第22話 三人、屋上、冬の空
翌朝。
シルフィは教室にいた。
いつもの席。いつもの姿勢。背筋は伸びて、顎は少し上がっている。
ただ、目の下にうっすらとクマがあった。昨日泣いた痕跡を、薄い化粧で隠そうとして、隠しきれていない。
「……おはよう」
「おはよう、ハルト」
僕の名前を、普通に呼んだ。
従者でも、貴様でもなく。
それだけで、昨日とは何かが違うと分かった。
「……今日、放課後」
「うむ。玲奈様に会う」
シルフィの声は静かだった。
強がりの鎧を脱いだわけじゃない。ただ、鎧の下にあるものを隠さなくなった、という感じだ。
「……一人で行くか?」
「いや」
シルフィは僕を見た。
「貴様も来い。三人で話すと、玲奈様が言ったのだろう」
「……聞いてたのか」
「貴様のスマホ、通知音がうるさい」
昨日、シルフィの家で鳴ったのを聞かれていたらしい。
僕は何も言えなかった。
***
放課後。
玲奈が指定した場所は、特別棟の屋上だった。
普段は施錠されているが、生徒会長権限で鍵を持っている。玲奈らしい選択だ。人目がない。声が漏れない。逃げ場もない。
階段を上がると、冬の風が頬を叩いた。
屋上のフェンス越しに、街が広がっている。夕暮れ前の空は灰色と薄い橙のあいだで、どちらにもなりきれない色をしていた。
玲奈は先に来ていた。
フェンスに背を預けて、コートのポケットに手を入れている。髪が風に揺れて、いつもの完璧な印象が少しだけ崩れていた。
僕らに気づいて、顔を上げる。
「来たね」
「……はい」
シルフィが一歩前に出た。
僕はその半歩後ろに立つ。いつもの位置だ。
三人の間に、沈黙が落ちた。
風の音だけが、フェンスを鳴らしている。
最初に口を開いたのは、玲奈だった。
「白森さん。昨日、ごめんね」
「……なぜ、玲奈様が謝るのですか」
「急に聞いちゃったから。"好きって誰に向けるの"なんて」
玲奈は苦笑した。
「あれは、私が聞きたかっただけ。白森さんを困らせるつもりじゃなかった」
「困ってなど……」
「困ってたでしょう。今日まで休んだくらいには」
シルフィが口をつぐんだ。
否定できない。
玲奈はフェンスから背を離して、シルフィの正面に立った。
「私ね、白森さんが好き」
二度目の告白。
でも、昨日僕に言ったときとは声の温度が違う。もっと真っ直ぐで、もっと覚悟がある。
シルフィの肩が震えた。
「……私も、玲奈様が好きです」
シルフィの声は小さかったけれど、はっきりしていた。
玲奈が微笑む。嬉しそうで、少しだけ切ない笑顔。
「うん。知ってる」
そして、玲奈はゆっくりと僕の方を見た。
「鈴木くんのことも、聞いていい?」
シルフィの身体が強張る。
僕は動かなかった。ここで口を挟んだら、シルフィの言葉を奪うことになる。
シルフィは長い息を吐いた。
そして、振り返った。
僕を見る。
碧い目が、まっすぐだった。昨日の泣いた目じゃない。泣いた後の、覚悟を決めた目。
「……ハルト」
「ん」
「貴様のことは、分からないと言った」
「うん」
「嘘だ」
僕の心臓が、大きく鳴った。
「……嘘?」
「分からないのではない。認めたくなかっただけだ」
シルフィの声が震える。でも、目は逸らさない。
「貴様がいないと、怖い。貴様が隣にいると、安心する。貴様に触れられると、耳まで熱くなる」
一つずつ、並べるように言う。
「それを"分からない"と言い続けるのは……嘘だ」
風が吹いた。
シルフィの銀髪が舞い上がって、耳が見えた。赤い。真っ赤だ。
「……でも、玲奈様も好きだ。それも嘘じゃない」
シルフィは玲奈の方を向いた。
「玲奈様。私は、あなた様が好きです。憧れでも崇拝でもなく、好きです」
玲奈は黙って聞いている。
「そして……ハルトのことも、好きだと思います」
シルフィの声が、最後だけかすれた。
「二人を好きだなんて、おかしいと思います。ずるいと思います。でも、嘘をつくなと……ハルトに言われました」
僕の名前が出て、玲奈の視線が一瞬だけ僕に触れた。
すぐにシルフィに戻る。
「だから、嘘をつきません」
シルフィは頭を下げた。深く。
「……ごめんなさい」
屋上に、シルフィの声だけが残った。
風がやんでいた。
長い沈黙のあと、玲奈が動いた。
一歩、シルフィに近づく。
そして、頭を下げたままのシルフィの肩に、そっと手を置いた。
「……顔、上げて」
シルフィがゆっくり顔を上げる。
目が赤い。泣いてはいない。でも、限界だ。
玲奈は、その顔を見て、笑った。
泣きそうなのに笑っている、不思議な顔だった。
「白森さん。私ね、怒ってないよ」
「……でも」
「怒る理由がない。正直に言ってくれたんだから」
玲奈はシルフィの肩から手を離して、一歩下がった。
「好きの形が違う、って私が言ったよね」
「……はい」
「あれ、自分に言い聞かせてたの。半分は」
玲奈の声が、少しだけ揺れた。
「白森さんが鈴木くんを見る目と、私を見る目は、違う。それは最初から分かってた」
「……」
「でも、違うから負けてるとは思わない」
玲奈は僕を見た。
「鈴木くん」
「はい」
「あなたは、白森さんのこと、好き?」
直球だった。
逃げ場がない。
シルフィが僕を見ている。玲奈も見ている。
冬の屋上で、二人の視線が僕に集まる。
僕は息を吸った。
吐いた。
「……好きです」
言った。
言ってしまった。
シルフィの目が見開かれる。
玲奈は、小さく頷いた。
「そっか」
それだけだった。
怒りもしない。泣きもしない。ただ、受け止めた。
「……天道さん」
「うん」
「すみません」
「謝らないで。好きになったことは、誰も悪くない」
玲奈はそう言って、空を見上げた。
灰色だった雲の隙間から、夕陽が一筋だけ差し込んでいる。
「……私はね、白森さんの"好き"を独り占めしたかった。正直に言うと」
玲奈の声は静かだった。
「でも、独り占めしたら、白森さんは嘘をつく。嘘をつく白森さんは、白森さんじゃない」
シルフィが、小さく息を呑んだ。
「だから、私は待つ」
玲奈が振り返った。
笑顔だった。完璧じゃない、少しだけ崩れた笑顔。
「白森さんが自分の気持ちに名前をつけるまで、待つ。焦らせない。でも、諦めない」
その言い方が、強くて、優しくて、ずるかった。
シルフィの目から、涙がこぼれた。
今度は声を上げて。
「れ、玲奈様……っ」
「泣かないの。……泣いたら、私も泣くから」
玲奈の目が赤くなる。
でも、泣かなかった。唇を噛んで、耐えた。
僕は二人の間で、立ち尽くしていた。
何を言えばいいか分からない。
でも、黙っているわけにもいかない。
「……天道さん」
「うん」
「僕も、待ちます」
玲奈が僕を見た。
「シルフィが答えを出すまで。隣にいて、待ちます」
玲奈は少し驚いた顔をして、それから、ふっと笑った。
「……ライバル宣言?」
「そうなるかもしれません」
「ふふ。いい度胸ね」
玲奈の声に、棘はなかった。
むしろ、どこか嬉しそうだった。
「じゃあ、約束。三人とも、嘘をつかない。逃げない」
玲奈が右手を差し出した。
シルフィが涙を拭いて、その手に自分の手を重ねた。
僕も、二人の手の上に、自分の手を置いた。
三つの手のひらが重なる。
冷たい。でも、触れているところだけ、温かい。
「……変な約束だな」
「変でいいよ。普通じゃないんだから、私たち」
玲奈が笑う。
シルフィが、泣きながら笑う。
僕も、たぶん、笑っていた。
***
屋上を出て、階段を下りた。
三人並んで歩く廊下は、もう暗くなりかけていた。
シルフィが真ん中。僕が右。玲奈が左。
誰も手は繋いでいない。
でも、肩が触れそうな距離で歩いている。
玲奈が、ふと口を開いた。
「ねえ、白森さん」
「はい」
「明日から、また"玲奈様"って呼ぶ?」
「……当然です。あなた様は聖女様ですから」
「ふふ。じゃあ、二人きりのときは"玲奈"でいいよ」
シルフィが固まった。
「れ、玲奈……」
「うん。そう。いい響き」
玲奈が嬉しそうに笑う。
シルフィの耳が、また赤くなった。
僕は黙って見ていた。
見ていたら、玲奈が僕の方を向いた。
「鈴木くんも」
「え」
「"玲奈"でいいよ」
「……いや、それは」
「ライバルなんでしょう。敬語じゃ戦えないよ」
玲奈の目が、挑戦的に光った。
「……玲奈」
「うん。よろしくね、ハルト」
名前で呼ばれた。
心臓が跳ねる。
シルフィが、ぎろりと僕を睨んだ。
「……貴様、玲奈様を名前で呼ぶな」
「玲奈が呼べって言ったんだろ」
「私は"様"をつけている! 貴様は呼び捨てだ! 格が違う!」
「格って何だよ」
玲奈が声を上げて笑った。
廊下に、三人の声が響く。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
でも、嘘じゃない。
泣いたことも、笑っていることも、全部本当だ。
校門の前で、三人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
玲奈が手を振る。
「……また明日。玲奈様」
シルフィが小さく頭を下げる。
「また明日。……玲奈」
僕が言うと、シルフィが僕の脇腹を肘で突いた。
「呼び捨てするな」
「さっきから言ってるだろ、玲奈が――」
「うるさい」
玲奈は笑いながら、特別棟の方へ歩いていった。
途中で一度だけ振り返って、僕らに向かって小さく手を振った。
その背中が、少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
***
帰り道。
シルフィと二人きりになった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
駅前のイルミネーションが、また光っている。毎日同じ光なのに、今日は少しだけ違って見えた。
「……ハルト」
「ん」
「貴様、好きだと言ったな」
心臓が跳ねた。
「……言った」
「……本当か」
「嘘つかないって、さっき約束しただろ」
シルフィは黙った。
五歩くらい歩いて、ぽつりと言った。
「……嬉しかった」
僕の足が止まった。
「嬉しくて、怖くて、申し訳なくて、でも……嬉しかった」
シルフィは前を向いたまま言った。
振り返らない。
「……答えは、まだ出せない」
「いいよ」
「待たせる」
「待つって言った」
「……本当に、待てるのか」
「待てる」
即答した。
シルフィの歩みが、少しだけ遅くなった。
僕が追いつく。
肩が並ぶ。
シルフィの手が、僕の袖に触れた。
掴まない。触れただけ。
指先が、布の上を滑って、離れた。
「……今日は、繋がない」
「うん」
「……でも」
シルフィは小さく息を吐いた。
「……触れたかった。それだけだ」
僕は、返す言葉を持っていなかった。
持っていないから、ただ隣を歩いた。
冬の夜。イルミネーションの光。白い息。
三角形は、まだ歪んでいる。
でも、三人とも嘘をやめた。
それだけで、昨日までとは全部違う。
家の前で、シルフィが立ち止まった。
「……ハルト」
「ん」
「明日も、隣にいろ」
「いるよ」
「……約束だ」
「約束」
シルフィは頷いて、背を向けた。
今日は振り返らなかった。
振り返らないまま、アパートの階段を上がっていく。
二階の窓に明かりが灯る。
僕はそれを確認してから、歩き出した。
右手の袖に、シルフィの指先が触れた感触が残っている。
掴まなかった。でも、触れた。
その距離が、今の僕らだ。
スマホが震えた。
シルフィからだった。
『今日、ありがとう』
二度目の「ありがとう」。
昨日は泣きながらこぼれた言葉。今日は、自分の意志で打った文字。
僕は返信を打った。
『こっちこそ。おやすみ』
少し間があって、返ってくる。
『おやすみ。……ハルト』
名前だけ。
それだけなのに、胸が熱い。
僕はスマホを握ったまま、冬の空を見上げた。
雲は晴れていた。星が、いくつも見えた。
明日が来る。
三人の明日が。




