第13話 危機
「アレン。聞こえているだろう?」
名を呼ばれた男は、高級そうなソファに腰を下ろし、じっと一点を見つめていた。
顔にはいくつもの古い傷が刻まれ、戦いの歴史を物語る。年齢を感じさせる渋みはあったが、その眼差しにはまだ衰えぬ力強さが宿っていた。
「ああ、聞こえてる」
アレンは短く答えると、手にしたティーカップを口元へ運ぶ。
白い湯気が立ち上る中、静かに一口を含み、軽く息をついた。
「何から手をつけるべきか、考えていたんだ」
アレンの向かいに座る男もまた、同じようにソファに腰掛けていた。無精髭をたくわえたその男は、静かにしていながらも自然とリーダーの風格を漂わせている。年齢もアレンと同じくらいに見えた。
「傭兵ギルドとして、まず手をつけるべきは……魔獣討伐だろう?」
当然のことだ、と言わんばかりの口調に、アレンは鋭い視線を向ける。
「だがな、グラーデン」
低く押し殺した声で言い放つ。
「俺たち傭兵ギルドの戦力が束になったところで――あのフェングレイの群れに勝てるはずがない」
グラーデンと呼ばれた男も、視線を伏せたまま、ようやくカップに手を伸ばした。
湯気の立つ液体を一口含み、無言のまま思案を深める。
彼ら二人の頭を悩ませているのは、カルネア王国近郊の森に突如として現れ、急速に勢力を拡大しつつある魔獣――フェングレイと呼ばれる群れだ。
その数、およそ二十。今や森の生態系を脅かす存在となっていた。
もともとこの森の頂点に君臨していたのは、熊に似た強大な魔獣ブラッドベアだった。
しかしその数は多くはなく、慎重に縄張りを守る性質だった。
そんな中、突然現れたフェングレイの群れが、ブラッドベアを凌ぐ圧倒的な力をもって森を支配し始めたのだ。
「これまで、フェングレイ相手に遅れを取った探索班なんていなかった。あんな、ただ少し凶暴になっただけの犬もどき――俺たちの敵じゃなかったはずだ」
アレンの言葉通り、フェングレイという魔獣は本来、下位の存在に過ぎない。
たとえ群れを成しても、日頃から危険な地を踏み、鍛え抜かれた探索班にとっては、脅威とは程遠い相手だった。
だが、ある日を境に状況は一変する。
森で資源採取を行っていた作業隊と、それを護衛していた魔域掃討チームの一行が、フェングレイの群れに襲われたのだ。
護衛についていたはずの魔域掃討チームの隊員たちは――瞬く間に、全員が地に伏した。
戦闘可能な者たちは、あっけなく全滅。
その光景を目の当たりにした作業隊の者たちは、恐怖に駆られ、必死に森を逃げ出した。
カルネア王国に戻り、その報告を受けたとき――アレンは、耳を疑った。
あの森なら、たとえブラッドベアが三体同時に現れたとしても、彼らの力なら問題ないはずだった。
それほどに強かったはずなのだ。
すぐに、別の部隊が編成された。
傭兵ギルドの中でも腕利きの者たちを集め、四人一組のパーティを組ませて、森の様子を確認に向かわせたのだ。
――だが、戻ってきたのは、たった一人だった。
その森は、食用植物や動物の肉、木材といった、生活に不可欠な資源の供給源だった。
そこからの供給が断たれた今、この地下都市で人類が生き延びる道は、日に日に細くなっていく。
事態は、極めて深刻だった。
「……そういえば、アレン」
グラーデンが、ふと口を開く。
「例の“ゴースト”の件だが。あれ、見つかったのか?」
「いや、見つかっちゃいねぇ」
アレンは重い声で答え、カップを置いた。
「というか……そもそもそんなもんが本当に存在してるのか。ギルドの連中の大半は、信じちゃいねぇってのが現状だ」
この森での騒動が起こる前――
一人の探索班員が、信じがたい報告を持ち帰った。
「人間が……魔物に変わった」
「その者は、地上の瘴気に耐えられる身体を得て、探索に出たのだ」
荒唐無稽な話だった。
多くの者は眉をひそめ、まともに取り合おうとはしなかった。
だが、念のため国王にこの報告を上げたところ、王はただちに命を下した。
「その者を探し出せ」
この国の王は、市民を第一に考える良き王だった。
限りある資源の中で、国民すべてを救いきれぬ現状に、日々胸を痛めていた。
そんな折――
地上に出て、瘴気の中を探索できる存在が現れたという話が舞い込んだ。
王がその者の捜索を命じたのは、至極当然のことであった。
その王の命令に従い、献身的に動いてきたのが傭兵ギルドマスターのアレンだ。
だが、ここにきてフェングレイの事件が勃発する。
そもそも存在するかどうかも怪しい“ゴースト”の捜索任務だけでも、日常業務を圧迫し、負担は限界に近かった。
そして今、資源採取にまで支障が出始めたことで、ついに商業ギルドも動き出す。
商業ギルドマスターのグラーデンとアレンは、互いの立場を超えて話し合いの場を設けることとなった――それが、今この場である。
もっとも、普段からプライベートでも親交の深い二人だ。
形式ばった会議の場ではなく、こうして紅茶を片手に腰を落ち着け、ざっくばらんに語り合える席を選んだのは、自然な流れだった。
堅苦しさを抜きにすれば、互いに弱音も吐きやすい。
今、必要だったのは――そういう“場”だった。
「……話を戻すが、猛獣の群れの件については、こうなった以上ユニオンに頼むしかないかもしれん。情けない話だがな」
アレンが口にした“ユニオン”とは、『深域調査ユニオン』のことだ。
地上の未踏領域を切り拓く精鋭たちであり、同時に国王直属の側近部隊でもある。
その肩書きが、彼らの実力の高さを物語っていた。
補足するなら、傭兵ギルドに所属する浄界特務チームは、ユニオンが開拓したルートを基盤に活動する“後方処理部隊”という位置付けだ。
つまり、最前線は常にユニオンの領域だった。
グラーデンは渋い顔をし、唸るように言葉を吐く。
「だが、あの女……イゼルが、素直に力を貸してくれるかどうか……」
イゼル・ファルシオン。
ユニオンの最高責任者――その名を口にした瞬間、場の空気がわずかに重くなる。
「……そうだな」
アレンも肩を落とし、苦笑めいた表情を浮かべた。
「正直、こっちから頭を下げに行くってのも、気が進まねぇ」
二人の話し合いは、結局、平行線のままだった。
最初からこうなることは分かっていたのかもしれない。
だからこそ、あえて正式な会議の場ではなく、こうして私的な場を選んだのだ。
もし公式の場であれば、何かしらの結論を出さなければならなくなる――それは今の二人には、あまりに酷だった。
「そうだ、アレン」
ふと思い出したように、グラーデンが口を開く。
「例のゴースト誕生の瞬間に立ち会ったという青年――彼に会わせてもらえないか?」
その言葉に、アレンはわずかに肩をすくめ、口の端を小さく釣り上げた。
「……ザイルのことか。だがな、話したところで何か変わるとは思えねぇぞ」
「構わん。直接話を聞きたい。……今は、どんな小さな手がかりでも拾っておきたいんだ」
アレンはため息をひとつ落とし、ゆっくりと立ち上がった。
外套を肩に掛けると、振り返りざまにグラーデンに一瞥を向ける。
「……わかった。案内してやる」
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ヒナタは――戻ってきていた。
ザイルと出会い、そして自ら“魔物になる”と決意した、あの地下都市――カルネア王国へ。
ただ、正確にはまだ王国の中に入れていなかった。
ステータス画面に宿るエイドが作成した、精密な地図を頼りにここまでたどり着いたのはいい。
だが、地下にあるはずの王国への“入り口”が、どこにあるのか分からなかったのだ。
「この下に王国があるはずなんだけど……どうやって入ればいいのか、分からないんだよ」
困ったように眉を寄せるヒナタに、リーネが首をかしげる。
「ねえ、地下の都市から出てきたときは、どうやったの?」
「出るときは幽霊だったからさ。壁も地面も、全部すり抜けられたんだよ」
ヒナタは苦笑するように肩をすくめた。
「王国に入ったときは……あのときは人間だった。気絶してて、ザイルってやつに運ばれて中に入れられたんだ。だから……自分じゃ、どうやって入ったのか覚えてないんだよな……」
ヒナタは、リーネに憑依することでようやく“肉体”を得ることができた。
これで堂々と人里へ足を踏み入れることができる――そう意気込んでいた。
もちろん、百年以上も孤独に生きてきたリーネ自身も、「人と会える」ということに心から賛成していた。
だが、リーネに憑依するということは、“幽霊のまま”のように地面をすり抜け、地下都市に入ることはできないということでもあった。
ヒナタとリーネは、頭を抱えながら入り口を探していた。
そんな二人の傍で、クロノはしっぽをふりふりと振り、小さく跳ね回っている。
その無邪気さに、ヒナタとリーネは顔を見合わせ、力なく笑った。
「……うーん、仕方ないな。いったん周囲を――」
そのときだった。
「――あれは……?」
低く響く声が、風に乗って届いた。
振り向くと、いくつかの影がこちらを見据えている。
鋭い眼光、整った装備。
その気配に、ヒナタは直感する。
――あれは“普通の人間”じゃない。
じわり、と気配が近づいてくる。
ヒナタの背筋に、冷たい震えが走った。
「……地上探索班、か?」
視線の先には、数人の隊員たちが立っていた。
そのうちの一人が迷わず武器を構える。
「待て、あれは……魔獣か? いや、人型……?」
「魔物……でも違う……?」
混乱と警戒が入り混じる声が飛び交う。
「クロノ、こっち!」
ヒナタが小声で呼ぶと、クロノは耳をピンと立て、素早く駆け寄ってくる。
そしてヒナタの元で、しゅっとお座りした。
――この光景。
“人型の魔物”と“人語を理解する魔獣”が並んでいるという異様な構図に、隊員たちの顔に動揺が走った。
だが、彼らの視界にはまだヒナタの“幽霊”としての存在は映っていない。
「……見たか。あの魔獣、命令に従ったように見える」
「……知性持ちか……いや、指揮系統……?」
低い声で囁き合う隊員たち。
ヒナタの心臓が速く打つ。
(まずい……このままじゃ、誤解される!)
焦りが込み上げる。
(俺は“この世界には存在しない幽霊”として、完全に異端視される……!)
決断が脳裏を駆け抜けた。
「リーネ……頼む、今から憑依する!」
「う、うん……! いいよ……!」
リーネの頷きとともに、ヒナタはその身を滑り込ませた。
リーネが少しだけ目を閉じた。
ヒナタはそっとリーネの肩に手を置き、意識を集中する。
――《双魂共鳴》発動。
霊が溶け込むように、ヒナタはリーネの中に入り込んだ。
視界が揺れる。重力の感覚、息の感覚。“実体”にヒナタの心臓が高鳴った。
「――っ!」
リーネの体が一度、ぴくりと震える。
「クロノ、お座り、そのまま。……いい子だ」
ヒナタはリーネの声を使って指示した。
クロノは再びピシッと座り、尻尾を軽く振った。
「……喋ったぞ」
隊員の一人が声を上げる。
「……人間の言葉だ」
「魔物……じゃない?」
小さくざわめきが走る。
「……生き残りか……?」
隊長格らしき男が前に出た。
「そこの者。お前、人か? 魔物か?」
ヒナタはリーネの体を少し前に出し、深呼吸し――にこっと、微笑んだ。
「人間です。助けてください。道に迷ってしまいました」
一瞬、沈黙。
隊員たちは互いに視線を交わす。
やがて、大隊長が頷く。
「……保護対象とする。拘束して連行する。抵抗しないな?」
「はい、従います」
ヒナタは素直に頷いた。
クロノはその足元で、耳を伏せてじっと大人しくしていた。
(……なんとか、暴力沙汰にはならずに済んだ……!)
リーネの周りをニ名の隊員が挟み込み、クロノには首輪のような装置がはめられた。
「連れていけ」
隊員たちが護衛の輪を組む。
そして、地下都市“カルネア王国”の入り口――隠された転移魔法陣が姿を現した。
(……地下に入れる。ザイルに……会えるかもしれない)
ヒナタの胸に、かすかな希望の火が灯った。
だが同時に――
この“未知の存在”を、王国はどう受け止めるのか。
その未来を想像し、ヒナタは無意識に肩を強張らせるのだった。




