40話 男爵令嬢は信じたい
途中で波乱は起きたけれど、なんとか今日の打ち合わせは終わらせられた。
「……アーシェ、男爵。本日は大変、失礼いたしました」
伯爵と馬鹿兄たちの前から退出して、ベルン様は私たちを玄関まで見送ってくださった。
男爵家の馬車の前でベルン様に言われたため、私と父様はほぼ同時に声を上げた。
「そんなことないです!」
「ベルンハルド殿が気にされることでは!」
「……いえ、私の責任です。ああすれば、父が怒ることは分かっていました」
ベルン様は痛みを堪えるかのような険しい顔で言って一旦言葉を切り、そして首を横に振った。
「……しかし、黙ってはいられませんでした。立場の弱いあなたたちの気持ちを足蹴にするような、あの態度……家族として、恥ずかしく思います」
「いえ、本当に気になさらなくていいのですよ。むしろ……ベルンハルド殿がこれからエストホルム伯爵家において、不利な立場にならないかの方が心配です」
父様の言葉に私がうんうんと頷いて同意を示すと、ベルン様は目を伏せた。
「……私のことなど、どうにでもなります。あのような者たちとあなた方を、縁者にしなければならないことが、心苦しいです」
「ベルン様」
私が呼びかけると、ベルン様はゆっくり顔を上げた。
彼の胸元では、スミレの花束が震えている。
少し、緊張して怯えているようだけれど……でも、その花びらからは瑞々しさが消えていない。
きっと、ベルン様は――
「すっきりなさったのではないですか?」
「……え?」
「言いたいことを言ってしまって。……ずっと、我慢なさっていたのでしょう? 今回のことに限らず、言いたいことがあっても言えなかったのでしょう?」
黙れ、喋るな、という伯爵からの理不尽な命令。
生まれ故郷への愛情ゆえ、伯爵家からの圧力に逆らえなかったベルン様。
今も、本気で逆らうことはできないだろう。
でも今回のように、誰がどう見ても間違っていることに異を唱えることは、できるはずだ。
「もしそうなら、私はこれでよかったと思っています」
「……」
「それに、私は……あなたと結婚できるなら、少々のことは気にしませんよ」
伯爵家の存在は、ベルン様にとって苦痛にしかならない。
でも、それについてベルン様が気負う必要はない。
彼だって、苦しい思いをしてきた。
好きで貴族に生まれたわけでも、この屋敷に来たわけでもない。
ベルン様は青の目を見開くと、くっ、と小さく噴き出した。
「……本当に、俺はおまえに救われてばかりだ」
「そうでしょうか?」
「そうだとも。……男爵、そしてアーシェ。これから少し、伯爵家は『忙しく』なるでしょう」
ベルン様の言葉に、私だけでなく父様も体に緊張をみなぎらせたのが分かった。
彼の言う「忙しく」が、ただ単に多忙である、という意味ではなさそうなことくらい、すぐに分かった。
「あなた方にもしばし待っていただいたり、ご迷惑をお掛けしたりするかもしれません。しかし……私は――俺は、アーシェと結婚したい。その道が険しかったとしても、アーシェと一緒に幸福に生きる未来を、諦めたくない」
力強く、頼もしい言葉が、私の胸を叩く。
もし、伯爵家の人が邪魔をしても。
ベルン様にとって、苦しいことがあっても。
ベルン様の手が、私の両手をそっと包み込む。
温かくて、大きくて、頼りがいのある手に包まれて、胸が高鳴ってくる。
「だから、俺を信じてくれ」
「……ベルン様」
「これは、誰かに命じられたわけでも、家の都合で無理矢理言わされた言葉でもない。俺の……ベルンとしての、言葉、気持ちだ」
そう言って、ベルン様は微笑んだ。
青の眼差しが、優しい。
紫の花が、誇らしげに咲いている。
「……はい。あなたの気持ち、受け取りました」
私も、笑った。
あなたが好きです、という気持ちを込めて。
ベルン様に見送られて、私たちは馬車に乗った。
父様は難しい表情だけれど、去り際にベルン様と固い握手を交わしていたし、馬車に乗るときは私に、「家に帰ってゆっくり話をしよう」と優しい声音で言ってくれた。
馬車内で待っていたヒルダに甘いお菓子を渡された私は、それを手に、一度振り返った。
伯爵邸の玄関前で、ベルン様がこっちを見ている。
彼に向かって小さく手を振ろうと思った私は――ふと、ベルン様よりも上の方からこっちを見る視線に気づいた。
屋敷の二階バルコニー。
そこに、今はちょっと見たくない顔の人がいて――
「アーシェ、寒いのか?」
「……あ、うん。ちょっと……」
「色々あって、疲れたんだろう。屋敷に着くまで、休んでいなさい。ヒルダ、毛布を」
「はい」
ヒルダが手際よく出してくれた毛布をありがたく受け取り、それにくるまった。
……父様の質問に肯定はしたけれど、寒くて震えたわけではない。
バルコニーから馬車を――私を見つめる、伯爵。
その凍えるような、憎しみを込めたような眼差しが、恐ろしかったからだ。
『やるべきことがあるから、しばらく会えない』
その旨がしたためられた手紙が来たのは、伯爵家で打ち合わせをした数日後のことだった。
あのひりひりするようなやり取りをして、ベルン様は伯爵とどうなったのか……と皆で心配していたから、最初手紙が来たときは期待したけれど、この内容ではとうてい安心できそうになかった。
ベルン様が何を「やる」べきなのかは、知らせてくれなかった。手紙を届けに来たイアンに父様が尋ねていたけれど、「教えてもらえなかった」と肩を落としていた。
でも、ベルン様もイアンも意地悪で秘密にしているわけではないというのは分かっている。
イアンも、「ベルンハルド様は、男爵家の皆様にご心労をお掛けしたくなく思われているのです」と申し訳なさそうに言っていた。
……ベルン様は、「俺を信じてくれ」と言っていた。
私は、彼の言葉を承諾した。
だから、グダグダ言ったりしない。
私に、私たちにできるのは、ベルン様の無事を願って待つことだけだった。




