第23話 空席、銀髪のいない朝
あの屋上から、三日が過ぎた。
三人の関係は、表向き、何も変わっていない。教室ではシルフィは「貴様」と呼ぶし、玲奈は廊下ですれ違うと「鈴木くん」と微笑む。
ただ、僕とシルフィの間にだけ、小さな違和感が、生まれていた。
肩が触れる距離は、変わらない。声をかける回数も、変わらない。
でも、シルフィの目が、たまに、僕の向こう側を見る。
遠くを、見る。
ここではない、どこかを、見ている目だった。
その日、シルフィは、放課後、いつもより早く立ち上がった。
「……ハルト」
「ん」
「今日は、先に帰る」
「……一緒に帰らないのか?」
「……一人で帰る」
いつもなら、理由を聞けば、しぶしぶ言う。
今日は、違った。
「……何かあった?」
「……ない」
シルフィは、僕と目を合わせなかった。
鞄を肩にかけて、足早に、教室を出ていった。
追いかけようとした足が、止まった。
追いかけたら、シルフィは、もっと遠くへ行く気がした。
その勘は、たぶん、合っていた。
でも、合っていたからといって、正しい選択だったかは、別の話だった。
夜、シルフィに、メッセージを送った。
他愛のない、いつもの一文。
『今日、寒かったな』
既読は、つかなかった。
寝る前に、もう一度、画面を見た。
まだ、つかなかった。
シルフィが、既読をすぐにつけないことは、これまでも、たまに、あった。
だから、僕は、深く考えなかった。
考えなかったことを、翌朝、後悔することになる。
翌朝。
いつもより、早く、教室に着いた。
シルフィの席は、空っぽだった。
まだ、誰も来ていない時間だから、それは、当たり前だった。
でも、いつも通り朝が進んで、クラスメイトが揃って、ホームルームの時間になっても、シルフィの席は、空いたままだった。
担任が、出席を取った。
「白森」
返事が、ない。
「白森シルフィ。……欠席か」
担任は、ペンを、出席簿に走らせた。
いつもと同じ、機械的な動作。
なのに、隣の席の空白だけが、教室全体の空気を、ぐにゃりと歪ませた気がした。
僕は、スマホを、机の下で、確認した。
昨日のメッセージに、まだ、既読は、ついていなかった。
一時間目。
黒板の文字が、滑っていく。
ノートを取ろうとして、ペンが、止まる。
隣を、見る。
誰もいない椅子。
いない、と分かっているのに、何度も、見てしまう。
二時間目。
三時間目。
昼休み。
購買のパンを買って、自分の席に戻った。
いつもなら、シルフィが、僕より先に、自分の席で、昼食を食べている時間だ。
今日は、誰もいない。
パンの袋を開ける音だけが、やけに、大きく響いた。
もう一度、スマホを確認した。
既読は、ついていない。
新しいメッセージを、打った。
『大丈夫か』
送信。
既読は、つかなかった。
昼休みが終わる頃、玲奈が、教室の入口に、立っていた。
いつもの、柔らかい笑顔ではなかった。
少しだけ、強張った顔だった。
僕は、廊下に出た。
「鈴木くん」
「……はい」
「白森さんから、連絡、来た?」
玲奈の声が、いつもより低かった。
僕は、首を振った。
「……昨日の夜から、既読、つかないです」
「……私も」
玲奈は、自分のスマホを、僕に見せた。
画面に、玲奈からシルフィへのメッセージが、いくつか並んでいた。
全部、既読が、ついていなかった。
「電話も、出ない」
「……」
「鈴木くん、昨日、何か、あった?」
「……いえ」
昨日、シルフィは、いつもより早く帰った。
目を、合わせなかった。
あれが、最後の会話だった。
言わないと、いけないことに、気づいた。
「……昨日、シルフィ、変でした」
「変?」
「『先に帰る』って、急に言って。理由、聞いても、教えてくれなかった」
「……」
「目が、合わなかったんです」
玲奈の表情が、ゆっくり、固くなった。
「……今朝、家の方には、行ってみた?」
「……まだ」
「私、行ってみる」
「……一緒に」
「ううん。授業、終わってからにして」
玲奈は、言いきった。
「鈴木くん、今、行ったら、たぶん、冷静じゃいられないでしょ」
「……」
「私が、先に行く。連絡する」
その判断が、たぶん、正しかった。
頷くしかなかった。
頷いた、その時、玲奈の目に、ほんの少しだけ、自分も冷静じゃない、と書いてある気がした。
でも、玲奈は、それを、見せなかった。
見せないまま、廊下の向こうへ、歩いていった。
午後の授業を、どう過ごしたか、覚えていない。
黒板を、見ていた。ノートを、開いていた。ペンを、握っていた。
でも、何も、書けなかった。
書こうとすると、隣の空席が、視界に入った。
入るたびに、胸が、ぐっと、押された。
六時間目の途中で、机の中で、スマホが震えた。
心臓が、跳ねた。
机の下で、画面を見た。
玲奈からだった。
『家、行ってきた』
もう一通。
『……いなかった』
息が、止まった。
次のメッセージが、すぐに来た。
『鍵が、開いてた。中、誰もいない』
『ベッドは、整えられてた。机の上も、片付けられてた』
『生活感がない。出かけたまま、戻る予定じゃない、感じ』
もう一通。
『部屋に、置き手紙とか、何もなかった』
最後の一通が、僕の指を、固まらせた。
『荷物、一部、なくなってる』
チャイムが、鳴った。
六時間目の終わり。
僕は、座ったまま、動けなかった。
立ち上がる理由が、ない、というより、立ち上がる力が、出なかった。
帰りのホームルーム。
担任の声が、遠かった。
ホームルームが、終わった。
クラスメイトが、ばらばらと、帰り支度を始めた。
僕は、まだ、座っていた。
もう一度、シルフィに、メッセージを送った。
『どこにいる』
既読は、つかない。
もう一通、打った。
『何も、言わずに、いなくなるなよ』
既読は、つかない。
返信が来る気配は、画面のどこにも、なかった。
教室に、一人、残った。
窓の外が、少しずつ、暗くなっていく。
冬の日没は、早い。
僕は、隣の机を見た。
昨日まで、シルフィが座っていた、椅子。
昨日まで、シルフィの肘がついていた、机。
昨日まで、シルフィのノートが、あった場所。
全部、空っぽだった。
空っぽの中で、僕は、ようやく、机に、突っ伏した。
額を、机に、押し付けた。
冷たい。
ひんやりした、木の匂い。
その匂いの中で、目の奥が、熱くなった。
堪えようとした。
堪えられなかった。
涙が、一粒、机に落ちた。
音は、しなかった。
でも、落ちた、と分かった。
二粒目が、続いた。
三粒目で、もう、堪えるのを、やめた。
「……なんで」
声が、漏れた。
「……何で、何も言わずに」
誰もいない教室で、僕の声は、どこにも、届かなかった。
届かないから、言えた、のかもしれない。
好きだ、と言ってくれた。
待っててくれ、と言ってくれた。
屋上で、約束した。
三人で、嘘はつかない、逃げない、と。
なのに。
シルフィは、いなくなった。
何も、言わずに。
逃げたのかもしれない。
逃げたんじゃないのかもしれない。
どちらか、分からない。
分からないことが、一番、苦しかった。
涙が、止まらなかった。
肩が、震えた。
声を上げないように、口を、手で押さえた。
押さえても、漏れた。
「……シルフィ」
名前を、呼んだ。
返事は、なかった。
返事が来ないことが、こんなに、苦しいなんて。
僕は、知らなかった。
窓の外が、完全に暗くなって、廊下の電気が、一斉に灯った。
僕は、まだ、机に突っ伏したままだった。
涙は、止まっていた。
止まったというより、出尽くした、という方が、正しい。
目が、腫れている自覚があった。
顔も、たぶん、ひどい。
立ち上がる気力が、まだ、湧かない。
ポケットの中で、スマホが、震えた。
心臓が、跳ねた。
画面を、見た。
シルフィでは、なかった。
玲奈からだった。
『鈴木くん、まだ学校にいる?』
位置情報まで、見抜かれている気がした。
僕は、震える指で、打った。
『……います』
既読。
返信は、なかった。
代わりに、教室の入口で、コツン、という、小さな音がした。
顔を上げた。
玲奈が、立っていた。
コートを、着ていた。
たぶん、家まで行って、そのまま、ここに来た。
「……やっぱり、ここにいた」
「……」
「鈴木くん、顔」
「……」
「……うん、何も言わなくていい」
玲奈は、近づいてきて、僕の隣の、シルフィの席に、座った。
空いている椅子に、玲奈が、座った。
代わりじゃ、ない。
代わりじゃないけど、すこしは気分まぎれるかな?
それだけで、僕は、また、目が熱くなった。
「……玲奈」
「ん」
「……シルフィ、戻ってきますか」
「……」
「玲奈」
「……分からない」
玲奈は、嘘を、つかなかった。
つかないと、決めたから。
「分からない。でも、私、信じる」
「……信じる」
「うん。信じる」
玲奈の声が、少しだけ、震えていた。
「鈴木くんも、信じて」
信じる、と言われても、すぐには、頷けなかった。
頷けないまま、僕は、もう一度、机に突っ伏した。
玲奈は、何も言わなかった。
ただ、僕の背中に、手のひらを、軽く置いた。
温かかった。
その温かさで、また、涙が、こぼれた。
今度は、声を、抑えなかった。
誰もいない教室で。
いや、玲奈だけがいる教室で。
僕は、シルフィの空席の隣で、声を上げて、泣いた。
子どもみたいに。
みっともなく。
玲奈は、最後まで、何も言わなかった。
ただ、背中に置いた手のひらを、ゆっくり、規則的に、動かした。
窓の外で、雪が、ちらつき始めた。
今年、初めての雪だった。
シルフィのいない、初めての雪。
白い粒が、暗い空から、静かに、落ちていた。
どこにいるのか、分からない。
なぜ、いなくなったのか、分からない。
いつ、戻ってくるのか、分からない。
戻ってくるのかさえ、分からない。
分からないことが、こんなに、痛いなんて。
僕は、知らなかった。
シルフィの席は、空いたままだった。
明日も、たぶん、空いている。
明後日も。
その先も、いつまでかは、分からない。
既読のつかないメッセージだけが、僕の画面に、いくつも、積もっていく。
雪と、同じくらい、静かに。
他作品でマンガも描いています(*'ω'*)
時間ができたら挿絵描いてみようと思います(^^♪
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