09.個体番号:�2�3
夜の湖は、山の闇をそのまま湛えていた。
水面は広く、黒い。
風が触れるたび細かな皺が立つが、それもほどなく消え、また何も映さぬ顔へ戻る。
岸辺には背の低い草が伏し、ぬかるんだ土のあいだに岩がところどころ肌を見せていた。
水草と泥の匂い。
冷えた石の匂い。
湯気や薪の気配とは無縁の、湿って静かな夜だった。
そこに、"橘 あやめ" が立っていた。
取り乱すより先に、彼女は足元を見た。
右へ重みを寄せ、左で土のやわらかさを測る。
沈むのか、滑るのか、踏ん張れるのか。
次に水際との距離。
岩の位置、木立の濃さ。
その順番は、もう身についている。
つい先ほどまで、彼女は家にいた。
夕暮れの匂いがあり、湯があり、母の声があった。
その日常がどこかでねじれ、気づけば湖畔に立っていた。
驚いていないわけではない。
ただ、驚くより先に、手順だけが立ち上がる。
見知らぬ場所へ出たら、まず隠れる場所を見ろ。
逃げる場所を見ろ。
足を取られる場所を見ろ。
父に叩き込まれたのは、何かを倒すための技ではなく、そういう順番だった。
彼女は湖を見た。
岸の形、木立の濃さ、月の位置、風向き。
それから自分の手を見る。
指先には、ついさっきまで桶を持っていた感覚がまだ残っていた。
それがかえって、今いる場所だけを現実から浮かせていた。
「……これは、ちょっと困るな」
声は小さい。
弱音ではあるが、崩れるほどのものでもない。
彼女はもともと、面倒ごとの前で少し気が沈む質だった。
どうしようもない事態を前にすると、一度だけ胸のあたりが重くなる。
けれど、その重さに沈み込んでいられるような育ち方もしていない。
「あとで考えよう」
そう呟いて、湖を背にしすぎない角度で岸を横へ歩き出す。
ぬかるみは避ける。
木立へは入りすぎない。
水際にも寄りすぎない。
何も持たずに走るな。
走る先にあるものを先に自分の道具にしろ。
追う相手がいるなら、そいつの足元を狩場に変えろ。
父の言葉は、嫌でも体に残っていた。
そのとき、右耳の奥でかすかな音が鳴った。
耳鳴りというには細い。
針で硝子をなぞるような、短い震えだった。
眉を寄せる。
何だろうと思った、その次の瞬間だった。
湖面が裂けた。
水が跳ね上がり、黒い塊が岸へ飛び出す。
その中から、細長い肢のようなものが横殴りに走った。
速い。
彼女が助かったのは、避けようとしたからではなかった。
耳の違和感に意識を引かれ、体重が一歩分だけ後ろに残っていた。
その偶然で、肢の先は胸を裂かず、袖だけを持っていった。
布が裂け、冷たい水滴が頬を打つ。
彼女は横へ飛んだ。
大きく逃げるのではなく、転ばず、すぐ立ち上がれる低い跳び方だった。
着地して振り返る。
岸へ這い上がっていたものは、人ではなかった。
黒く、濡れている。
水草と泥をまとい、輪郭が曖昧だった。
魚とも獣ともつかず、どこが胴でどこが頭かも判然としない。
ただ、水の中から伸びてくる細長い肢だけは、はっきり見えた。
「ああ、そういうの、いるんだ……」
感想とも、諦めともつかない声だった。
怖くないわけではない。
だが恐怖が前へ出る前に、別の判断が立つ。
正面からやる相手ではない。
水際から離れる。
それで足りた。
後ろへ下がる。
その途中で、視界の端がふっと揺れた。
景色の縁だけが、一瞬、薄く滲む。
彼女は足を止めた――というより、止まってしまった。
違和感に目を引かれ、その分、足を下ろす位置がずれた。
踏み込むはずだった草地ではなく、その脇の岩に乗る。
直後、草地が沈んだ。
水を含んだ土が崩れ、その下の空洞が口を開ける。
あのまま踏み抜いていれば、膝まで持っていかれていた。
さらに黒い肢が、その崩れた場所へ突っ込み、泥を跳ね上げた。
彼女は岩の上で身をひねり、そのまま岸から半身ぶん距離を取る。
今ので二度目だった。
耳の奥の違和感。
視界の端の揺れ。
そのあとに、何かが来る。
良いことなのか悪いことの前兆なのかは、まだ断定できない。
ただ、何かしら前触れだけがある。
彼女は湖を見た。
黒いものは、まだいる。
這い上がりきれずに、岸を探るように動いている。
「……なるほどね」
納得ではなく、保留の声だった。
何かが自分に起きているのかもしれない。
だが、そういうことは脇へ置いておけばいい。
まず生きること。
意味づけは、後。
それも父の教えだった。
彼女はゆっくり下がりながら、落ちていた枝を一本拾った。
腕より少し長い。
まっすぐではないが、先端は細く、しなりもある。
次に足元の石を三つ。
握りやすい大きさのものだけを選び、丸すぎるものは捨て、角のあるものを残す。
さらに裂けた袖口の布をちぎり、細く裂いて枝の片側へ巻きつけた。
補強にもなり、手触りでも向きが分かる。
立ち止まった時間は短い。
けれど、その手つきに迷いはなかった。
落ちているもの。
折れているもの。
剥がせるもの。
そういうものはみな、役割を持てるかどうかで見ていた。
枝は距離、石は牽制。
布は印、ぬかるみは罠として。
倒木は橋にも壁にもなる。
何もない場所というものが、彼女の中にはなかった。
使えていないだけで、たいてい何かはある。
黒い肢が、もう一度走った。
今度は背筋が粟立つ。
その感覚にまだ名前はない。
けれど、さっきから違和感のあとに来るものは、たいてい碌でもない。
なら、逆らうより先に、身をずらした方が早い。
彼女は半歩、右へ切った。
肢が左肩のあった場所を抜ける。
同時に枝を横から打ちつけた。
壊すためではない。
伸びきった先を、外から払うだけ。
黒い肢がわずかに逸れ、ぬかるみへ落ちる。
そこへ石をひとつ投げた。
当てるためではない。
泥を跳ねさせるためだった。
泥と小石がまとわりつき、黒いものの動きが一瞬だけ乱れる。
その隙に、彼女はまた下がる。
逃げながら、相手の通る場所を悪くしていく。
追う側は、自分が狩る側だと思い込みやすい。
だが、その足元にも沈む泥があり、岩があり、枝がある。
それを負わせるだけでも、十分なことはある。
彼女は岩場へ向かって走った。
速い。
脚力の派手さではなく、無駄のなさで稼ぐ速さだった。
岩から岩へ。
やわらかい土は踏まない。
細い場所を選ぶ。
水際へ寄らない。
背後で水音が荒れる。
走りながら、彼女は布切れを結びつけた小枝を二本、草の根元へ差した。
人の目には目印にも見えない。
だが自分には、それで足りる。
戻るとき、踏んでいい場所と悪い場所を分ける印だった。
さらに岩の隙間へ、角ばった石をひとつ差し込む。
踏めば転ぶほどではない。
だが、ぬめった肢や重みが乗れば、拍子を崩すには事足りる。
派手な細工ではない。
それでも、ただ追えばいいと思わせない程度には役に立つ。
そのとき、また耳の奥が鳴った。
今度の彼女は、止まらなかった。
止まる代わりに、進路だけを半歩変える。
直後、頭の横を小石が飛んでいった。
黒い肢が岸を打ち、跳ねた石らしかった。
元の進路のままだったら、こめかみに当たっていた。
「ほんとにもう……」
文句だけが落ちる。
それでも目は、もう次を探していた。
前方に倒木がある。
湖へ半ば突き出し、半ば岸に残っている。
使える。
彼女は倒木へ向かった。
途中で細い蔓を見つけ、足を止めずに引きちぎる。
輪を作りながら巻き取る。
丈夫ではないが、ないよりはましだった。
倒木の手前で一瞬だけしゃがみ、蔓を岩と低木のあいだへ渡す。
膝より低い位置。
肢や足が払いやすい高さ。
人に踏ませる罠としては浅い。
だが、追ってくるもののリズムを乱すには事足りる。
そのまま倒木へ乗る。
木は湿っていた。
滑る。
けれど、重心の置き方は知っている。
足裏全体では乗らない。
指の付け根と踵の内側で捉える。
膝を固めず、肩を上げすぎない。
父は、細い梁や濡れた石塀の上を走らせるのが好きだった。
嫌な訓練だった。
だが、こういうときには役に立つ。
彼女は倒木の上を駆けた。
黒い肢が木へ絡む。
一本、二本、三本。
木が軋む。
視界の端がまた揺れた。
今度は前だった。
彼女は踏み切りのタイミングを一拍だけ遅らせる。
直後、倒木の中ほどが折れた。
腐った芯が、荷重に耐えられなかったらしい。
そのまま踏み込んでいたら、湖へ落ちていた。
彼女は折れた箇所を飛び越え、岸側へ転がり込む。
着地した先は草地だった。
沈まない。
だが、安全とも言えない。
すぐに身を低くする。
その直後、背後で倒木に絡んでいた黒い肢が、さっき張った蔓に触れた。
蔓が切れる。
だが切れ際に肢の向きがわずかにぶれ、さらに岩の隙間へ差し込んだ石に乗り上げる。
黒いものの動きが、ほんの一瞬だけ崩れた。
彼女は振り返る。
そのわずかな乱れで十分だった。
枝の先を、黒い肢の柔らかそうな内側へ突き込む。
貫けはしない。
けれど、嫌がる。
黒いものが水音を立てて引いた。
すぐに枝を捨てる。
執着しない。
使ったものは置いていく。
それもまた、知っているやり方だった。
ただ逃げる獲物は、追う側にとって楽だ。
だが、足元を崩し、目を散らし、進むたびに嫌なことが増える獲物は、少し違う。
噛みつけば喉に骨が刺さるかもしれない。
それくらいは教えてやる必要があった。
彼女は草の中へ滑り込んだ。
伏せるのではない。
草の形へ身を寄せる。
輪郭を薄くする。
呼吸を浅く、長くする。
隠れることは、彼女にとって考えをまとめる姿勢でもあった。
湖の音を聞きながら、頭の中を整える。
知らない場所。
母はいない。
湖には変なものが二つ以上いる。
自分は丸腰に近い。
そして、違和感のあとに何かが起きる。
それが良いことか悪いことかはまだ分からない。
けれど、身構える時間にはなる。
そこまで考えたところで、前方の闇に明かりが灯った。
半透明の板だった。
冷たい光を帯びた四角い板が空中に現れ、文字を並べている。
彼女は目を細めた。
《スキル付与:〈予兆〉》
《効果:事象発生前の感覚的予見》
《備考:吉凶の兆しは不明》
「ああ、そういうこと」
驚きは薄かった。
さっきから現実の方が先におかしい。
今さら板が出たところで、順番としては後ろだった。
予兆と名前がついたところで、やることは変わらない。
答えをくれるわけではない。
ただ前触れが来るだけだ。
なら、その半歩分だけ早く動けばいい。
板は数秒で消えた。
彼女は草の間から湖を見た。
黒いものは向こうでまだ揺れている。
だが、このまま夜明けまでここにいる気はなかった。
湖のそばを離れるべきだった。
そのとき、鼻先に乾いた匂いが流れてきた。
焦げた木に似ている。
だが火の熱はない。
風上からだった。
同時に、耳の奥がまた鳴る。
良い前触れか、悪い前触れかは分からない。
ただ、何かがそちらにある。
なら、行く。
迷ったら、情報のある方へ寄れ。
父の教えはそういうものだった。
草を分け、林へ入る。
足音は軽い。
急いではいるが、急ぎすぎない。
木の根を跨ぎ、枝を避け、細い間を抜けていく。
身体能力そのものは高い。
ただ、それを正面からぶつけるようには使っていないだけだった。
林の奥に、白いものが見えた。
柱のようなものが、地面に半ば埋まっている。
石でも木でもない材質で、表面には細い線が走っていた。
冷たく、人工的で、月光とは違う白さをしている。
彼女はすぐには近づかなかった。
まず退路を見て、次に足場を見る。
そのあとで周囲をひと巡りする。
柱のそばには乾いた枝が何本か落ちていた。
そのうち一本は先が二股に割れている。
彼女はそれを拾う。
ちょっとした武器にはちょうどよかった。
そのとき、背筋がぞくりとした。
良いものか悪いものかは分からない。
けれど、何かが来る。
彼女は柱に触れる代わり、一歩だけ横へずれた。
直後、林の外から黒い肢が飛び込んできた。
彼女を狙ったのか、柱を狙ったのか、そこまでは分からない。
ただ、その肢はさっきまで彼女のいた場所を裂き、そのまま白い柱へ叩きつけられた。
硬い音が鳴る。
柱の表面を走っていた線が、一斉に光った。
黒い肢が止まる。
凍ったのではない。
痺れたように、ぴたりと固まっていた。
彼女は瞬きをした。
意味は分からない。
だが、使える。
その判断だけは速かった。
彼女は走る。
細い木々のあいだを、肩も裾も取られずに抜けていく。
戦うための速さではなく、消えるための速さだった。
背後で柱の光が途切れる。
黒いものがまた動き出した気配がする。
それでも振り返らない。
予兆が来る。
耳鳴り。
視界の揺れ。
皮膚のざわつき。
そのたびに、彼女は進路をほんの少しだけ変える。
ぬかるみを避け、出っ張った根を踏まない。
それだけで足りた。
予兆は彼女を勝たせはしない。
ただ半歩だけ早く構えさせる。
その半歩を道具に変え、地形を味方にし、追うものの足元へ嫌なものを撒くのは、結局、彼女自身だった。
やがて林が薄くなる。
地面の傾斜が緩み、草が低くなった。
遠くに、橙色の小さな光が見えた。
今度こそ火だった。
焚き火か灯りか、まだ分からない。
人のものかどうかも分からない。
それでも、湖の黒色よりはましに見えた。
そこでようやく、彼女は息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ下へ落ちる。
怖くなかったわけではない。
ただ、怖がる順番が後ろへ押しやられていただけだった。
「……お父さん、こういうのまで想定してたら、ほんとに嫌」
苦笑にもならない声が、夜気へ混じる。
返事はない。
母の声も、父の声もない。
けれど、足は止まらなかった。
湖はまだ背後にある。
黒いモノも、おそらくまだ生きている。
この世界が何なのかも、どうして来たのかも分からない。
それでも彼女は進む。
落ちているものを拾い、使えるものに印をつけ、追うものにも少しずつ傷と躊躇を残しながら。
予兆が来れば身構える。
来なければ、自分の目と足で道を取る。
そうして彼女は、夜の湖から離れていった。
残された水面は相変わらず黒く、何事もなかったように静かだった。
ただ岸辺には、裂けた袖の布と、浅く刻まれた足跡と、追うものにだけ分かる小さな罠がいくつも残されていた。
*
暗い部屋の片隅で、薄い表示板がひとつだけ灯っていた。
光は弱く、井戸の底のように静かだった。
わずかな間を置いて、文字が浮かぶ。
《仮保護圏内で���の起動を確認》
《照合中》
打鍵する者はいない。
読み上げる声もない。
それでも文字だけは、定められた手順に従うように、一行ずつ増えていく。
• 対象:橘 あやめ/女/30代後�/危険個体
• 目的:���
• 付与:予兆
• 結果:生存継続 2h (仮保護圏内に滞留)




