10.個体番号:��65
夜の街は、眠っているというより、抜け殻めいていた。
通りは妙に整っている。
石畳は欠けが少なく、雨水を流す溝も詰まっていない。
建物の壁はどれも手入れの行き届いた色を残し、看板は読めなくとも商いの匂いをまだ持っている。
背の高い建物と低い店構えが肩を寄せ、窓枠には飾りがあり、扉には取っ手があり、街路樹は一定の間隔で植えられていた。
そうしたものは一つ残らずそこにあるのに、人の暮らしだけがきれいに抜かれていた。
灯りはところどころに残っている。
二階の窓辺に橙の火が揺れている家もある。
店先の燭台が、燃え尽きる手前の短い火を保っているところもある。
けれど、その火を囲むはずの気配がない。
開け放たれた窓はなく、逃げた者が蹴散らした道具もなく、悲鳴の残響すらない。
犬の遠吠えも、酔客の笑いも、寝不足の母親が子を叱る声も、この街には一つも届かない。
空は澄んでいない。
暗雲が低く垂れこめ、今にも雨が落ちてきそうだった。
だからこそ、街に残る火や灯りだけが、夜をかろうじて押し返しているように見えた。
その路上で、少女、 秋月 結衣 が目を覚ました。
十代に入ったばかりくらいの年ごろだった。
子どもと言い切るには少し育ち、けれど大人の側にはまだ遠い。
寝間着のまま、素足に近い足元で石畳に膝をつき、乱れた髪を肩に落としている。
薄い布地の袖は片方だけまくれ、ふくらはぎには家の中ではつかないような細かな擦り傷が、いつついたのかも分からぬ顔で浮いていた。
ついさっきまで、家にいたはずだった。
ソファに寝転がっていた。
テレビがついていた。
バラエティ番組か何かの笑い声が部屋を埋めていて、テーブルには飲みかけのコップがあり、どこかに生活のぬるい匂いがあった。
母親が別の部屋にいたのか、もう寝るようにと言われたのか、そのあたりの記憶は曖昧だったが、少なくとも、目の前にこんな夜の街はなかった。
うつらうつらとした夢の続きに、この通りはない。
少女は身を起こしかけ、そこで止まった。
自分を囲むように、人が立っていたからだ。
数は三。
あるいは、少し離れた闇の中にもっといたのかもしれない。
ただ、今この場に輪郭を持っていたのは三人だった。
どれも鎧の姿だった。
この街そのものが異国めいているせいで、完全に場違いとまでは言えない。
だが、少女の知る日常には属さない。
金属の鈍い反射、革の留め具、肩当ての擦れた縁、剣帯の重さ。
そうしたものが、ただの仮装ではないことを示していた。
飾りではなく、使われてきた武具の沈んだ艶だった。
ひとりは冑をつけていなかった。
毛の存在を感じないほどに綺麗な坊主頭。
こめかみから眉へかけ、刃物で引いたような傷跡を残している。
目は吊っていて細く、口元だけが緩い。
肩に長い槍を担ぎ、その胴体部分で自分の肩をとん、とん、と叩いていた。
くつろいだ癖のように見えて、実際にはいつでも踏み込める距離を測っている手つきだった。
目だけが、最初から獲物の前にいる。
隣には腕を組んだまま黙っている者。
こちらは冑を被っていて、顔は見えない。
身動きが少なく、立ち方が妙に安定している。
命令を待つ癖のついた兵士か、命令する側に慣れた兵士か、そのどちらともつかない沈黙だった。
もうひとりは、同じく冑の奥を見せぬまま、少女へ向けて片手を差し出していた。
人差し指と中指の二本の先を揃え、掌を向けるでもなく、掴む形でもなく、ただまっすぐにその指先を向ける。
祈りにも、歓迎にも見えない。
何かを構える仕草だった。
目に見えない秤へ少女を載せているような、不快な静けさがそこにあった。
最初に口を開いたのは、肩を叩いていた男だった。
その瞬間、男の首元の輪が淡く光る。
ネックレスにも見える。
首輪にも見える。
金属と石を組み合わせたような輪で、宝飾品としては鈍すぎ、拘束具としては繊細すぎた。
細工は粗くない。
だが、美しく見せるための作りではなかった。
役目だけを果たすよう組まれた器具が、いま必要なだけの光を漏らしている。
光とほとんど同時に、声が二種類聞こえた。
ひとつは意味を結ばない音だった。
硬い子音が耳を打ち、喉の奥で砕くような発声が続く。
少女の知るどんな外国語にも似ていない。
単語の境目すら掴めず、ただ異物の音だけが耳へ刺さる。
もうひとつは、理解できる言葉だった。
ただ、その言葉は少女ではなく、隣へ向けて放たれた。
「ハッ、こんな人数で来る意味あったのか?」
返ってきた相手の言葉は、理解できないほうの音だけだった。
短く、低い。
それだけで男には十分らしかった。
「こんなんだったら、打ち合いしてる方がまだマシだったぜ」
男は鼻で笑うように肩を揺らし、それからようやく少女へ顔を向けた。
目が合ったのではない。
値踏みの視線が落ちた。
「おい嬢ちゃん、てめえのスキルァ何だ? いいモノもらえたか?」
調子だけなら、迷子にでも話しかける近所の大人に似ていた。
だが、その慣れた口ぶりがむしろ不気味だった。
この状況を、初めての出来事として扱っていない。
戸惑いもない。
目の前で夜の街に見知らぬ少女が現れたという事実が、男にとっては想定の内側に収まっている。
「⋯⋯ま、ガキに大層なモン期待しても仕方ねぇか。ガハハ!」
少女には、言葉の半分も入っていなかった。
頭に、その意味まで届いていない。
街の静けさ。
知らない鎧。
家ではない空気。
どこにも、知っている誰かの気配がないこと。
自分だけが薄い寝間着のまま、異物としてここに置かれていること。
その一つ一つが、理解される前に恐怖へ変わっていく。
喉が細くなる。
指先が冷たくなる。
泣くにはまだ早いのに、涙だけが先に準備を始める。
そして、その怖さの縁に、別のものが浮いていた。
視界の隅だった。
夜景に重なるように、薄い半透明の板がある。
最初は、どこかの窓ガラスに灯りが反射しているのかと思った。
だが、顔を動かしてもついてくる。
視線をずらしても、板は視界の端に静かに残る。
冷たい色をしていた。
光というより、表示だった。
そこに文字が並んでいる。
《スキル付与:〈瞬間移動〉》
《効果:視認地点、または認識済みの座標へ瞬時に移動�る》
《注意:移動先に存在する原子を強制的に一時退避させるため、移動対象が大きいほど発動に時間を要する》
�備考:移動時には分解と再構築を伴うため、自律神経の安定化に時間がかかる》
少女は一度まばたきをし、また見た。
文字は消えない。
頭の中で音にしなくても、その意味だけがすっと入ってくる。
「あ、え⋯⋯」
喉から出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
耳の奥で自分の声が細い。
自分がどこまで小さくなれるのか、知らされるみたいな声だった。
次の瞬間、男の空気が変わった。
「さっさと答えろやァ!」
怒声は、通り全体を揺らすほど大きくはない。
だが近すぎた。
理不尽というものは、音量より距離で刺さる。
男は槍の石突きを、石畳へ叩きつけた。
石が爆ぜる。
打撃というより、地面の下にいた何かが、内側から暴れたような割れ方だった。
槍が触れた一点から放射状に亀裂が走り、砕けた石片が弾ける。
細かな破片が少女の頬を切り、膝に当たり、ふくらはぎへ食い込んだ。
肩が石に擦れ、皮膚の薄いところからすぐ血がにじむ。
息が止まった。
痛みより先に、身体が空気の通し方を忘れる。
胸が硬くなり、呼吸の入り口だけが閉じる。
周囲の二人は動かなかった。
止めもしない。
諫めもしない。
よくある手順でも眺めるように立っている。
少女はそこで、自分が助けを期待できる場所にいないことを、言葉ではなく身体で知った。
大人がいるから安全なのではない。
大人がいるから壊される場所もある。
涙がにじむ。
目の前が滲み、半透明の板の文字だけがかえって鮮明になる。
「しゅ、しゅんかんいどう⋯⋯って、書いて、あります⋯⋯」
「声がァちいせぇんだよ!」
砂煙の向こうから足が伸びてきた。
「なァに言ってるか聞こえねぇ!」
蹴りは、見えたときにはもう入っていた。
男の靴先が腹へめり込み、少女の身体がくの字に折れる。
肺の中の空気が一息で押し出され、喉の奥から音にならない鳴き声が漏れた。
小さな身体はそのまま後方へ飛び、石畳を滑って、壁へ向かう。
ぶつかる、その直前。
少女の体が、ずれた。
自分で跳んだのではない。
受け身を取ったのでもない。
ただ、壁の少し手前から、少し離れた場所へ、位置だけが静かに置き換わった。
激突は避けられた。
避けられたはずなのに、本人は何が起きたのかわからなかった。
腹の痛みで視界が暗くなり、膝が折れ、口を開いても空気が胸まで届かない。
咳き込むことすらできないまま、喉がひゅうひゅうと壊れた笛みたいな音を立てる。
男は目を細めた。
そこへようやく、面白がる色が混じる。
「ん? それァどんな能力だ?」
余裕のある声だった。
質問しているのに、答えを待つ気はない声だった。
答えは口からではなく、もっと壊しやすい方法で引き出せると思っている者の声だった。
男が踏み込み、再び蹴りが腹を抉った。
今度はまともに入った。
少女の身体は持ち上がり、壁へ叩きつけられる。
背中から石の硬さが伝わり、衝撃が脊椎を遅れて駆け上がる。
後頭部はぎりぎり打たずに済んだが、その分、肩甲骨のあたりに鈍い熱が広がった。
息が吸えない。
喉の奥で空気が潰れ、胸は縮んだまま開かない。
「――うっ、うぅげぇ⋯⋯」
胃の中のものが逆流し、酸っぱい液が口元から垂れる。
涙も鼻水もよだれも、区別なく顔を濡らした。
視界が揺れる。
街の灯りも、男の輪郭も、石畳の継ぎ目も、全部が水の底みたいに歪んで見えた。
「ちょっと楽しみにしてたってのによ、クソみてぇに弱ぇじゃねえか」
男は吐き捨てるように言った。
その隣で、もうひとりが何か声をかけた。
理解できないほうの言葉だった。
短く、冷静で、制止とも確認ともつかない調子だった。
「別にいいだろ。向こうが勝手に暴れたってことにしときゃあよ」
男は笑いながらそう返し、また少女へ向かう。
その笑い方が一番ひどかった。
怒っているのではない。
仕事をしているのでもない。
愉快なのだ。
目の前で、怯えて、痛がって、何が起きているかも分からず縮こまる少女を、明らかに愉快がっている。
幼い本能は、次に来る痛みだけを知っていた。
だから体は勝手に縮こまり、腕が腹を庇うように重なる。
意味のない防御だと分からなくても、そこへ手を置かずにはいられない。
――どうしてこんな目に⋯⋯。
ただただ辛かった。
母の顔を思い出そうとしても、うまく浮かばない。
テレビの音も、部屋の匂いも、ついさっきまで確かにあったはずのものが、もう遠かった。
ここで泣いても、誰も来ない。
助けて、と言えば誰かが止めてくれるような場所ではない。
目の前の男は止まらない。
後ろの二人も動かない。
この街は最初から、誰のものでもない抜け殻みたいに静かで、少女ひとりが壊れることくらい、何事でもない顔をしていた。
男の足が再び視界へ入る。
もう避けられない、と少女は思った。
次は壁では済まない。
次こそ、どこかが本当に壊れる。
骨か、息か、何か大事なものが、ここで終わる。
力強く目を閉じた。
「――だ、誰か、助けて⋯⋯」
無駄だとわかっていても。
暗闇の中で、自分の呼吸の壊れた音だけが聞こえる。
腹の奥が熱く、痛みはもう痛みの形をしていなかった。
怖い、というより、終わる、と思った。
――けれど、その痛みは来なかった。
代わりに、通りの空気そのものが頬を撫でた。
ゆっくりと上げた瞼。
少女の前に、何かがいた。
「――え」
人型ではある。
こちらを見下ろしている。
だが、人ではないと一目で分かった。
全身は、闇を圧して形にしたような色をしていた。
黒ではないが、黒より鈍く、煤より深く、光を削ぎ落としたような闇色。
街の灯りも、その表面ではほとんど滑らない。
蹴りを受けていたのは、その何かだった。
男の脚が、その黒い身体へ食い込んでいる。
だが、びくともしない。
受け止めたというより、そこにあった壁へ勝手に当たったみたいな止まり方だった。
「あ?」
男の声に、初めて小さな素が混じった。
少女が最初に目を奪われたのは、顔だった。
眼や鼻がない。
眼窩らしき窪みすらなく、顔の上半分は滑らかな殻で覆われている。
その下に、唇のない口があった。
皮膚に覆われず、歯だけが剥き出しになっている。
人間の歯列の名残を残しながら、それを獣じみた圧で無理やり並べ替えたような口だった。
その隙間から、白くも黒くもない煙が細く漏れている。
呼気にも見え、体内のどこかが燃え残っているようにも見えた。
「……なんだ、てめぇ」
男が半歩だけ腰を落とす。
そのときようやく、少女はその何かの全身を見た。
身体の表面は滑らかではなく、無数の殻が折り重なっている。
胸から腹にかけては、ムカデの体節を思わせる甲殻が幾重にも走っていた。
けれど、昆虫みたいに関節が増えているわけではない。
肩、肘、手首、股関節、膝、足首――骨組みの位置そのものは人間に近い。
ただ、その上へ黒い殻だけが異様に発達し、動くたび継ぎ目が擦れ合って、低く乾いた音を立てていた。
人間の構造を捨てきれなかったまま、外側だけが別の生き物へ育ってしまったような身体だった。
肩は張り出し、生えた殻そのものが刃のように左右へ突き出している。
指は長く骨ばり、握れば拳になる。
その節々まで、爪と殻が薄く覆っていた。
足先は靴ではなく、獣の鉤爪と甲虫の殻を継ぎ合わせたみたいな形をしている。
踏みしめた石畳だけが、重さではなく圧に耐えかねるように、わずかに軋んだ。
「⋯⋯魔獣、か?」
男の口元が、ゆっくり歪む。
怪物は返すように、振り返りながら腕を振るった。
殴る、というには軌道が見えない。
肩がどう入ったかも、拳がどこから出たかも分からない。
ただ次の瞬間には男の顔面へ衝撃が伸びていた。
打撃が空気を圧し、遅れて音だけがついてくる。
男は反射的に槍を縦に構え、その中央で受けた。
金属音が鳴り響く。
受け止めた、というより、受け止めさせられた音だった。
槍が大きくしなり、男の両腕へ遅れて荷重が走る。
靴底が石畳を削り、男の体が後方へ滑った。
乾いた火花めいたものが散り、街路へ一本の線が刻まれる。
「チッ、どこから湧いてきたんだか。そんな報告、俺ァ受けてねえぞ」
吐き捨てながらも、声にはむしろ弾みがあった。
想定外を嫌う種類の男ではない。
面白いかどうかで物事の価値を決める顔だった。
「⋯⋯ま、いいか。手ェ出すんじゃねえぞ、てめえら。こいつは俺の獲物だ」
後方の二人は相変わらずの様子を見せる。
怪物は応えない。
ただ、喉の奥か胸の底か判然としない場所から、低い唸りを押し上げた。
獣の威嚇に似ている。
だがもっと深い。
怒りというより、定められた作用が動き出す前触れのような音だった。
言葉を持たないものが、言葉の代わりに夜へ圧を返す。
その一声で、周囲の窓ガラスが砕けた。
通りの左右で、店のショーウィンドウも、二階の窓も、一斉に震えた。
蜘蛛の巣状のひびが走り、細かな破片となって降り注ぐ。
砕けたガラスが石畳へ散り、軒先の木箱へ跳ね、どこかの吊り看板を鳴らす。
静けさに裂け目が入る。
その一瞬だけ、鎧の者たちの身体が強張った。
怪物はしゃがみこむように体勢を落とす。
逃げるためではなく、襲いかかる獣が地を噛む前の沈み方だった。
肩の殻がわずかに開き、脚の関節が人間と同じ位置で深く折れる。
瞬間、石畳が弾けた。
闇色の巨体が、まっすぐ男へ飛び込む。
最初の一撃は拳だった。
大振りではない。
胸元を砕くための最短の打撃が、空気ごと押し込まれる。
男は笑みを消さぬまま槍を横へ滑らせ、柄の中央で受けた。
硬い音が鳴り、衝撃が両腕を通って石畳へ逃げる。
受け切ったはずなのに、男の靴底は半歩分後ろへ削れた。
その返しより早く、怪物の爪が横薙ぎに走る。
五指の先に生えた黒い鉤が、喉と顔面をまとめて裂こうとした。
男は首をひねって躱しきれぬ分を肩で逃がす。
冑のない皮膚に浅い裂傷が走り、頬から血が散った。
けれど男はむしろ愉快そうに口角を吊り上げた。
「いいねぇ! いいねぇ!」
槍の穂先が跳ね上がる。
喉を貫く軌道だった。
怪物はそれを腕の甲殻で外へ流した。
穂先が殻を削り、耳障りな金属音を引く。
黒い欠片が散った。
受け流した腕をそのまま振り抜き、今度は肘打ちめいた近さで男の側頭部を狙う。
男は槍を短く持ち替え、柄尻で受けた。
衝撃が柄を通じて鳴り、男の肩がわずかに沈む。
そこへ、怪物の蹴りが迫る。
人の骨組みを残した脚が、大きくではなく鋭く跳ね上がる。
膝は人間と同じ位置で曲がり、その先に生えた黒い足の甲が脇腹を穿つように伸びた。
男は身を開きながら受け、完全には殺しきれなかった威力に肋のあたりを持っていかれる。
息が少しだけ乱れ、石畳の上に踵の跡が深く刻まれた。
少し後ろでは、残る二人が静かに下がった。
片方は腕を組んだまま。
もう片方は、少女へ向けていた手をわずかに下ろしただけだった。
割って入る気配はない。
止める気も、助ける気もない。
ただ、目の前の応酬を見守るためだけに、一歩分だけ距離を取っている。
見物人の下がり方だった。
男が笑いながら槍を繰り出す。
喉、胸、腹。
三連の突きは遊びの顔をしたまま妙に正確だった。
怪物は一つ目を肩で外し、二つ目を手首で払い、三つ目だけをわずかに腹で受ける。
甲殻の継ぎ目に穂先が食い込み、黒い液がにじんだ。
それでも止まらない。
怪物は踏み込み、男の懐へ入り込んだ。
拳が腹へ落ちる。
男は槍の柄を縦に差し込み、受ける。
爪が顔面へ伸びる。
男は頭を振って避け、浅く裂けた耳朶から血を飛ばす。
怪物の膝が跳ねる。
男は腿で受け、今度は自分の膝を怪物の胴へ返した。
互いに、まともには食らわない。
槍は怪物の急所を外しながら殻を削り、怪物の打撃は男の骨を砕ききる前に武器と体捌きで逸らされる。
石畳の上に、金属音と殻の擦過音が短く噛み合い続けた。
後ろの二人はその外側で黙って見ているだけだ。
近づきもしない。
止めもしない。
ただ、男が楽しみ、怪物が殺意にも似た単純さで応じる、その濃い間合いを壊さぬように、半歩分世界の外へ退いていた。
男は笑っていた。
頬を切られ、肩を痺れさせ、脇腹へ蹴りを受けても、なお笑っている。
面倒を嫌う笑みではない。
心底、面白がっている顔だった。
「そうだ、そうこなくっちゃよォ!」
愉悦に気を取られたのは、その瞬間だった。
男は槍を引き、次はどう崩すかを楽しむように半歩遊ばせた。
殺すためではなく、もう一度ぶつかるための間だった。
怪物にとって、それは十分すぎる隙になる。
怪物は追撃しなかった。
沈むように身を翻し、男から距離を取る。
黒い残像が石畳を擦り、次の瞬間には少女の前へ回っていた。
怪物の腕が伸びる。
抱き上げる、という動作に優しさはない。
ただ壊さぬ強さだけはあった。
肋が折れない程度に、しかし逃げ落ちないだけの確実さで、小さな体を片腕へ収める。
少女の腹はまだ蹴られた熱を残していて、そこへかかる圧だけで息が詰まりそうになる。
それでも、さっきまでの足先よりはましだと、身体のどこかが勝手に判断していた。
「あァ? 逃がすワケねえだろ!」
男が笑い声のまま吠える。
槍が唸る。
背後から放たれた一撃を、怪物は振り向きざま腕で受けた。
穂先が殻を裂き、黒い液が散る。
後ろの二人はなお動かない。
ただ、その場で見送るように視線だけを向けている。
その一拍で十分だった。
怪物は足に力を溜めた。
石畳が沈む。
ひびが走る。
次の瞬間、その闇色の巨体は通りから消えていた。
跳んだのか。
走ったのか。
あるいは別の何かだったのか。
少女の目には、黒い残像だけが一度、夜の街路を横切ったように見えた。
残されたのは、砕けたガラスの音と、男の笑いとも舌打ちともつかない息だけだった。
そして、怪物が立っていた場所の石畳には、ひびの中心へ黒い液が数滴だけ落ちている。
血にも油にも見えないそれは、暗雲の下で鈍く光り、じわりと石の目に染み込んでいった。
「邪魔すんじゃねえっつっただけだ。てめえらはてめえらで動けや!」
怒鳴り声は通りの奥へ荒く跳ね、砕けた窓と壁にぶつかってから、少し遅れて夜へほどけた。
返事はない。
ただ、少し離れた場所で鎧の擦れる音だけが短く鳴る。
男は頬の血を親指で拭い、それを見て、口の端をわずかに吊り上げた。
怒っているのとも違う。
取り逃がしたことを悔いているのとも、少し違う。
石畳に残った黒い染みを見下ろす目だけが、まだ熱を引いていなかった。
「⋯⋯おもしれぇ」
誰に聞かせるでもなく落ちた声は、さっきまでの荒さより低く、湿っていた。
遊びが終わった声ではない。
続きを見つけた者の声だった。
曇り空の下、通りはまた静けさを取り戻していく。
砕けたガラスだけが、風の気配にかすかに鳴った。
けれど、その静けさはもう最初のものとは違っていた。
夜のどこかへ、黒いものが少女を抱えて消えた。
その事実だけが、街の抜け殻めいた空気の底に、うまく溶けずに残っていた。
• 対象:秋月 結衣/女/10代前半/通常個体
• 目的:���
• 付与:瞬間移動
• 地点:帝国第九域・潮風都
• 結果:生存継続 0.5h




