閑話 リーネの憂い
彼と共に歩むようになってから、私はいつしか“生前”の記憶を思い返すことが少なくなっていた。
あのレガルディアの街で、魔物として独りぼっちで彷徨っていた頃には、寂しさを埋めるように、よく人間だった頃の出来事を思い出していたのに。
今は違う。気がつけば、最近の出来事――仲間たちとの日々を思い返しては、自然と頬がゆるむ自分がいる。
それはきっと、彼のおかげだ。
ヒナタ。
私を孤独な世界から連れ出し、名も知らぬ魔物だった私に、役割を、場所を、そして仲間を与えてくれた。
どの子も、少し風変わりだけれど――でも、どこまでも優しくて、温かい。
その彼と同時に仲間となったのは、クロノだった。
鋭い牙と爪を持つ、黒色の猛獣。見た目だけなら、誰もが一目で逃げ出すような存在だけど、内面は全然違う。
仲間を大切にして、誰よりも素直で、ちょっとだけおっちょこちょい。
敵が現れたときの強さは本物で、鋭い一撃で魔獣を沈める姿は、まるで稲妻みたいに速くて力強い。
でも――そのくせ時々、妙に抜けてるところがあって。
ついこの前も、自分の尻尾をくるくると追いかけて、ぐるぐる回っていた。
「……何してるの?」って声をかけたら、真顔でこう言った。
――「竜巻を起こせないかなって、試してたんだ!」
……それは、さすがに難しいと思うよ。
思わず吹き出しそうになりながらも、「じいちゃんにもできたんだよ! だから僕にもきっとできる!」というその言葉に、私は真剣な眼差しで「がんばって」とだけ返した。
低く唸るような声から翻訳されたその言葉は、不思議と愛おしく響いて――私はまた、そっと笑ってしまった。
次は、ゴーレムのガルド。
この名前をつけたのは私だったけれど、気に入ってくれているかどうかは、正直わからない。なにしろ、彼は一度も言葉を発したことがないのだから。
でも、「ガルド」と呼びかけると、ちゃんとこちらを振り向いてくれる。
その仕草ひとつで、彼がその名を受け入れてくれていることが、なんとなく伝わってくるのだ。
あの大きな体から繰り出される攻撃は、見た目に反してとても洗練されていて――ただの力任せではない、迷いのない所作だった。
敵を大きな手で掴んで、そのまま放り投げる。
ガルドの戦い方は、どれもそれだけ。でも、その「それだけ」には、明確な意思と信念があった。
どうして投げるのか、あるとき私は気になって仕方がなくなって、旅の合間に根気強く問いかけてみた。
言葉を持たない彼とは、YESかNOでしかやり取りができない。
だから私は、ひとつずつ、時間をかけて質問を繰り返した。
――殺すのが怖いの?
――傷つけたくないの?
――投げるのは、逃がすため?
そして、ようやく辿り着いた答えは――思ってもいなかったものだった。
ガルドは、「殺したくない」と回答したのだ。
相手が魔物であっても、敵であっても。
それが命ある存在なら、できるだけ傷つけたくないと。
石の体を持つ彼にとって、「命」というものは、たぶん特別で、遠くて、そして――とても尊いものなのだろう。
だからこそ、命を雑に扱ってはいけないと思っているのかもしれない。
思い返せば、私たちが最初に出会ったときのキュルッチとの戦いもそうだった。
ガルドは、ただ彼を持ち上げようとしていただけで、拳を振り下ろすことはなかった。
当時はそれを戦いの一環だと捉えていたけれど……今思えば、きっと本気で「止めよう」としていただけだったのだ。
そのことに気づいたとき、私はそっと彼に伝えた。
――あなたも、ちゃんと“命”を持つ者だよ。
するとガルドは、言葉を発さぬまま、表情のどこかにかすかな微笑みのようなものを浮かべた。
石でできた顔が、ほんの少しだけ柔らかく見えた気がした。
それだけで、十分だった。
そんな彼と今ではすっかり仲良しになった、青い甲虫――キュルッチ。
濃い青の殻に、銀の縦縞がすっと走る精悍な姿。どこか近未来的な雰囲気さえ漂わせるその風貌は、思わず「かっこいい」と口にしたくなる。けれどその見た目に反して、言動や動作はどこまでも無邪気で、つい口元が緩んでしまうほど愛らしい。
本人(本虫?)に「可愛い」と伝えようものなら、「キュルルッ!」と照れ隠しなのか、全力で抗議してくるのもご愛嬌だ。
気まぐれで自由奔放。美味しそうな木を見つけたらすぐに突進していく。けれど、仲間を見捨てるような真似は決してしない――ちゃんと、大事にしてくれているのが分かる。
少し前のこと。
キュルッチが、角の先にちょこんと木の蜜をつけて、のっしのっしと私のところへやってきたのだ。
「これ、なめるっち!」
そう言って差し出されたツノには、黄金色の蜜がとろりと光っていた。
私は、すぐに理解した。――彼なりの“おすそわけ”なのだと。
けれど私は、もう食事が必要のない存在だ。魔物と化した今、口に運んでも味覚というものは全く機能していない。だから、蜜を掬って舐めてみても……やっぱり、何の味もしなかった。
それでも、笑ってお礼を伝えると、キュルッチは本当に嬉しそうに、ツノをふるふると震わせていた。
と――その時、ふと思った。
もしかして、ヒナタに憑依してもらえば……味、分かるんじゃない?
彼が私に宿っているとき、動かなかった心臓は鼓動を取り戻し、血の通わない体に不思議な“ぬくもり”が戻ってくる。それなら、味覚だって一時的にでも蘇るかもしれない。
試してみたい。いや、試さずにはいられなかった。
ヒナタに頼んで、憑依してもらう。
冷たかった私の指先に、じんわりと温かさが戻ってくる。
もちろん、それは物理的な血液の流れではない。けれど、心臓が“動く”ということ。それが全身に“生きている感覚”を与えてくれる。
――まるで、生き返ったみたいだった。
そして再び、キュルッチのツノ先から蜜をもらい、そっと舐める。
その瞬間、舌の奥に広がった――やさしく、まろやかな甘さ。
……ああ、味がする。
それは、驚きと喜びと、懐かしさが入り混じった感動だった。
“食べる”という、当たり前のこと。けれど、長い間忘れていたその行為が、私の胸の奥をあたたかく震わせた。
そしてその感動は、憑依していたヒナタにも伝わっていた。
心の奥に灯った、同じ甘さを――彼も、確かに感じてくれていたのだ。
嬉しかった。言葉にできないくらい、胸がいっぱいになった。
けれど、私は彼にひとつだけ言っておいた。
「食べたり飲んだりは、それくらいにしておいてね。だって……万が一、排泄したくなったら困るでしょ」
私がそう釘を刺すと、ヒナタは気まずそうに沈黙したままだった。
ふふっ。ちょっと意地悪だったかな。でも、恥ずかしいものね。
これまでの出会い――クロノ、ガルド、キュルッチ、そして今の穏やかな日々。
それらすべてを導いてくれたのは、ヒナタだった。
心から、感謝している。
けれど彼はこの世界の人間ではない。
そして今の姿は、もはや人間ですらない。それでも彼の“心”は確かに人間のまま、優しくて、あたたかい。
そんな彼は……この世界では、少し生きづらそうだった。
戦えないからだ。
魔物と魔獣が支配するこの世界では、敵を退ける力を持たなければ、生き残れない。たとえ瘴気への耐性があったとしても――それだけでは、生きるには不十分だった。
もちろん、ヒナタには肉体がない分、攻撃が通らないという“強み”もある。けれどそれは、自分が傷つかないというだけで――誰かを守ることには、つながらない。
彼は、そのことをよく分かっていて……ずっと、気にしていた。
そしてその「守りたい誰か」に、私も含まれていることを、私は知っている。
本当は、伝えたかった。
私は、戦える。憑依なしでも、充分に。
この前なんて、ほんの出来心で木に拳を打ち込んだら――中が空洞だったわけでもないのに、幹を真っ二つにしてしまった。
……すごい音がして、ヒナタにバレないように取り繕うのに必死だったけど。
あの瞬間、自分の強さを実感したと同時に、やっぱり私は“魔物”なんだって――改めて思い知らされた。
ヒナタは、そんな自分の無力さを悔やんでいる。
だけど、それは違う。
私たちがこうして戦えるのは、彼が力を分け与えてくれたからだ。
クロノも、ガルドも、キュルッチも。みんな、ヒナタがいてくれたから、仲間になれた。
それでも彼は、自分の無力を責めてしまう。
だから私は思う。
いつか、彼にも伝えたい。
「あなたのおかげで、私は立っていられるんだ」って。
「あなたは、今のままで十分なんだ」って。
けれど……今はまだ、その言葉を口にする時ではない。
慰めにも似た言葉は、きっと彼に届かない。
本当に伝えたいことは、行動で示さなければならないのだと思う。
――だから私は、強くなる。
もっと、もっと強くなって、彼に見せたい。
“守られる側”じゃなく、“並んで歩く仲間”として。
……旅は、まだ続く。
目的地の海は、もうすぐそこだ。




