第25話 幻襲(前編)
一行は、ついに海へと辿り着いた。
打ち寄せる波は、等間隔のリズムで岸を叩き、見慣れたようでいてどこか異なる――けれど確かに、ヒナタの記憶にある“海”の姿とよく似ていた。
だが、足元に広がる砂浜には違和感があった。
白く輝く砂ではない。そこに広がっていたのは、淡いベージュ色の土のような砂。
まるで運動場の砂のような、ざらりと乾いた手触り。それが延々と波打ち際まで続いていた。
「海だねー! 初めて見たけど、大きいし、すっごく綺麗!」
リーネが目を輝かせて海辺を駆け出す。
その素直な反応にヒナタも頷きかけるが、ふと眉をひそめた。
……でも、海の美しさって、白い砂浜と青い海のコントラストにあったんじゃなかったか?
この景色は――茶色い地面と濃い水の組み合わせ。
どこか“沼”のような、閉ざされた印象すら受ける。
(そういえば……砂浜が白いのって、確か珊瑚の死骸が砕けたものが原因だったはずだよな。ってことは、この海には珊瑚礁がないってことか)
考えながら、ヒナタはみんなを集めた。
「とりあえず、目的地には着いたな。今日はここで野宿して、明日、超越者血統のスキル持ちに会いに行こう」
その提案に、仲間たちは異論なく頷き、それぞれの役割をこなすために動き出した。
リーネは雨風をしのげる場所を探しながら、水源の確保へと向かう。
クロノの水筒を補充するのだ。
一方、そのクロノは、早々に地を駆け、獲物の気配を追ってどこかへと消えていった。
ガルドは、淡々と海辺を巡回しながら周囲の魔物や魔獣の気配を警戒する。
キュルッチはというと、蜜の出る木がこの辺りにはなかったようで、ガルドと一緒に周囲の見張りを担っていた。
もっとも、数日何も食べなくても平気なキュルッチにとって、空腹は大した問題ではなかった。
それぞれが自然と自分の仕事を理解し、役割を果たしている。
ヒナタはその様子を見つめながら、思わず胸の奥が温かくなるのを感じていた。
そして、夜が明けた。
海辺での野営を経て、一行はまだ薄明かりの残る早朝に、静かに行動を開始するのだった。
『海沿いに進んだ先に、大きな街が見えるはずです。対象者は、そこにいると推測されます』
エイドの指示に従い、ヒナタたちは潮風を受けながら浜辺を歩いていた。
だが、その静かな旅路は、突如として破られた。
――ザバァッ。
波間から現れたのは、全長五メートルはあろうかという異形の魔物だった。
その身体は、色とりどりの海藻で構成されていた。緑、赤、青、紫……無数の海藻がうねるように絡み合い、全体として不気味な球体を成している。潮の香りとはまた異なる、ぬめりを帯びた腐臭があたりに漂った。
無数の触手のように蠢く海藻が、ぬらぬらとこちらへ迫る。
「ひっ……!」
リーネが反射的に短い悲鳴を上げる。あまりにも異質でグロテスクな姿に、本能が警鐘を鳴らした。
最初に動いたのは、やはりクロノだった。
悪路も気にせず砂を蹴り、一直線に敵へと飛びかかる。跳躍の勢いそのままに、スキル《牙撃》を発動――鋭い牙が、海藻の束に喰らいついた。
ブチィ!
無数の海藻を引き裂く音。しかし、それはただの“装甲”でしかなかったらしい。
深部にある核を捉えるには至らず、魔物はほとんど怯むことなく反撃の構えを取る。
「チッ……」
歯を食いしばるクロノ。その眼は、次の動きを見極めていた。
そこへ、のっしのっしと巨体を揺らしてキュルッチが突撃する。
ツノを突き出し、一直線に突貫。
だが――その攻撃は、あまりにも直線的すぎた。
魔物は数本の海藻をうねらせ、そのツノに絡みつかせる。
「なっ……!」
瞬く間に、キュルッチの体全体が海藻で縛り上げられ、がんじがらめにされる。
そしてそのまま、巨大な魔物はキュルッチを振り上げ、海の彼方へ――
――ブンッ!
軽々と放り投げた。
空を舞う甲虫の巨体は、くるくると回転しながら沖の方へと飛んでいってしまった。
「キュルッチ!!」
叫ぶリーネ。ヒナタも反射的に叫びそうになるが、声を飲み込む。
――これは、まずい。
浜辺という不安定な足場。海という地の利。敵のサイズと構造。
どれも、味方にとって圧倒的に不利な条件だった。
「こいつ……強いな! みんな、油断するな!」
ヒナタの鋭い声が、浜辺に緊張を走らせる。
その言葉に無言で頷き、次に前へ出たのは――ガルドだった。
巨体を揺らしながら進み出た岩の戦士に対し、海藻の魔物はざわりと蠢く。
数百本はあるであろう触手のような海藻が、一斉にガルドを包み込もうと襲いかかる。
だが、ガルドは揺るがない。
両足を深く砂に沈め、両の腕を構える。
絡みついてきた海藻を掴んでは引き千切り、また掴んでは引き裂く――それを淡々と、確実に繰り返していく。
圧倒的な腕力。揺るがぬ意志。
まるで波に立ち向かう岸壁のように、ガルドは一歩も引かない。
一方その頃――空を舞って海へと飛ばされたキュルッチは、羽を羽ばたかせながら空中で姿勢を立て直していた。
彼の羽は、空を飛ぶには不十分なものの、高く放り投げられた勢いと滑空によって、ゆるやかに波打ち際へと帰還してきた。
「……ふぅ、危なかったっち」
羽を丁寧に畳みながら、キュルッチは砂浜に爪を立てる。
そして、ガルドに向かって叫んだ。
「ガルド! がんばれっちー!!」
その声援を受けるように、ガルドは最後の一束を――渾身の力で引きちぎった。
ブチンッ、と響く音とともに、魔物の身体を覆っていた海藻の鎧が一斉に崩れ落ちる。
その内側から姿を現した。
その異様な姿に、ヒナタたちは思わず言葉を失った。
「……あれは……」
――そこには、何も、なかった。
肉も骨もない。
内臓も、血も、皮膚すら存在しない。
空洞。
ただの、暗く深い空洞がそこにあった。
いや、“そこにある”はずなのに、脳がそれを認識できない。
見る者によって“深さ”が違って見える。
ある者には底なしの井戸に、ある者には仄かに揺れる水面のように。
そして、風が吹き込んだわけでもないのに、空洞の奥から“囁き”が聞こえてくる。
――だれ……?
――あなたは……わたし?
その声は、自分自身のものだと気づいた時、ヒナタは冷たい汗を背に感じた。
空洞の中には水が満ちている。だがその水は普通の液体ではない。
まるで“記憶”そのものが液状になり、満たされているかのような――見たくない過去や、心の奥底に沈めた情景が、ぼんやりと映り込む。
クロノが、一歩引いた。
「……ヒナタ、これ……見ちゃダメなやつだ……!」
だが視線を逸らすことができない。まるで、空洞そのものに意志があり、こちらを“観察している”ようだった。
海藻という皮を纏い、思念を喰らう、形なき捕食者。
「見るな」と言われるほど、心は覗いてしまう。
そして覗いたものは、もう二度と――忘れることができなくなる。
ヒナタは、半ば半狂乱になった。
その結果、浮遊することもできなくなり、制御不能のまま意識もまどろみ、ただ重力に引かれるように地面へと落ちていく。
けれど、その地面は彼を支えなかった。
足場であるはずの砂は、まるで存在そのものを拒絶するかのように手応えを失い、ヒナタの霊体は“すり抜ける”というよりも、“呑み込まれる”ようにして沈んでいった。
物理干渉能力――それすら、作動しない。
この世界の法則から断絶されたヒナタの幽体は、虚無のような大地の下へと、音もなく、深く、深く沈み込んでいった。
「「ヒナターーー!!」」
リーネとクロノの絶叫が重なる。
だが、その声は届かない。
砂塵が舞い、波音にかき消され、ヒナタの姿は完全に――消えた。
その頃、戦闘の前線では、ガルドの様子にも異変が現れていた。
先ほどまで果敢に海藻を引きちぎっていた巨躯が、ぴたりと動きを止めていた。
虚ろな瞳。
硬質な体に走る微細な震え。
まるで、内側から崩れていくような“揺らぎ”が、ガルドを包んでいた。
――なぜ、そこに立っている?
――何のために守る?
――守る価値など、本当にあったのか?
問いが、内側から響く。
誰の声でもない、だが確かに“知っている”声。
その声は、ひたすらに静かで――だが凶悪だった。
かつての記憶の底にある不確かな疑念をかき混ぜ、抉り出し、塩を塗りこむように囁く。
――思い出せないなら、それでいい。
――もう、終わりにしよう。
――お前はただの石に戻るべきだ。
ガルドの動きが、止まった。
次第にその巨体は傾ぎ、膝をつき、背を丸めていく。
今にもそのまま崩れ、ただの岩石へと還ってしまいそうな雰囲気だった。
「ガルド! 何やってるっち! しっかりするっちーー!!」
キュルッチの声が鋭く響く。
そして次の瞬間――
彼の巨体が、キュルッチの体当たりによって大きくぐらついた。
青い甲虫の小さな体が、真っ向からガルドの胸元にぶつかる。
重さではなく、意志の力が、その一撃に宿っていた。
どさっ。
ガルドが倒れる。
その拍子に、黒い空洞への視線が逸れた。
そして――ようやく、正気が戻った。
ガルドの石の眼に、再び光が宿る。
視線を迷いなく前に戻し、立ち上がる。
その背に宿った“迷い”が、かすかに剥がれ落ちたようだった。
距離が近かったがゆえに、真っ先に精神侵食を受けたガルド。
それに比べ、他の仲間たちは空洞からの距離があったことで、なんとか視線を逸らす余地があった。
だが、ヒナタは違った。
彼は、誰よりも深く、囁きの中心へと堕ちてしまったのだ――。
「みんな、一度ここに集まろう!」
リーネの声が鋭く響くと、ガルドとキュルッチが徐々に前線を離れ、彼女のもとへと後退してくる。
黒い空洞は、追ってこなかった。
不気味なほど静かに、ただそこに“在る”だけ。
まるで、自ら動くことなく獲物を待つ深海の罠のように。
「ヒナタが……落ちてっちゃった……どうしよう……」
クロノが不安げに尻尾を垂らし、目を伏せる。
その小さな声に、リーネは落ち着いた声で応えた。
「大丈夫。ヒナタは、必ず戻ってくるよ。……だから、今は私たちが動く番」
そう言いながら、リーネは慎重に黒い球体のほうへと視線を送る――だが、それも一瞬だけだった。
視界に映るだけで、心がざわつく。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
理屈ではない“恐怖”が、じわじわと這い寄ってくるのがわかった。
「……なるべく、あれを直視しないようにしよう」
「でも、どうやって倒すっち? おらっち、体当たりしてみるっち?」
キュルッチが、首をかしげながらも前脚を踏み鳴らして見せる。
けれど、その声にもどこか迷いがあった。
――これまでの敵は、すべて“殴れば”倒せた。
しかしこの黒い空洞は違う。
見つめた者の心を侵す上に、実体が無いようにも見える。
物理攻撃が通用する相手とは、とても思えなかった。
ヒナタがいたなら、何かしらの分析をして、対策を提示してくれただろう。
だが、今は彼がいない。
その事実だけで、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚が湧き上がる。
リーネはぐっと拳を握ると、目を伏せたまま言った。
「見つめられない相手には、正面から攻撃を仕掛けるのは無理……だったら、視界に入れずに試すしかない」
リーネは手を伸ばし、足元の砂をすくった。
「とりあえず……砂を投げてみよう。こっちの攻撃が通じるか、確かめないと」
幸いにも、黒い魔物はその場から動こうとしなかった。
――いや、違う……?
“動かない”のではなく、“動けない”のかも。
この時魔物は、ヒナタに対して仕掛けている強力な精神干渉――その維持に、全神経を集中させていた。もしも体を動かしてしまえば、干渉が一瞬でも解けてしまう。それほどに、ヒナタという存在へ執着していたのだ。
「今しかない……!」
リーネは足元の砂を掴み、視界を逸らしたまま手探りで魔物へ向かって投げつける。
ぱさりと舞い上がった砂粒が、魔物の“皮膚”とも言える空洞の外縁に当たって弾けた。
もちろん、それだけではダメージにはならない。
けれどその瞬間、ほんのわずか――魔物の集中が乱れたのが、リーネにはわかった。
「やるっち!」
すかさずキュルッチも、大きな角を使って勢いよく砂を突き上げる。のっしのっしと歩きながら、視線を向けずに器用に巻き上げた砂が魔物へと降りかかる。
ガルドも無言で動く。巨大な手で地面をかき、抱えた砂をぶん、と投げつけた。
――その積み重ねが、確かに効いた。
魔物の精神干渉が、僅かに、ほんの僅かに緩んだのだ。
そして、次の瞬間――クロノが動いた。
「いくよ……!」
彼は低く唸ると、勢いよく駆けだす――のではなかった。
その場で尻尾を追いかけるようにぐるぐると回転を始めた。
一見すると、ただ遊んでいるようにも見えるその動作。だが速度が増すにつれて、砂浜の空気が震え始める。
砂が舞い上がり、風が巻き、地面がわずかに揺れる。
――時速80キロ。
それは、可愛らしい「遊び」などではなかった。
砂を巻き上げ、突風を生み、やがて竜巻のような渦を形成し始める。
「クロノ……!」
リーネが息を呑んだそのとき、クロノは回転を維持したまま、ゆっくりと、魔物の方へ向かって進み出す。
――それは、守るための咆哮。
仲間を取り戻すための、風の刃だった。
クロノが放った砂塵の竜巻は、唸りを上げながら黒い球体に突撃した。
轟音とともに、巻き上がった砂の奔流が魔物を襲う――。
魔物は、一瞬のうちに十メートルほども後方へと吹き飛ばされていた。
それは逃げたのか、それとも竜巻の勢いに押し流されたのか。いずれにせよ、そこにあった“空洞”の気配が、一時的に遠ざかったのは確かだった。
そのとき――
地中深く、意識の淵に沈んでいたヒナタの感覚が、ふっと浮上する。
(……あれ……?)
ぼんやりとした輪郭を取り戻した“意識”は、すぐに今の状況を理解できなかった。
視界は、完全な闇だった。
(昼間だったはずだよな……まさか、もう夜に?)
混乱する思考のなかで、ヒナタは初めて“空白”の感覚に戸惑う。
この世界に来てから、一度たりとも意識を手放したことなどなかった。
だからこそ、今の状況が“意識を失っていた”のだと気づけない。
(……そうだ。あの魔物。海藻でできた化け物と……)
次第に記憶が戻ってくる。
仲間の姿、リーネの声、クロノの咆哮、キュルッチの叫び。
(みんな……無事なのか? 俺は……死んだのか? ここは、どこだ?)
息を詰めながら、ヒナタは無意識にスキル発動を試みる。
――物理干渉、オン。
……反応はない。
それどころか、自身が“落下している”という異常な感覚が、ようやく身体の奥に染み込んできた。
(……俺、落ちてるのか? それも――地中に?)
衝撃が走った。
遅れて襲ってくる現実に、ヒナタはあわてて意識を上向きに転じ、上昇を試みる。
だが、上がっても、上がっても、地上の光が見えない。
(……どれだけ、落ちたんだ、俺……)
全身を覆う冷たい圧迫感と、空間そのものの“拒絶”にも似た感覚に、ヒナタの思考が凍りつく。
上昇しながら、ヒナタは徐々に呼吸を整え、思考を立て直していった。
冷静さを取り戻した脳裏には、あの黒い魔物の姿が浮かぶ。
(……どうすれば、あれを倒せる?)
対策を考えながら、ヒナタは自嘲気味に苦笑した。
(まさか……この“幽体”にも、弱点があったとはな)
この世界でのヒナタは、物理攻撃の一切を受け付けない。
剣も牙も、炎すらも通じないその特性は、まさに“無敵”のように思えていた。
だが――精神攻撃には、無力だった。
いや、それどころか彼の状態は、“特に脆い”と言ってもいい。
なぜなら――
精神体として存在している彼は、常に“心”をむき出しのまま晒しているようなものだからだ。
本来なら、感覚や情動は肉体というフィルターを通して守られている。
それを失った今のヒナタは、痛みも恐怖も、すべてをダイレクトに浴びてしまう。
だからこそ、意識を失えば、物理干渉も浮遊も解除され――ただ、沈んでいくしかなくなる。
底のない空間に、際限なく。
(……先に戻らないと)
まだ作戦と呼べるものではなかったが、ヒナタは心に一つの方針を定めた。
(まずはリーネの身体に飛び込もう。あれに再びこの状態で接触してしまえば、また意識を持っていかれるかもしれない……)
そう確信するように、上昇を加速する。
霊体のまま、まるで地面を突き破るようにして――
ヒナタは、ようやく地上へと帰還した。
視界が、明るい。
波の音。仲間たちの声。
その全てが、かすかに揺らいだ光のように、ヒナタの心に灯った。
地上では、クロノが回転を止め、静かに黒い球体と対峙していた。
竜巻はすでに収まり、あたりには砂煙がうっすらと漂っている。海風がそれをゆっくりと攫っていく中、誰もが次の一手を測りかねていた。
そのとき――
空間がふっと揺れた。
次の瞬間、ヒナタの霊体が音もなく地中から浮かび上がってくる。
「ヒナタっ!」
真っ先に声をあげたのはリーネだった。驚きと安堵が入り混じったその叫びに、仲間たちもすぐに彼の姿を確認し、ほっと息をつく。
だがヒナタは答える間も惜しむように、一直線にリーネのもとへと滑空する。
ふわりと光が揺れた。
そして、次の瞬間には――ヒナタはリーネの身体に憑依していた。
その声色が、少しだけ低く変わる。
「みんな、ごめん。心配かけた!」
ヒナタの声に、皆が顔を上げる。
リーネの体を借りたその声は、どこか力強く、そして確かに“戻ってきた”ことを告げていた。
(リーネ……急に憑依してごめん)
(ううん……そんなの、いいよ。ほんとに、無事でよかった)
思念の中で交わされた短いやりとり。
互いの温度が確かに伝わるその一瞬で、言葉以上のものが共有された。
ヒナタは静かに、前を見据えた。
そこには――再び動きを取り戻しつつある黒い球体が、不気味な存在感を放っていた。
「……よし。反撃、開始だ」
リーネの声帯を通して響いたその一言が、空気を変える。
戦いの幕が、ふたたび上がる。




