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灰塵  作者: 銀城
10/20

09.個体番号:�2�3


 夜の湖は、山の闇をそのままたたえていた。


 水面は広く、黒い。

 風が触れるたび細かな皺が立つが、それもほどなく消え、また何も映さぬ顔へ戻る。


 岸辺には背の低い草が伏し、ぬかるんだ土のあいだに岩がところどころ肌を見せていた。


 水草と泥の匂い。

 冷えた石の匂い。


 湯気や薪の気配とは無縁の、湿って静かな夜だった。


 そこに、"橘 あやめ" が立っていた。


 取り乱すより先に、彼女は足元を見た。

 右へ重みを寄せ、左で土のやわらかさを測る。

 沈むのか、滑るのか、踏ん張れるのか。


 次に水際との距離。

 岩の位置、木立の濃さ。


 その順番は、もう身についている。


 つい先ほどまで、彼女は家にいた。

 夕暮れの匂いがあり、湯があり、母の声があった。

 その日常がどこかでねじれ、気づけば湖畔に立っていた。


 驚いていないわけではない。

 ただ、驚くより先に、手順だけが立ち上がる。


 見知らぬ場所へ出たら、まず隠れる場所を見ろ。

 逃げる場所を見ろ。

 足を取られる場所を見ろ。


 父に叩き込まれたのは、何かを倒すための技ではなく、そういう順番だった。


 彼女は湖を見た。


 岸の形、木立の濃さ、月の位置、風向き。


 それから自分の手を見る。

 指先には、ついさっきまで桶を持っていた感覚がまだ残っていた。


 それがかえって、今いる場所だけを現実から浮かせていた。


 「……これは、ちょっと困るな」


 声は小さい。

 弱音ではあるが、崩れるほどのものでもない。


 彼女はもともと、面倒ごとの前で少し気が沈む質だった。

 どうしようもない事態を前にすると、一度だけ胸のあたりが重くなる。

 けれど、その重さに沈み込んでいられるような育ち方もしていない。


 「あとで考えよう」


 そう呟いて、湖を背にしすぎない角度で岸を横へ歩き出す。


 ぬかるみは避ける。

 木立へは入りすぎない。

 水際にも寄りすぎない。


 何も持たずに走るな。

 走る先にあるものを先に自分の道具にしろ。

 追う相手がいるなら、そいつの足元を狩場に変えろ。


 父の言葉は、嫌でも体に残っていた。


 そのとき、右耳の奥でかすかな音が鳴った。


 耳鳴りというには細い。

 針で硝子をなぞるような、短い震えだった。


 眉を寄せる。

 何だろうと思った、その次の瞬間だった。


 湖面が裂けた。


 水が跳ね上がり、黒い塊が岸へ飛び出す。

 その中から、細長いのようなものが横殴りに走った。


 速い。


 彼女が助かったのは、避けようとしたからではなかった。

 耳の違和感に意識を引かれ、体重が一歩分だけ後ろに残っていた。

 その偶然で、の先は胸を裂かず、袖だけを持っていった。


 布が裂け、冷たい水滴が頬を打つ。


 彼女は横へ飛んだ。

 大きく逃げるのではなく、転ばず、すぐ立ち上がれる低い跳び方だった。


 着地して振り返る。


 岸へ這い上がっていたものは、人ではなかった。


 黒く、濡れている。


 水草と泥をまとい、輪郭が曖昧だった。

 魚とも獣ともつかず、どこが胴でどこが頭かも判然としない。


 ただ、水の中から伸びてくる細長いだけは、はっきり見えた。


 「ああ、そういうの、いるんだ……」


 感想とも、諦めともつかない声だった。


 怖くないわけではない。

 だが恐怖が前へ出る前に、別の判断が立つ。


 正面からやる相手ではない。

 水際から離れる。


 それで足りた。


 後ろへ下がる。

 その途中で、視界の端がふっと揺れた。


 景色の縁だけが、一瞬、薄く滲む。


 彼女は足を止めた――というより、止まってしまった。

 違和感に目を引かれ、その分、足を下ろす位置がずれた。

 踏み込むはずだった草地ではなく、その脇の岩に乗る。


 直後、草地が沈んだ。


 水を含んだ土が崩れ、その下の空洞が口を開ける。

 あのまま踏み抜いていれば、膝まで持っていかれていた。


 さらに黒いが、その崩れた場所へ突っ込み、泥を跳ね上げた。


 彼女は岩の上で身をひねり、そのまま岸から半身ぶん距離を取る。


 今ので二度目だった。


 耳の奥の違和感。

 視界の端の揺れ。


 そのあとに、何かが来る。


 良いことなのか悪いことの前兆なのかは、まだ断定できない。

 ただ、何かしら前触れだけがある。


 彼女は湖を見た。


 黒いものは、まだいる。

 這い上がりきれずに、岸を探るように動いている。


 「……なるほどね」


 納得ではなく、保留の声だった。


 何かが自分に起きているのかもしれない。

 だが、そういうことは脇へ置いておけばいい。


 まず生きること。

 意味づけは、後。


 それも父の教えだった。


 彼女はゆっくり下がりながら、落ちていた枝を一本拾った。


 腕より少し長い。

 まっすぐではないが、先端は細く、しなりもある。


 次に足元の石を三つ。

 握りやすい大きさのものだけを選び、丸すぎるものは捨て、角のあるものを残す。


 さらに裂けた袖口の布をちぎり、細く裂いて枝の片側へ巻きつけた。

 補強にもなり、手触りでも向きが分かる。


 立ち止まった時間は短い。

 けれど、その手つきに迷いはなかった。


 落ちているもの。

 折れているもの。

 剥がせるもの。


 そういうものはみな、役割を持てるかどうかで見ていた。


 枝は距離、石は牽制。

 布は印、ぬかるみは罠として。


 倒木は橋にも壁にもなる。


 何もない場所というものが、彼女の中にはなかった。

 使えていないだけで、たいてい何かはある。


 黒いが、もう一度走った。


 今度は背筋が粟立つ。

 その感覚にまだ名前はない。

 けれど、さっきから違和感のあとに来るものは、たいていろくでもない。


 なら、逆らうより先に、身をずらした方が早い。


 彼女は半歩、右へ切った。


 が左肩のあった場所を抜ける。

 同時に枝を横から打ちつけた。


 壊すためではない。

 伸びきった先を、外から払うだけ。


 黒いがわずかに逸れ、ぬかるみへ落ちる。

 そこへ石をひとつ投げた。


 当てるためではない。

 泥を跳ねさせるためだった。


 泥と小石がまとわりつき、黒いものの動きが一瞬だけ乱れる。


 その隙に、彼女はまた下がる。

 逃げながら、相手の通る場所を悪くしていく。


 追う側は、自分が狩る側だと思い込みやすい。


 だが、その足元にも沈む泥があり、岩があり、枝がある。

 それを負わせるだけでも、十分なことはある。


 彼女は岩場へ向かって走った。


 速い。


 脚力の派手さではなく、無駄のなさで稼ぐ速さだった。


 岩から岩へ。

 やわらかい土は踏まない。

 細い場所を選ぶ。

 水際へ寄らない。


 背後で水音が荒れる。


 走りながら、彼女は布切れを結びつけた小枝を二本、草の根元へ差した。


 人の目には目印にも見えない。

 だが自分には、それで足りる。


 戻るとき、踏んでいい場所と悪い場所を分ける印だった。


 さらに岩の隙間へ、角ばった石をひとつ差し込む。

 踏めば転ぶほどではない。

 だが、ぬめったや重みが乗れば、拍子ひょうしを崩すには事足りる。


 派手な細工ではない。

 それでも、ただ追えばいいと思わせない程度には役に立つ。


 そのとき、また耳の奥が鳴った。


 今度の彼女は、止まらなかった。

 止まる代わりに、進路だけを半歩変える。


 直後、頭の横を小石が飛んでいった。

 黒いが岸を打ち、跳ねた石らしかった。


 元の進路のままだったら、こめかみに当たっていた。


 「ほんとにもう……」


 文句だけが落ちる。

 それでも目は、もう次を探していた。


 前方に倒木がある。

 湖へ半ば突き出し、半ば岸に残っている。


 使える。


 彼女は倒木へ向かった。

 途中で細いつるを見つけ、足を止めずに引きちぎる。

 輪を作りながら巻き取る。


 丈夫ではないが、ないよりはましだった。


 倒木の手前で一瞬だけしゃがみ、つるを岩と低木のあいだへ渡す。


 膝より低い位置。

 肢や足が払いやすい高さ。


 人に踏ませる罠としては浅い。

 だが、追ってくるもののリズムを乱すには事足りる。


 そのまま倒木へ乗る。


 木は湿っていた。

 滑る。


 けれど、重心の置き方は知っている。


 足裏全体では乗らない。

 指の付け根と踵の内側で捉える。

 膝を固めず、肩を上げすぎない。


 父は、細いはりや濡れた石塀いしべいの上を走らせるのが好きだった。

 嫌な訓練だった。


 だが、こういうときには役に立つ。


 彼女は倒木の上を駆けた。


 黒い肢が木へ絡む。

 一本、二本、三本。

 木が軋む。


 視界の端がまた揺れた。

 今度は前だった。


 彼女は踏み切りのタイミングを一拍だけ遅らせる。


 直後、倒木の中ほどが折れた。

 腐った芯が、荷重に耐えられなかったらしい。


 そのまま踏み込んでいたら、湖へ落ちていた。

 彼女は折れた箇所を飛び越え、岸側へ転がり込む。


 着地した先は草地だった。


 沈まない。


 だが、安全とも言えない。

 すぐに身を低くする。


 その直後、背後で倒木に絡んでいた黒い肢が、さっき張った蔓に触れた。

 蔓が切れる。


 だが切れ際に肢の向きがわずかにぶれ、さらに岩の隙間へ差し込んだ石に乗り上げる。

 黒いものの動きが、ほんの一瞬だけ崩れた。


 彼女は振り返る。


 そのわずかな乱れで十分だった。

 枝の先を、黒い肢の柔らかそうな内側へ突き込む。


 貫けはしない。

 けれど、嫌がる。


 黒いものが水音を立てて引いた。

 すぐに枝を捨てる。


 執着しない。

 使ったものは置いていく。

 それもまた、知っているやり方だった。


 ただ逃げる獲物は、追う側にとって楽だ。

 だが、足元を崩し、目を散らし、進むたびに嫌なことが増える獲物は、少し違う。


 噛みつけば喉に骨が刺さるかもしれない。

 それくらいは教えてやる必要があった。


 彼女は草の中へ滑り込んだ。


 伏せるのではない。

 草の形へ身を寄せる。

 輪郭を薄くする。

 呼吸を浅く、長くする。


 隠れることは、彼女にとって考えをまとめる姿勢でもあった。


 湖の音を聞きながら、頭の中を整える。


 知らない場所。

 母はいない。

 湖には変なものが二つ以上いる。

 自分は丸腰に近い。


 そして、違和感のあとに何かが起きる。


 それが良いことか悪いことかはまだ分からない。

 けれど、身構える時間にはなる。


 そこまで考えたところで、前方の闇に明かりが灯った。


 半透明の板だった。

 冷たい光を帯びた四角い板が空中に現れ、文字を並べている。


 彼女は目を細めた。


 《スキル付与:〈予兆〉》

 《効果:事象発生前の感覚的予見》

 《備考:吉凶の兆しは不明》


 「ああ、そういうこと」


 驚きは薄かった。

 さっきから現実の方が先におかしい。

 今さら板が出たところで、順番としては後ろだった。


 予兆と名前がついたところで、やることは変わらない。


 答えをくれるわけではない。

 ただ前触れが来るだけだ。

 なら、その半歩分だけ早く動けばいい。


 板は数秒で消えた。


 彼女は草の間から湖を見た。

 黒いものは向こうでまだ揺れている。


 だが、このまま夜明けまでここにいる気はなかった。

 湖のそばを離れるべきだった。


 そのとき、鼻先に乾いた匂いが流れてきた。


 焦げた木に似ている。

 だが火の熱はない。

 風上からだった。


 同時に、耳の奥がまた鳴る。


 良い前触れか、悪い前触れかは分からない。

 ただ、何かがそちらにある。


 なら、行く。


 迷ったら、情報のある方へ寄れ。

 父の教えはそういうものだった。


 草を分け、林へ入る。

 足音は軽い。

 急いではいるが、急ぎすぎない。

 木の根を跨ぎ、枝を避け、細い間を抜けていく。


 身体能力そのものは高い。

 ただ、それを正面からぶつけるようには使っていないだけだった。


 林の奥に、白いものが見えた。


 柱のようなものが、地面に半ば埋まっている。

 石でも木でもない材質で、表面には細い線が走っていた。

 冷たく、人工的で、月光とは違う白さをしている。


 彼女はすぐには近づかなかった。

 まず退路を見て、次に足場を見る。

 そのあとで周囲をひと巡りする。


 柱のそばには乾いた枝が何本か落ちていた。

 そのうち一本は先が二股に割れている。


 彼女はそれを拾う。

 ちょっとした武器にはちょうどよかった。


 そのとき、背筋がぞくりとした。


 良いものか悪いものかは分からない。

 けれど、何かが来る。


 彼女は柱に触れる代わり、一歩だけ横へずれた。


 直後、林の外から黒い肢が飛び込んできた。


 彼女を狙ったのか、柱を狙ったのか、そこまでは分からない。

 ただ、その肢はさっきまで彼女のいた場所を裂き、そのまま白い柱へ叩きつけられた。


 硬い音が鳴る。

 柱の表面を走っていた線が、一斉に光った。


 黒い肢が止まる。


 凍ったのではない。

 痺れたように、ぴたりと固まっていた。


 彼女は瞬きをした。

 意味は分からない。


 だが、使える。


 その判断だけは速かった。


 彼女は走る。


 細い木々のあいだを、肩も裾も取られずに抜けていく。

 戦うための速さではなく、消えるための速さだった。


 背後で柱の光が途切れる。

 黒いものがまた動き出した気配がする。

 それでも振り返らない。


 予兆が来る。


 耳鳴り。

 視界の揺れ。

 皮膚のざわつき。


 そのたびに、彼女は進路をほんの少しだけ変える。

 ぬかるみを避け、出っ張った根を踏まない。


 それだけで足りた。


 予兆は彼女を勝たせはしない。

 ただ半歩だけ早く構えさせる。


 その半歩を道具に変え、地形を味方にし、追うものの足元へ嫌なものを撒くのは、結局、彼女自身だった。


 やがて林が薄くなる。

 地面の傾斜が緩み、草が低くなった。


 遠くに、橙色の小さな光が見えた。


 今度こそ火だった。

 焚き火か灯りか、まだ分からない。

 人のものかどうかも分からない。


 それでも、湖の黒色よりはましに見えた。


 そこでようやく、彼女は息を吐いた。


 胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ下へ落ちる。


 怖くなかったわけではない。

 ただ、怖がる順番が後ろへ押しやられていただけだった。


 「……お父さん、こういうのまで想定してたら、ほんとに嫌」


 苦笑にもならない声が、夜気へ混じる。


 返事はない。

 母の声も、父の声もない。


 けれど、足は止まらなかった。


 湖はまだ背後にある。

 黒いモノも、おそらくまだ生きている。

 この世界が何なのかも、どうして来たのかも分からない。


 それでも彼女は進む。


 落ちているものを拾い、使えるものに印をつけ、追うものにも少しずつ傷と躊躇を残しながら。


 予兆が来れば身構える。

 来なければ、自分の目と足で道を取る。


 そうして彼女は、夜の湖から離れていった。


 残された水面は相変わらず黒く、何事もなかったように静かだった。

 ただ岸辺には、裂けた袖の布と、浅く刻まれた足跡と、追うものにだけ分かる小さな罠がいくつも残されていた。






 *





 

 暗い部屋の片隅で、薄い表示板がひとつだけ灯っていた。

 光は弱く、井戸の底のように静かだった。


 わずかな間を置いて、文字が浮かぶ。


 《仮保護圏内で���の起動を確認》

 《照合中》


 打鍵だけんする者はいない。

 読み上げる声もない。


 それでも文字だけは、定められた手順に従うように、一行ずつ増えていく。




• 対象:たちばな あやめ/女/30代後�/危険個体

• 目的:���

• 付与:予兆

• 結果:生存継続 2h (仮保護圏内に滞留)

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