第21話 明日が来た、言葉はまだ来ない
朝。
目覚ましより先に目が覚めた。
珍しいことだ。僕は基本的に、アラームを三回止めてからようやく布団を出る人間だ。
なのに今日は、目を開けた瞬間から胸がざわついていた。
シルフィが「明日、言う」と言った。
その"明日"が、今日だ。
僕は顔を洗って、制服に袖を通した。鏡を見る。いつもと同じ顔。少しだけ目の下にクマがある。寝たのか寝てないのか、自分でも分からない。
袖の皺は、まだ残っていた。
***
教室に入ると、シルフィはまだ来ていなかった。
僕は自分の席に座って、鞄を置いた。窓の外は曇り空で、昨日までの冬晴れが嘘みたいだ。
五分経った。
十分経った。
シルフィは来ない。
予鈴が鳴る。
周りの席が埋まっていく中、シルフィの席だけが空いている。
僕はスマホを確認した。メッセージはない。
嫌な予感がした。
逃げたのか。
いや、シルフィは「逃げるなよ」と僕に言った。自分が逃げるつもりなら、あんな言い方はしない。
しない、はずだ。
本鈴が鳴った。
担任が教室に入ってくる。出席を取り始める。
「白森」
返事がない。
「白森シルフィ。……欠席か」
担任がペンで出席簿に印をつける。
僕の胸が、ぎゅっと縮んだ。
一時間目。二時間目。
シルフィは来ない。
僕は授業を聞いているふりをしながら、何度もスマホを確認した。メッセージを送ろうかと思って、やめた。送ろうかと思って、またやめた。
三度目に画面を開いたとき、指が勝手に動いた。
『大丈夫か』
送信。
既読はつかない。
昼休み。
僕は廊下に出て、自販機の前に立った。缶コーヒーを買う気にもなれず、ただ立っていた。
「鈴木くん」
声がして振り返ると、玲奈だった。
今日はいつもの笑顔ではない。少しだけ、眉が寄っている。
「白森さん、今日お休みよね」
「……はい」
「連絡、来た?」
「来てないです」
玲奈は小さく息を吐いた。
「私にも来てないの」
その一言で、僕の不安が確信に変わった。
シルフィは、二人から同時に逃げている。
「……天道さん」
「うん」
「昨日、何かありましたか。デートのとき」
玲奈は少し考えてから、正直に答えた。
「帰り際にね。白森さんに聞いたの。"好きって、誰に向けるの"って」
「……それは、聞こえてました」
「そう。……でもね、その後も少し話したの」
玲奈は壁にもたれて、天井を見上げた。
「白森さん、すごく真剣な顔で言ったの。"玲奈様のことが好きです"って」
「……」
「私、嬉しかった。本当に」
玲奈の声が、少しだけ揺れた。
「でも、白森さんはそのあと、こう言ったの」
玲奈が僕を見る。
「"でも、ハルトのことを考えると、胸が痛い"って」
僕の呼吸が止まった。
「……それ、シルフィが」
「うん。白森さんが」
玲奈は苦笑した。
「私の前で、別の人の名前を出すの。あの子らしいでしょう」
「……すみません」
「謝らないで。鈴木くんは悪くない」
玲奈は姿勢を正した。
「私ね、あの時、白森さんに言ったの。"それは、好きが二つあるんじゃなくて、好きの形が違うだけかもしれないよ"って」
好きの形が違う。
その言葉が、僕の中でゆっくり沈んでいく。
「白森さん、泣きそうな顔してた。でも泣かなかった。"考えます"って言って、笑って帰った」
笑って帰った。
シルフィが、無理をして笑う姿が浮かんだ。あの、戻りきらない強がりの顔。
「……だから今日、休んでるんですね」
「たぶん。考えてるんだと思う。一人で」
玲奈は少しだけ悲しそうに笑った。
「あの子、一人で考えるの好きでしょう。でも、一人で考えると大体、悪い方に行く」
「……分かります」
「でしょう」
玲奈は僕の肩に、軽く手を置いた。
「鈴木くん。迎えに行ってあげて」
「……いいんですか」
「いいも何も。あの子が今一番会いたいの、たぶん私じゃないから」
その言い方が、優しくて、少しだけ寂しかった。
「……天道さん」
「うん」
「天道さんも、シルフィのこと好きなんですよね」
「うん。好きよ」
迷いなく言い切った。
「でもね。好きだから、正解を押しつけたくない」
玲奈は手を離して、一歩下がった。
「行ってらっしゃい。……白森さんに、"逃げるな"って言ってあげて」
僕は頷いた。
頷いてから、気づいた。
目が、少しだけ赤い。
泣いてはいない。でも、泣く手前の、ぎりぎりの目。
昨日のシルフィと、同じ目だった。
***
午後の授業を早退した。
担任には「体調不良」と言った。嘘だ。体調は悪くない。心臓がうるさいだけだ。
シルフィの家は、学校から電車で二駅。古いアパートの二階。
前に一度だけ、忘れ物を届けに来たことがある。
階段を上がると、ドアの前に着いた。
表札はない。代わりに、小さなドライフラワーが吊るしてある。シルフィが「結界だ」と言い張っていたやつだ。
僕はインターホンを押した。
反応がない。
もう一度押す。
沈黙。
三度目。
ドアの向こうから、くぐもった声がした。
「……誰だ」
「僕」
短い沈黙。
「……帰れ」
「帰らない」
「帰れと言っている」
「聞こえてる。帰らない」
また沈黙。
長い。一分くらい。
ドアの鍵が、かちゃりと開いた。
ドアは開かない。鍵だけが開いた。
つまり、「入っていい」とは言わないけど、「入るな」とも言わない。
シルフィらしい。
僕はドアを開けた。
玄関は暗かった。靴が一足だけ、きちんと揃えてある。
奥のリビングに、シルフィがいた。
ソファの上で膝を抱えている。パジャマのまま。髪は下ろしていて、ピン留めもブレスレットもつけていない。
僕を見て、顔をそむけた。
「……来るなと言った」
「言ってない。帰れとは言ったけど、来るなとは言ってない」
「屁理屈だ」
「お前に言われたくない」
僕は靴を脱いで、リビングに入った。
シルフィの目が赤い。
泣いた跡がある。
僕の胸が、ぎゅっと痛んだ。
「……シルフィ」
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしている。貴様の顔を見れば分かる」
シルフィは膝を抱えたまま、僕を睨んだ。
睨んでいるのに、目が潤んでいる。
「……私は、最低だ」
「何が」
「玲奈様に"好きだ"と言った。あの方の前で、貴様の名前を出した」
シルフィの声が震える。
「好きな人の前で、別の人間のことを考えた。……それは、裏切りだ」
「裏切りじゃない」
「裏切りだ!」
シルフィが声を上げた。
膝を抱える手が、白くなるほど力が入っている。
「私は、玲奈様を愛でたいのだ。あの方の笑顔を守りたいのだ。なのに、貴様のことを考えると胸が痛い。それは……それは、おかしいだろう」
「おかしくないよ」
「おかしい! 好きは一つでなければ……!」
「誰が決めたんだよ、そんなこと」
僕の声が、思ったより大きく出た。
シルフィが目を見開く。
僕は一歩近づいて、ソファの前にしゃがんだ。
シルフィの目線と同じ高さになる。
「好きの形が違うだけかもしれない。……天道さんが、そう言ったんだろ」
「……なぜ、それを」
「天道さんから聞いた」
シルフィの顔が歪んだ。
「……あの方は、何でも見透かす」
「見透かしてるんじゃない。見てるんだよ。お前のこと」
シルフィの唇が震えた。
「……ハルト」
「ん」
「私は……どうすればいい」
その声は、命令でも、強がりでもなかった。
ただの、迷子の声だった。
僕は手を伸ばした。
シルフィの頭に、そっと触れた。
銀髪が指の間を滑る。柔らかくて、冷たい。
シルフィの身体が、びくりと震えた。
「……触るな」
「嫌か?」
「……嫌では、ない」
シルフィは膝に顔を埋めた。
声だけが、くぐもって聞こえる。
「……怖い」
「何が」
「答えを出すのが。……出したら、誰かを傷つける」
僕の手が止まった。
シルフィは続ける。
「玲奈様を選べば、貴様が傷つく。貴様を選べば、玲奈様を裏切る。どちらも選ばなければ、私が壊れる」
三つの選択肢。全部、痛い。
僕は、シルフィの頭から手を離さなかった。
「……選ばなくていい」
「……え」
「今は、選ばなくていい」
僕はできるだけ、静かに言った。
「玲奈様が好きなのも、僕のことが分からないのも、全部本当だろ。なら、嘘をつくな。それだけでいい」
シルフィが顔を上げた。
涙の跡が、頬に光っている。
「……貴様は、それで……いいのか」
「いいよ」
「……苦しくないのか」
「苦しいよ。めちゃくちゃ苦しい」
正直に言った。
シルフィの目が、大きく揺れた。
「でも、お前が嘘ついて笑ってる方が、もっと苦しい」
シルフィの呼吸が止まった。
そして、堰を切ったように、涙が落ちた。
声を上げずに、ただ、ぽろぽろと。
僕は何も言わず、シルフィの頭を撫で続けた。
しばらくして、シルフィが小さく言った。
「……ハルト」
「ん」
「……ありがとう」
昨日まで練習しても言えなかった言葉が、泣きながら、こぼれ落ちた。
僕の目頭が、じわりと熱くなった。
***
シルフィが泣き止むまで、三十分くらいかかった。
僕はキッチンで湯を沸かして、紅茶を淹れた。シルフィの棚にあった、玲奈様からもらったらしい茶葉で。
カップを差し出すと、シルフィは両手で受け取った。
目は赤いけど、さっきより顔色がいい。
「……貴様、勝手に人の家の茶葉を使うな」
「緊急だったから」
「……ふん」
シルフィは紅茶を一口飲んで、少しだけ目を細めた。
「……玲奈様の茶葉は、やはり美味い」
「そうだな」
僕はシルフィの向かいに座って、自分のカップを傾けた。
沈黙が流れる。
でも、さっきまでの重い沈黙じゃない。少しだけ、風通しがいい。
「……ハルト」
「ん」
「明日は、学校に行く」
「うん」
「玲奈様に、会う」
「うん」
「……貴様にも、ちゃんと言う」
僕の心臓が、静かに跳ねた。
「何を」
「……明日、言う」
また明日だ。
でも、今日の"明日"は、逃げるための明日じゃない。
泣いた後の、覚悟の明日だ。
「……分かった。待ってる」
「待て。絶対に」
「待つよ」
シルフィは紅茶のカップを両手で包んだまま、小さく笑った。
泣いた後の、ふにゃっとした笑顔。
僕はその顔を見て、思った。
この笑顔を守りたい。
でも、守るだけじゃ足りない。
隣にいたい。
それが僕の答えだと、もう分かっていた。
***
帰り道。
アパートの階段を下りて、振り返ると、二階の窓からシルフィが顔を出していた。
「……ハルト」
「なに」
「……気をつけて帰れ」
それだけ言って、窓が閉まる。
カーテンの隙間から、銀髪がちらりと見えた。
僕は笑って、手を振った。
見えているか分からない。でも、振らずにはいられなかった。
駅までの道を歩きながら、スマホを開いた。
玲奈に、一言だけ送る。
『会ってきました。泣いてました。でも、明日は来ます』
返信は、すぐに届いた。
『ありがとう。……鈴木くん、泣かなかった?』
僕は少し迷って、正直に打った。
『ぎりぎりでした』
玲奈の返信。
『ふふ。やっぱり、優しいね』
そして、もう一通。
『明日、三人で話そう。逃げないで』
逃げない。
僕は画面を閉じて、空を見上げた。
曇り空の隙間から、星が一つだけ見えた。
明日が来る。
今度こそ、本当の明日が。




