44話 作戦
じっとりとした夏の風が吹く、ヘンリクソン侯爵邸の裏庭にて。
「っく……あはははははは!」
拘束された状態だというのに目の前の女が笑いだしたため、男はぎょっとした。
「お、おい、貴様! 気がおかしくなったのか!?」
「あはは……ごめん、もう無理! おかしいし、気持ち悪いし、降参だよ!」
女はヒイヒイ笑いながら、右手を自分の胸元に突っ込んだ。
紫色のドレスの胸元がぐいっと開かれたため、男たちがそこを凝視する中――女が何かを掴んで、引き抜いた。
そしてぽーんと宙に放ったのは、ふわふわとした小さな詰め物二つ。
ついさっきまで自分の胸元に入れていた詰め物を放り出した「彼女」はにやりと笑うと、唖然としたために緩んだ男の手からするりと逃れた。
「あっ、このっ!?」
「さっきから思ってたけど、ほんっとうに気持ち悪いんだよ!」
「彼女」がケッと文句を言うと同時に、それまでは力なく伏せていたヒルダも「せいっ!」と気合いの声を上げて、自分を押さえつける男の手首を捻った。
「うぐゎっ!? こ、この女――」
「ほら、ヒルダからも離れなよ!」
「ぎゃっ!?」
「彼女」は履いていたヒールを脱ぐと、手首を捻られて痛がる男の首の後ろに、踵の部分を容赦なく叩き込んだ。
戦闘の心得があるわけでもない小柄な人間による一撃だが、隙を作るには十分だった。
「彼女」がヒルダを引っ張り上げて壁際まで退避する時間は余裕にあったし、その直後中庭に複数の足音が近づいてきた。
「リオン様、ヒルダ殿、無事ですか!?」
「私は大丈夫です!」
「僕も大丈夫だけど、もうちょっと早く来てほしかったです」
ヒルダがしっかりと、「彼女」が小生意気に言うのを聞き、駆けつけてきた男――帯剣したルーカスは苦笑して、自分の背後にいたヘンリクソン侯爵家の兵士たちに命じた。
「ヘンリクソン侯爵の甥であるルーカス・カンプラードの名におき、この者たちの捕縛を命じる! 侯爵家の敷地内、しかも伯母上の主催する夜会の最中に狼藉を働こうとした者たちを、許してはならぬ!」
「はっ、ルーカス様!」
当主の甥である子爵家子息の命令を受け、武装した兵士たちが一斉に駆け出した。
男たちは慌てて抵抗しようとしたが、城下町の不良程度の彼らが、軽鎧を身につけて槍も手にしている兵士たちに敵うはずもない。
あっという間に男たちが取り抑えられ、縄で縛られている傍らで、ルーカスが紫ドレスを着た「女」に声を掛ける。
「ご立派でしたよ、リオン様」
「そうですよ。リオン様がこうして身代わりを提案なさらなかったら……もしかすると、アーシェ様が連中の手に――」
「それくらいなら喜んで囮になるさ」
即答した後、「彼女」――リオンは、自分をニコニコと見つめるヒルダとニヤニヤと見つめるルーカスに気づいて、はっとした。
「い、いや、別に、深い意味はない! 姉上は鈍くさいし機転が利かないから、僕がしっかりしないといけないだけだ!」
「分かっておりますよ」
「ったく。それに、ヒルダも悪かった。押さえつけられただろう。怪我はしていないか?」
「いえ、私も覚悟の上で作戦に参加しましたので、お気になさらず。連中が刃物を持っていないことは分かっておりましたし、念のため防護用の服も身につけておりましたし」
「そうだとしても、無理をしてはいけません。医師も待機させていますので、この場は皆に任せてすぐに治療しましょう」
そう言ったルーカスは一言断ってから、ヒルダを抱えた。
ヒルダは「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」と丁寧な態度で言っているが、特に動揺した様子はない。ルーカスはまだ若すぎて、ヒルダの恋愛守備範囲には入っていないようである。
「そういえば……リオン様は会場の出入り口付近で、アーシェ様と入れ替わったとのことですね」
「はい。ヒルダからそのように連絡が入ったので」
「……ということは、アーシェ様は会場にいらっしゃる時点で既に、ベルンハルドが偽物であると気づいていたのですよね?」
ヒルダを抱えて歩きながら、ルーカスは首を捻っている。
「いくら……最初から伯母上たちの協力を得ているとはいえ、今宵は仮面舞踏会ですし、一瞬のことでベルンハルドが本物か偽物かを見抜くのは難しそうなのですけれど、なぜアーシェ様は分かったのでしょうか?」
「……姉上のことだから、『愛の力よ』とか言いそうなのが怖いです……」
リオンはため息をつくが、ルーカスの腕の中でヒルダがくすくす笑った。
「ふふ、それなら私が聞いております」
「えっ、姉上は何と?」
「……お嬢様曰く、『偽物には花がない』そうなのですよ」
何かを含んでいるかのように、ヒルダは朗らかに笑って言ったのだった。




