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灰塵  作者: 銀城
11/20

10.個体番号:��65

 

 夜の街は、眠っているというより、抜け殻めいていた。


 通りは妙に整っている。

 石畳は欠けが少なく、雨水を流す溝も詰まっていない。

 建物の壁はどれも手入れの行き届いた色を残し、看板は読めなくともあきないの匂いをまだ持っている。


 背の高い建物と低い店構えが肩を寄せ、窓枠には飾りがあり、扉には取っ手があり、街路樹は一定の間隔で植えられていた。

 そうしたものは一つ残らずそこにあるのに、人の暮らしだけがきれいに抜かれていた。


 灯りはところどころに残っている。

 二階の窓辺にだいだいの火が揺れている家もある。

 店先の燭台しょくだいが、燃え尽きる手前の短い火を保っているところもある。


 けれど、その火を囲むはずの気配がない。


 開け放たれた窓はなく、逃げた者が蹴散らした道具もなく、悲鳴の残響すらない。

 犬の遠吠えも、酔客の笑いも、寝不足の母親が子を叱る声も、この街には一つも届かない。


 空は澄んでいない。

 暗雲が低く垂れこめ、今にも雨が落ちてきそうだった。

 だからこそ、街に残る火や灯りだけが、夜をかろうじて押し返しているように見えた。


 その路上で、少女、 秋月(あきづき) 結衣(ゆい が目を覚ました。


 十代に入ったばかりくらいの年ごろだった。

 子どもと言い切るには少し育ち、けれど大人の側にはまだ遠い。


 寝間着のまま、素足に近い足元で石畳に膝をつき、乱れた髪を肩に落としている。

 薄い布地の袖は片方だけまくれ、ふくらはぎには家の中ではつかないような細かな擦り傷が、いつついたのかも分からぬ顔で浮いていた。


 ついさっきまで、家にいたはずだった。


 ソファに寝転がっていた。

 テレビがついていた。


 バラエティ番組か何かの笑い声が部屋を埋めていて、テーブルには飲みかけのコップがあり、どこかに生活のぬるい匂いがあった。

 母親が別の部屋にいたのか、もう寝るようにと言われたのか、そのあたりの記憶は曖昧だったが、少なくとも、目の前にこんな夜の街はなかった。


 うつらうつらとした夢の続きに、この通りはない。


 少女は身を起こしかけ、そこで止まった。


 自分を囲むように、人が立っていたからだ。


 数は三。

 あるいは、少し離れた闇の中にもっといたのかもしれない。

 ただ、今この場に輪郭を持っていたのは三人だった。


 どれも鎧の姿だった。

 この街そのものが異国めいているせいで、完全に場違いとまでは言えない。

 だが、少女の知る日常には属さない。


 金属の鈍い反射、革の留め具、肩当ての擦れた縁、剣帯の重さ。

 そうしたものが、ただの仮装ではないことを示していた。

 飾りではなく、使われてきた武具の沈んだ艶だった。


 ひとりはかぶとをつけていなかった。


 毛の存在を感じないほどに綺麗な坊主頭。

 こめかみから眉へかけ、刃物で引いたような傷跡を残している。

 目は吊っていて細く、口元だけが緩い。


 肩に長い槍を担ぎ、その胴体部分で自分の肩をとん、とん、と叩いていた。

 くつろいだ癖のように見えて、実際にはいつでも踏み込める距離を測っている手つきだった。

 目だけが、最初から獲物の前にいる。


 隣には腕を組んだまま黙っている者。

 こちらは冑を被っていて、顔は見えない。

 身動きが少なく、立ち方が妙に安定している。

 命令を待つ癖のついた兵士か、命令する側に慣れた兵士か、そのどちらともつかない沈黙だった。


 もうひとりは、同じく冑の奥を見せぬまま、少女へ向けて片手を差し出していた。

 人差し指と中指の二本の先を揃え、掌を向けるでもなく、掴む形でもなく、ただまっすぐにその指先を向ける。


 祈りにも、歓迎にも見えない。

 何かを構える仕草だった。

 目に見えないはかりへ少女を載せているような、不快な静けさがそこにあった。


 最初に口を開いたのは、肩を叩いていた男だった。


 その瞬間、男の首元の輪が淡く光る。


 ネックレスにも見える。

 首輪にも見える。

 金属と石を組み合わせたような輪で、宝飾品としては鈍すぎ、拘束具としては繊細すぎた。

 細工は粗くない。


 だが、美しく見せるための作りではなかった。

 役目だけを果たすよう組まれた器具が、いま必要なだけの光を漏らしている。


 光とほとんど同時に、声が二種類聞こえた。


 ひとつは意味を結ばない音だった。

 硬い子音が耳を打ち、喉の奥で砕くような発声が続く。

 少女の知るどんな外国語にも似ていない。

 単語の境目すら掴めず、ただ異物の音だけが耳へ刺さる。


 もうひとつは、理解できる言葉だった。


 ただ、その言葉は少女ではなく、隣へ向けて放たれた。


 「ハッ、こんな人数で来る意味あったのか?」


 返ってきた相手の言葉は、理解できないほうの音だけだった。

 短く、低い。

 それだけで男には十分らしかった。


 「こんなんだったら、打ち合いしてる方がまだマシだったぜ」


 男は鼻で笑うように肩を揺らし、それからようやく少女へ顔を向けた。


 目が合ったのではない。

 値踏みの視線が落ちた。


 「おい嬢ちゃん、てめえのスキルァ何だ? いいモノもらえたか?」


 調子だけなら、迷子にでも話しかける近所の大人に似ていた。

 だが、その慣れた口ぶりがむしろ不気味だった。

 この状況を、初めての出来事として扱っていない。

 戸惑いもない。

 目の前で夜の街に見知らぬ少女が現れたという事実が、男にとっては想定の内側に収まっている。


 「⋯⋯ま、ガキに大層なモン期待しても仕方ねぇか。ガハハ!」


 少女には、言葉の半分も入っていなかった。


 頭に、その意味まで届いていない。


 街の静けさ。

 知らない鎧。

 家ではない空気。


 どこにも、知っている誰かの気配がないこと。

 自分だけが薄い寝間着のまま、異物としてここに置かれていること。


 その一つ一つが、理解される前に恐怖へ変わっていく。

 喉が細くなる。

 指先が冷たくなる。


 泣くにはまだ早いのに、涙だけが先に準備を始める。


 そして、その怖さの縁に、別のものが浮いていた。


 視界の隅だった。


 夜景に重なるように、薄い半透明の板がある。

 最初は、どこかの窓ガラスに灯りが反射しているのかと思った。

 だが、顔を動かしてもついてくる。

 視線をずらしても、板は視界の端に静かに残る。


 冷たい色をしていた。

 光というより、表示だった。


 そこに文字が並んでいる。


 《スキル付与:〈瞬間移動〉》

 《効果:視認地点、または認識済みの座標へ瞬時に移動�る》

 《注意:移動先に存在する原子を強制的に一時退避させるため、移動対象が大きいほど発動に時間を要する》

 �備考:移動時には分解と再構築を伴うため、自律神経の安定化に時間がかかる》


 少女は一度まばたきをし、また見た。

 文字は消えない。


 頭の中で音にしなくても、その意味だけがすっと入ってくる。


 「あ、え⋯⋯」


 喉から出た声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

 耳の奥で自分の声が細い。

 自分がどこまで小さくなれるのか、知らされるみたいな声だった。


 次の瞬間、男の空気が変わった。


 「さっさと答えろやァ!」


 怒声は、通り全体を揺らすほど大きくはない。

 だが近すぎた。


 理不尽というものは、音量より距離で刺さる。


 男は槍の石突きを、石畳へ叩きつけた。


 石が爆ぜる。


 打撃というより、地面の下にいた何かが、内側から暴れたような割れ方だった。

 槍が触れた一点から放射状に亀裂が走り、砕けた石片が弾ける。

 細かな破片が少女の頬を切り、膝に当たり、ふくらはぎへ食い込んだ。

 肩が石に擦れ、皮膚の薄いところからすぐ血がにじむ。


 息が止まった。


 痛みより先に、身体が空気の通し方を忘れる。

 胸が硬くなり、呼吸の入り口だけが閉じる。


 周囲の二人は動かなかった。


 止めもしない。

 いさめもしない。

 よくある手順でも眺めるように立っている。


 少女はそこで、自分が助けを期待できる場所にいないことを、言葉ではなく身体で知った。

 大人がいるから安全なのではない。

 大人がいるから壊される場所もある。


 涙がにじむ。

 目の前が滲み、半透明の板の文字だけがかえって鮮明になる。


 「しゅ、しゅんかんいどう⋯⋯って、書いて、あります⋯⋯」


 「声がァちいせぇんだよ!」


 砂煙の向こうから足が伸びてきた。


 「なァに言ってるか聞こえねぇ!」


 蹴りは、見えたときにはもう入っていた。

 男の靴先が腹へめり込み、少女の身体がくの字に折れる。

 肺の中の空気が一息で押し出され、喉の奥から音にならない鳴き声が漏れた。

 小さな身体はそのまま後方へ飛び、石畳を滑って、壁へ向かう。


 ぶつかる、その直前。


 少女の体が、ずれた。


 自分で跳んだのではない。

 受け身を取ったのでもない。

 ただ、壁の少し手前から、少し離れた場所へ、位置だけが静かに置き換わった。


 激突は避けられた。

 避けられたはずなのに、本人は何が起きたのかわからなかった。


 腹の痛みで視界が暗くなり、膝が折れ、口を開いても空気が胸まで届かない。

 咳き込むことすらできないまま、喉がひゅうひゅうと壊れた笛みたいな音を立てる。


 男は目を細めた。

 そこへようやく、面白がる色が混じる。


 「ん? それァどんな能力だ?」


 余裕のある声だった。

 質問しているのに、答えを待つ気はない声だった。

 答えは口からではなく、もっと壊しやすい方法で引き出せると思っている者の声だった。


 男が踏み込み、再び蹴りが腹を抉った。


 今度はまともに入った。


 少女の身体は持ち上がり、壁へ叩きつけられる。


 背中から石の硬さが伝わり、衝撃が脊椎を遅れて駆け上がる。

 後頭部はぎりぎり打たずに済んだが、その分、肩甲骨のあたりに鈍い熱が広がった。

 息が吸えない。

 喉の奥で空気が潰れ、胸は縮んだまま開かない。


 「――うっ、うぅげぇ⋯⋯」


 胃の中のものが逆流し、酸っぱい液が口元から垂れる。

 涙も鼻水もよだれも、区別なく顔を濡らした。


 視界が揺れる。

 街の灯りも、男の輪郭も、石畳の継ぎ目も、全部が水の底みたいに歪んで見えた。


 「ちょっと楽しみにしてたってのによ、クソみてぇに弱ぇじゃねえか」


 男は吐き捨てるように言った。


 その隣で、もうひとりが何か声をかけた。

 理解できないほうの言葉だった。

 短く、冷静で、制止とも確認ともつかない調子だった。


 「別にいいだろ。向こうが勝手に暴れたってことにしときゃあよ」


 男は笑いながらそう返し、また少女へ向かう。


 その笑い方が一番ひどかった。

 怒っているのではない。

 仕事をしているのでもない。

 愉快なのだ。

 目の前で、怯えて、痛がって、何が起きているかも分からず縮こまる少女を、明らかに愉快がっている。


 幼い本能は、次に来る痛みだけを知っていた。

 だから体は勝手に縮こまり、腕が腹を庇うように重なる。

 意味のない防御だと分からなくても、そこへ手を置かずにはいられない。


 ――どうしてこんな目に⋯⋯。


 ただただ辛かった。

 母の顔を思い出そうとしても、うまく浮かばない。

 テレビの音も、部屋の匂いも、ついさっきまで確かにあったはずのものが、もう遠かった。


 ここで泣いても、誰も来ない。


 助けて、と言えば誰かが止めてくれるような場所ではない。

 目の前の男は止まらない。

 後ろの二人も動かない。

 この街は最初から、誰のものでもない抜け殻みたいに静かで、少女ひとりが壊れることくらい、何事でもない顔をしていた。


 男の足が再び視界へ入る。


 もう避けられない、と少女は思った。

 次は壁では済まない。

 次こそ、どこかが本当に壊れる。

 骨か、息か、何か大事なものが、ここで終わる。


 力強く目を閉じた。


 「――だ、誰か、助けて⋯⋯」

 

 無駄だとわかっていても。


 暗闇の中で、自分の呼吸の壊れた音だけが聞こえる。

 腹の奥が熱く、痛みはもう痛みの形をしていなかった。

 怖い、というより、終わる、と思った。






 ――けれど、その痛みは来なかった。


 代わりに、通りの空気そのものが頬を撫でた。


 ゆっくりと上げた瞼。

 少女の前に、何かがいた。


 「――え」


 人型ではある。

 こちらを見下ろしている。


 だが、人ではないと一目で分かった。


 全身は、闇を圧して形にしたような色をしていた。

 黒ではないが、黒より鈍く、すすより深く、光を削ぎ落としたような闇色。

 街の灯りも、その表面ではほとんど滑らない。


 蹴りを受けていたのは、その何かだった。


 男の脚が、その黒い身体へ食い込んでいる。

 だが、びくともしない。

 受け止めたというより、そこにあった壁へ勝手に当たったみたいな止まり方だった。


 「あ?」


 男の声に、初めて小さな素が混じった。


 少女が最初に目を奪われたのは、顔だった。


 眼や鼻がない。

 眼窩がんからしき窪みすらなく、顔の上半分は滑らかな殻で覆われている。

 その下に、唇のない口があった。

 皮膚に覆われず、歯だけが剥き出しになっている。

 人間の歯列の名残を残しながら、それを獣じみた圧で無理やり並べ替えたような口だった。


 その隙間から、白くも黒くもない煙が細く漏れている。

 呼気にも見え、体内のどこかが燃え残っているようにも見えた。


 「……なんだ、てめぇ」


 男が半歩だけ腰を落とす。


 そのときようやく、少女はその何かの全身を見た。


 身体の表面は滑らかではなく、無数の殻が折り重なっている。

 胸から腹にかけては、ムカデの体節を思わせる甲殻が幾重にも走っていた。

 けれど、昆虫みたいに関節が増えているわけではない。


 肩、肘、手首、股関節、膝、足首――骨組みの位置そのものは人間に近い。

 ただ、その上へ黒い殻だけが異様に発達し、動くたび継ぎ目が擦れ合って、低く乾いた音を立てていた。


 人間の構造を捨てきれなかったまま、外側だけが別の生き物へ育ってしまったような身体だった。


 肩は張り出し、生えた殻そのものが刃のように左右へ突き出している。

 指は長く骨ばり、握れば拳になる。

 その節々まで、爪と殻が薄く覆っていた。


 足先は靴ではなく、獣の鉤爪と甲虫の殻を継ぎ合わせたみたいな形をしている。

 踏みしめた石畳だけが、重さではなく圧に耐えかねるように、わずかに軋んだ。


 「⋯⋯魔獣、か?」


 男の口元が、ゆっくり歪む。


 怪物は返すように、振り返りながら腕を振るった。


 殴る、というには軌道が見えない。

 肩がどう入ったかも、拳がどこから出たかも分からない。

 ただ次の瞬間には男の顔面へ衝撃が伸びていた。

 打撃が空気を圧し、遅れて音だけがついてくる。


 男は反射的に槍を縦に構え、その中央で受けた。


 金属音が鳴り響く。


 受け止めた、というより、受け止めさせられた音だった。

 槍が大きくしなり、男の両腕へ遅れて荷重が走る。

 靴底が石畳を削り、男の体が後方へ滑った。

 乾いた火花めいたものが散り、街路へ一本の線が刻まれる。


 「チッ、どこから湧いてきたんだか。そんな報告、俺ァ受けてねえぞ」


 吐き捨てながらも、声にはむしろ弾みがあった。

 想定外を嫌う種類の男ではない。

 面白いかどうかで物事の価値を決める顔だった。


 「⋯⋯ま、いいか。手ェ出すんじゃねえぞ、てめえら。こいつは俺の獲物だ」


 後方の二人は相変わらずの様子を見せる。

 怪物は応えない。


 ただ、喉の奥か胸の底か判然としない場所から、低い唸りを押し上げた。


 獣の威嚇に似ている。

 だがもっと深い。


 怒りというより、定められた作用が動き出す前触れのような音だった。

 言葉を持たないものが、言葉の代わりに夜へ圧を返す。


 その一声で、周囲の窓ガラスが砕けた。


 通りの左右で、店のショーウィンドウも、二階の窓も、一斉に震えた。

 蜘蛛の巣状のひびが走り、細かな破片となって降り注ぐ。

 砕けたガラスが石畳へ散り、軒先の木箱へ跳ね、どこかの吊り看板を鳴らす。


 静けさに裂け目が入る。

 その一瞬だけ、鎧の者たちの身体が強張った。


 怪物はしゃがみこむように体勢を落とす。

 逃げるためではなく、襲いかかる獣が地を噛む前の沈み方だった。

 肩の殻がわずかに開き、脚の関節が人間と同じ位置で深く折れる。


 瞬間、石畳が弾けた。


 闇色の巨体が、まっすぐ男へ飛び込む。


 最初の一撃は拳だった。

 大振りではない。

 胸元を砕くための最短の打撃が、空気ごと押し込まれる。


 男は笑みを消さぬまま槍を横へ滑らせ、柄の中央で受けた。

 硬い音が鳴り、衝撃が両腕を通って石畳へ逃げる。

 受け切ったはずなのに、男の靴底は半歩分後ろへ削れた。


 その返しより早く、怪物の爪が横薙ぎに走る。


 五指の先に生えた黒い鉤が、喉と顔面をまとめて裂こうとした。

 男は首をひねって躱しきれぬ分を肩で逃がす。

 冑のない皮膚に浅い裂傷が走り、頬から血が散った。

 けれど男はむしろ愉快そうに口角を吊り上げた。


 「いいねぇ! いいねぇ!」


 槍の穂先が跳ね上がる。

 喉を貫く軌道だった。


 怪物はそれを腕の甲殻で外へ流した。

 穂先が殻を削り、耳障りな金属音を引く。

 黒い欠片が散った。


 受け流した腕をそのまま振り抜き、今度は肘打ちめいた近さで男の側頭部を狙う。

 男は槍を短く持ち替え、柄尻えじりで受けた。

 衝撃が柄を通じて鳴り、男の肩がわずかに沈む。


 そこへ、怪物の蹴りが迫る。


 人の骨組みを残した脚が、大きくではなく鋭く跳ね上がる。

 膝は人間と同じ位置で曲がり、その先に生えた黒い足の甲が脇腹を穿つように伸びた。

 男は身を開きながら受け、完全には殺しきれなかった威力にあばらのあたりを持っていかれる。

 息が少しだけ乱れ、石畳の上に踵の跡が深く刻まれた。


 少し後ろでは、残る二人が静かに下がった。


 片方は腕を組んだまま。

 もう片方は、少女へ向けていた手をわずかに下ろしただけだった。


 割って入る気配はない。

 止める気も、助ける気もない。

 ただ、目の前の応酬を見守るためだけに、一歩分だけ距離を取っている。

 見物人の下がり方だった。


 男が笑いながら槍を繰り出す。

 喉、胸、腹。

 三連の突きは遊びの顔をしたまま妙に正確だった。

 怪物は一つ目を肩で外し、二つ目を手首で払い、三つ目だけをわずかに腹で受ける。

 甲殻の継ぎ目に穂先が食い込み、黒い液がにじんだ。


 それでも止まらない。

 怪物は踏み込み、男の懐へ入り込んだ。


 拳が腹へ落ちる。

 男は槍の柄を縦に差し込み、受ける。


 爪が顔面へ伸びる。

 男は頭を振って避け、浅く裂けた耳朶みみたぶから血を飛ばす。


 怪物の膝が跳ねる。

 男はももで受け、今度は自分の膝を怪物の胴へ返した。


 互いに、まともには食らわない。


 槍は怪物の急所を外しながら殻を削り、怪物の打撃は男の骨を砕ききる前に武器と体捌きで逸らされる。

 石畳の上に、金属音と殻の擦過音が短く噛み合い続けた。

 後ろの二人はその外側で黙って見ているだけだ。

 近づきもしない。

 止めもしない。

 ただ、男が楽しみ、怪物が殺意にも似た単純さで応じる、その濃い間合いを壊さぬように、半歩分世界の外へ退いていた。


 男は笑っていた。


 頬を切られ、肩を痺れさせ、脇腹へ蹴りを受けても、なお笑っている。

 面倒を嫌う笑みではない。

 心底、面白がっている顔だった。


 「そうだ、そうこなくっちゃよォ!」


 愉悦に気を取られたのは、その瞬間だった。


 男は槍を引き、次はどう崩すかを楽しむように半歩遊ばせた。

 殺すためではなく、もう一度ぶつかるための間だった。

 怪物にとって、それは十分すぎる隙になる。


 怪物は追撃しなかった。


 沈むように身を翻し、男から距離を取る。

 黒い残像が石畳を擦り、次の瞬間には少女の前へ回っていた。


 怪物の腕が伸びる。


 抱き上げる、という動作に優しさはない。

 ただ壊さぬ強さだけはあった。

 肋が折れない程度に、しかし逃げ落ちないだけの確実さで、小さな体を片腕へ収める。

 少女の腹はまだ蹴られた熱を残していて、そこへかかる圧だけで息が詰まりそうになる。

 それでも、さっきまでの足先よりはましだと、身体のどこかが勝手に判断していた。


 「あァ? 逃がすワケねえだろ!」


 男が笑い声のまま吠える。

 槍が唸る。


 背後から放たれた一撃を、怪物は振り向きざま腕で受けた。

 穂先が殻を裂き、黒い液が散る。

 後ろの二人はなお動かない。


 ただ、その場で見送るように視線だけを向けている。


 その一拍で十分だった。


 怪物は足に力を溜めた。


 石畳が沈む。

 ひびが走る。

 次の瞬間、その闇色の巨体は通りから消えていた。


 跳んだのか。

 走ったのか。

 あるいは別の何かだったのか。


 少女の目には、黒い残像だけが一度、夜の街路を横切ったように見えた。


 残されたのは、砕けたガラスの音と、男の笑いとも舌打ちともつかない息だけだった。

 そして、怪物が立っていた場所の石畳には、ひびの中心へ黒い液が数滴だけ落ちている。

 血にも油にも見えないそれは、暗雲の下で鈍く光り、じわりと石の目に染み込んでいった。


 「邪魔すんじゃねえっつっただけだ。てめえらはてめえらで動けや!」


 怒鳴り声は通りの奥へ荒く跳ね、砕けた窓と壁にぶつかってから、少し遅れて夜へほどけた。


 返事はない。

 ただ、少し離れた場所で鎧の擦れる音だけが短く鳴る。


 男は頬の血を親指で拭い、それを見て、口の端をわずかに吊り上げた。

 怒っているのとも違う。

 取り逃がしたことを悔いているのとも、少し違う。


 石畳に残った黒い染みを見下ろす目だけが、まだ熱を引いていなかった。


 「⋯⋯おもしれぇ」


 誰に聞かせるでもなく落ちた声は、さっきまでの荒さより低く、湿っていた。

 遊びが終わった声ではない。

 続きを見つけた者の声だった。


 曇り空の下、通りはまた静けさを取り戻していく。

 砕けたガラスだけが、風の気配にかすかに鳴った。


 けれど、その静けさはもう最初のものとは違っていた。

 夜のどこかへ、黒いものが少女を抱えて消えた。

 その事実だけが、街の抜け殻めいた空気の底に、うまく溶けずに残っていた。



• 対象:秋月あきづき 結衣ゆい/女/10代前半/通常個体

• 目的:���

• 付与:瞬間移動

• 地点:帝国第九域ていこくだいきゅういき潮風都しおかぜのみやこ

• 結果:生存継続 0.5h

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