瞬だけ間を置いた。


 「異界の者と推定されています。ですが、今回の事例は事前観測に捕捉されていなかったとのことです」


 それだけ告げてから、続ける。


 「そのため、第二分隊は帰路の途中で異界の者に接触したものとされています。セルシヲ・ウヴァルーファス隊長は、おそらく現地の異変を察知して向かったものと」


 訓練場の空気は、そこでさらに一段沈んだ。


 異界の者。

 その呼び名自体は珍しくない。

 この世界に落ちてくる厄介事には、たいていそれで足りる。


 だが今回の報は、既知の危険をなぞるようには聞こえなかった。

 分隊ひとつが帰路で呑まれ、それを追った男まで消える。


 しかも残されたのは、勝敗の形ですらなく、地形ごと理屈を奪われたような荒れ方だけ。

 そこにあるのは脅威というより、世界の側にひとつ説明のつかない欠けが生まれたような気味の悪さだった。


 気が付けば、隊員たちはもう誰も声を上げていない。


 打ち合いの順番を待つ列も、地面に落ちる汗も、夕方の光も、そのままそこにあるのに、ひとつの報が訓練場全体を別の場所へ変えてしまったようだった。


 そして、報告はそれで終わりだった。


 誰がどんな最期を見たか、どれほど戦ったか、どんな言葉を残したか。

 報告には含まれない。

 戦場とはだいたいそういうものだ。

 残るのは結果と、後からその周囲に沈殿するものだけである。


 彼はようやく視線を動かし、訓練場の向こうではなく、もっと遠い場所を見るように空を仰いだ。


 表情は見えない。

 冑の奥は影で閉じている。


 それでも、その沈黙がただ事ではないことはわかった。


 戦死した者の誰かが、彼にとって何であったのかは語られない。

 同期か、旧知か、借りを残した相手か、それとも名すら交わすことの少ない同類だったのか。


 わからないままの方が、かえってその場にはふさわしかった。

 人が重くなる理由は、いつも説明に向いているとは限らない。


 斥候中隊とその隊長の死は、軽く見られるものではなかった。


 第九大隊の中でも、先に危険へ触れるのはあの者たちだ。

 見つけ、測り、戻ってくる。


 戻れぬ時はもちろんある。

 ただ、そういう役目を知る者ほど、壊滅という言葉をただの損耗としては受け取れない。


 訓練場の端で、剣を握った若者がひとり、無意識に柄を強く握りすぎていた。

 手の皮が鳴るほど力が入っている。


 何かを感じ取ったのだろう。

 だが、それが何なのかまでは届いていない。


 その若者の足元には、昼前の打ち込みで開いたひびがまだ残っていた。

 最初は細い筋だったものが、繰り返し踏まれるうちに広がり、今では足首が軽く沈むほどの割れ目になっている。


 別の場所では、訓練用の土壁が半分崩れて土塊の山になっていた。


 ここでは壊れた地形さえ、その日のうちに訓練の一部へ組み込まれる。

 鎮圧中隊の鍛錬は、平らな場所を平らなまま終わらせない。


 彼は大剣の柄を握りなおした。


 深く突き立っていた刃が、鈍い音を立てて抜ける。

 土が崩れ、細かな粒が夕光の中に散った。

 その剣を持ち上げた姿は、武器を手にしたというより、身体の一部を持ち直したように見えた。


 「本日の訓練は予定通り続行する」


 声は広く届いた。

 大きくはないのに、端まで届く。


 「走れ。打て。倒れたら立て。明日も同じように始まると思うな」


 その一言で、止まりかけていた空気がまた流れ出す。


 中央の列が再びぶつかり合う。

 盾と盾が噛み合う鈍音のあと、遅れて地面が沈む。


 左端では二人が組み付き、そのまま横倒しになって転げたが、起き上がる時にはもう崩れた土盛りを踏み台に使っていた。


 訓練場のあちこちで砂塵が立つ。


 兵たちは地形に従って動くのではなく、動いた結果として地形を作り替える。

 その訓練を、彼は日々見てきた。


 それだけ告げて、彼は伝令へ向き直る。


 「討伐隊の再編は」


 「すでに。ですが、上は慎重論に――」


 「慎重で敵が止まるなら、もう止まっている」


 言葉は冷えていたが、乱暴ではなかった。

 乱暴ではない分、返しようがない。


 彼は数歩進み、訓練場の出口へ向かう。

 その背を見て、伝令はようやく顔を上げた。


 「先任紋務官殿」


 呼び止める声に、振り向かない。


 「どちらへ」


 「討伐へ出る」


 それも、ただ事務的に告げられた。


 伝令は息を呑む。

 立場を考えれば、彼自身が出る必要はない。


 いや、出るべきではないと考える者もいるだろう。

 第九大隊の内側を支える役職が、自ら前線へ出ることは単純な損失につながる。


 だが、その場にいた誰ひとりとして、軽々しく制止の言葉を出せなかった。


 彼の足取りは変わらない。


 決意というより、確認が済んだ者の歩き方だった。

 行くかどうかを今決めたのではなく、聞いた時点で既に終わっていたのだろう。


 訓練場の柵を越える手前で、視界の片隅に、見慣れ過ぎたものが浮かんでいた。

 何年を共にしたか分からないそれは、すでに彼の一部になっていた。


 薄い半透明の板。


 光を持つというより、空気の上に静かに貼りついているような板。

 縁だけが淡く発光し、その内側に細かな文字が整然と並んでいる。

 人によっては奇跡と呼び、人によっては呪いと呼ぶそれを、彼は長いこと見慣れていた。


 板の上部には、冷えた書式でいくつもの項目が表示されている。


 《名称:霧島きりしま 源之丞げんのすけ

 《分類:元勇者(弱)》

 《状態:利き手欠損》

 《保有スキル数:22》


 《主要スキル:言語理解》

 《主要スキル:言語変換》

 《主要スキル:不老不死》

 《主要スキル:剣聖の才》

 《主要スキル:重力操作》


 その下にも、まだまだ続く。


 戦技、抵抗、補助、知識、加護、異能。

 文字列は縦に長く、説明欄はさらに長い。


 効果、条件、発動、制約、補足、例外。

 丁寧なくらいに書き込まれた文章が、冷たく整列していた。


 読み解けば便利なのだろう。

 知らぬ者が見れば羨むのかもしれない。


 だが、その板は彼の決意に何も足していない。


 帰路で何かに巻き込まれた斥候分隊と、その異変を感じて向かったまま戻らなかったセルシヲ・ウヴァルーファス。

 その報せを受けたとき、そこに新しい文字が増えたわけでもない。

 何かの導きが示されたわけでもない。

 ただ、世界はいつもの顔で、必要以上に親切な説明を並べているだけだった。


 男――霧島源之丞は、それを見ない。


 視界に入っていても、意識の中心には置かない。

 そうしなければ、長く生きられなかったのだろうし、長く生きた結果そうなったのかもしれなかった。


 外では、夕空がゆるやかに色を失いつつあった。


 訓練場の喧騒は背後に残る。

 兵たちは再び走りはじめ、鉄剣は打ち合わされ、怒声が戻る。

 さきほどまでの沈黙が嘘だったように、一日の鍛錬はまた流れ出す。


 そうでなければならない。

 誰かが死んでも、隊は止まらない。

 止めないための者が、今まさにそこを去ろうとしている。


 その喧騒の中で、またひとつ地面が割れる音がした。

 誰かの踏み込みが深すぎたのか、盾の打ち込みが強すぎたのか、あるいは両方か。

 振り返らずとも、彼にはだいたいわかるのだろう。


 鎮圧中隊の訓練場は、壊れることで完成に近づいていく。

 均された場所を乱し、乱れた場所でなお隊列を保つ。

 それができて初めて、前へ出る資格がある。


 彼は馬も呼ばず、従者も付けず、ひとりで歩き出した。


 灰の外套が背で長く揺れる。

 裂けた布の端が風に鳴り、夕方の光を鈍く吸い込んだ。


 片腕を失った甲冑の輪郭は歪であるはずなのに、不思議と崩れて見えない。

 足音は重いが、沈まない。

 大剣を背負った姿は武装というより、ひとつの古い戦場そのものが歩いているようだった。


 けれど、暮れ切る前の風の中で、誰もがうすうす感じていた。

 今、ひとつの大隊から、戦場の空気を知りすぎた者が出ていったのだと。


 そしておそらく、戻るときには、今よりも少しだけ重い灰をまとっているのだと。




・対象:霧島きりしま 源之丞(げんのすけ/男/取得失敗/勇者個体

・目的:参照ログ破損

・付与:出力制限

・地点:帝国第九域(ていこくだいきゅういき)潮風都(しおかぜのみやこ)

・結果:生存継続/後続ログ封鎖

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