42話 罠
玄関前で少しルーカス様と立ち話してから、私たちは侯爵邸に足を踏み入れた。
同じ貴族の屋敷でも、ヘンリクソン侯爵邸はエストホルム伯爵邸よりも開放的で、明るい感じがした。
仮面舞踏会用なのか、廊下にある甲冑なども仮面を着けられていて、おどろおどろしいようなわくわくするような感じがする。
「っと……いますよ、あそこ」
少し前を歩いていたルーカス様に言われて、私は背筋を伸ばした。
何が「いる」のかはすぐに分かったのでヒルダとも目配せをして、彼女から受け取った黒い扇を広げて顔を隠すようにする。
私たちの目線の先、会場の入り口付近に、男性貴族たちが集まって立ち話をしている。
それだけならよくある光景だから、会釈をして前を素通りすればいいけれど……その中に、エストホルム伯爵とベルン様の馬鹿兄の姿があった。一応申し訳程度に小さな仮面は着けているけれど、すぐに分かる。
今日の馬鹿兄は、一人だけだ。髪の色は三兄弟でそっくりだから、長男か次男かの区別はちょっとつかない。ひょろっとしているから、ベルン様じゃないのは一目瞭然だけど。
今日の私は仮面を着けているしあっちはお喋りに夢中だしで、伯爵たちはこっちに気づいていないようだ。
幸いルーカス様がそっと私の側に寄って壁になってくださったので、ありがたく彼の陰に隠れながら会場に向かうけれど――
「……そういえば、伯爵。本日はご子息はお一人だけ参加なのですね」
男性貴族の一人が言う声が聞こえて、つい私はぴくっと扇を揺らしてしまった。
ルーカス様がさりげなく体の位置をずらしてくれたので、相手には気づかれなかったことを願いたい。
「そうなのですよ。次男の方はあいにく風邪を引いてしまって欠席なのですが、末の息子は誘ったというのに乗り気でなくて。本当に、情けない愚息です」
……ミシリ、と私の手元で扇が悲鳴を上げた。
どの口が言うんだ、と今すぐこの扇を口に突っ込んで喉の奥までグリグリねじ込んでやりたい。
もちろん実際にはしないけれど、私の頭の中ではやっておく。
「……お気持ちは、よく分かりますよ」
会場に入り、伯爵たちの声が聞こえなくなったところでルーカス様がぽつんと呟いた。
「……すみません、ルーカス様に気を遣っていただいてばかりで」
「いえいえ。ああ、アーシェ様もお怒りなんだな、と思うことで僕は冷静になれましたから、これでいいのですよ」
そう言って、ルーカス様はにっこりと笑うとお辞儀をした。
「それでは、アーシェ様もたまには肩の力を抜いて、会を楽しまれるといいでしょう。今日は皆仮面を身につけていますし、少しくらい羽目を外しても大丈夫でしょうからね」
「それもそうですね」
「ただ、何があるかは分かりませんので、そちらのメイドからは離れないようになさってくださいね。あなたに何かあれば、僕はベルンハルドに申し訳が立ちませんので」
「そ、それもそうですね。ご忠告とここまでのエスコート、ありがとうございました。よい夜を」
「ええ、よい夜を」
そう言うと、猫――じゃなくて猛獣仮面のルーカス様は私に背中を向けて、雑踏の中に消えていった。すぐに誰かに声を掛けている様子だから、ご友人を見つけたのかもしれない。
そうこうしている間に客たちがどんどん会場に入ってきた。私はヒルダと一緒に壁際に寄って、はぐれないように気を付ける。
主催者であるヘンリクソン侯爵夫人は、真っ白な仮面を着けていた。品のある中年女性、という感じの夫人が挨拶を終えると、乾杯の後に歓談となる。
「ヒルダ、酒精が入っていない飲み物をお願い」
「かしこまりました。では私が探して参りますので、お嬢様はこちらでしばらくお待ちください」
貴族たちは皆、社交として積極的に知人に話しかけに行っているけれど、私はそこまでして会いたい人がいるわけではないから、隅っこのソファに座って大人しくしていることにした。もうすぐ、リオンも来るはずだし。
……それに、ベルン様も。
ふう、と息を吐いて、仮面を少しいじった。
これ、とても可愛いし軽いから気に入っているけれど、やっぱり視界が狭くなるのが困るな。おまけに穴の空き方の問題なのか、ちょっと周りが薄暗く見えてしまう。
だから、周りをしっかり見ようと思ったらこうして、仮面の端を摘んでちょいちょいとずらさないと――
そのとき、くいくいとドレスの袖を引っ張られる感覚がした。誰かの衣装が引っかかったのだろうかと最初は無視したけれど、何度も引っ張られる。
ヒルダが帰ってくるのにはまだ早いから、リオンが私を驚かせようとしているのだろうか――と思って横を見た私は、指先で摘んでいた仮面を取り落とすかと思った。
黒い礼服に、黒の仮面。
仮装の一種なのか、異国の商人のように口元を布で覆っているけれど――その姿は。
「……ベルン様!」
いつもとは違う靴を履いているからか、会場を出るのにもかなり手間取ってしまった。
ドレスの裾を摘み、廊下の柱に手を預けて息を整える。
先ほど会場に現れたベルンハルド様は、唇に人差し指を当てるとこちらに背を向けて、すぐに会場を出て行ってしまった。
もしかすると、遅れて到着したことを伯爵たちにばれないようにしているのかもしれない、と思って、彼を追って会場を飛び出したけれど――
「アーシェ様!」
背後からヒルダの声がして、どきっとした。
彼女が追いかけてきているのは分かったけれど、今はベルンハルド様を追いかけないと。ヒルダも、遅れて付いてきてくれるはずだ。
ベルンハルド様からかなり遅れてしまったけれど、彼は廊下を曲がった先で待っていてくれた。
彼を追って階段を下りて、裏庭に出る。馬車を停めたのは表側の大きな庭で、あまりうろうろせずにすぐに会場に入ったから、裏にもこんなに立派な庭があったのだということを今知った。
裏庭は表の庭園よりは狭いけれど、ベンチや小さめのガゼボなどがあるから、天気のいい日はここで休憩をしたりするのだろう。
「ベルン――」
名前を呼ぼうとしたら、後ろからとんとんと背中を叩かれた。
ベルンハルド様だ、と思って振り返ったら――
「――黙っていろ」
低い声に続き、腕を掴まれた。
遅れてやって来たヒルダが、悲鳴を上げている。建物の陰から現れた男が、ヒルダの腕を掴んで地面に押し倒した。
どくん、と心臓が悲鳴を上げる。
「ヒルダ! やめて、その人は私のメイド――」
「メイドが大事なら、大人しくしていることだな、お嬢さん」
「ま、おまえは大人しくしていても、解放してやらないけどな」
背後で、男たちの声がする。
ベルンハルド様とは全く違う、不快な笑い声。
……嵌められたな。
「……どうして、こんなことを! ベルンハルド様は、どこにいるの!?」
「そんな男、知らねぇな」
「嘘! 私はベルンハルド様に呼ばれて、こっちへ……」
「知らねぇって言ってんだろ!」
耳元で叫ばれて、頭がガンガンする。この喋り方からして間違いなく、貴族ではない。
誰かの――アーシェ・レヴィンスを疎ましく思う者の、差し金だろう。
貴族の使用人として一旦は屋敷の敷地内に入って、その後変装を脱いだ……?
「私をどうするつもり……?」
震えそうになる声を必死で堪えながら問うと、ぎゃはは、と笑う声がした。
下品に笑うその口に、今被っている帽子を突っ込んでやりたい。
実際にはできないから、頭の中だけでやっておく。
「どうするって、決まってんだろ?」
男たちが、笑った。
「男爵家のお嬢様だかなんだか知らねぇけど……お嫁に行けない体にしてやれ、って言われてるんでな。悪く思うなよ」




