37話 男爵令嬢はおねだりする
勉強を終えたところで、イアンとヒルダはお茶の仕度をするべく部屋を出て行った。
イアンはけろっとしていたけれど、ヒルダは私の前を通るときに、「よかったですね」といたずらっぽく囁いてきた。
……ま、まあ確かに色々なことを聞けたけど……あれは、授業の課題で……。
「アーシェ」
「あっ、はい?」
ヒルダの背中をじっと見ていた私は、ベルン様に呼ばれて振り返り――ぽすん、とその胸の中に抱き留められた。
いつの間にかベルン様は立ち上がって私の背後までやって来ていたようで、ノートを取り落とした私の背中にそっと腕を回してきた。
ぎゅうぎゅう、というよりはふわり、という擬態語が似合いそうな、淡い抱擁。
なんとなく甘えたい気持ちになった私がベルン様の背中にそっと両手を回すと、彼はふうっと長いため息を吐き出した。
「……まさか、イアンが最後の最後であのような問いをするとは、思っていなかった」
「……ですよね。私もです」
「ああ。……あれは課題の一環だと、分かっている。だが……」
ベルン様の大きな手の平が、私の後頭部をそっと撫でた。
くすぐったいような、ぴりっと痺れるような感覚に私が身をよじらせると、ベルン様が私の頭上で小さく笑う声が聞こえた。
「……先ほど俺が口にしたのは、嘘偽りの一切ない俺の素直な気持ちだ」
「……それ、じゃあ……」
「おまえは花のような人だ、と言ったこともあるが――同時に、俺にとって太陽のような人でもある」
――どきん、と胸が大きく高鳴る。
密着、とまではいかずともベルン様にくっついているこの状態、もしかすると激しい脈動がベルン様にまで伝わってしまうんじゃないか……?
「……アーシェは、光で、花で――ああ、それに大地のように堂々としているし、水のように俺にとってなくてはならない存在だから、アーシェはまさに女神様たちのようだな」
「それはさすがにないです!」
確かにリネリアでは光、地、水、花の女神様が主に信仰されているけど。
四女神フルコースなんて、私にはもったいなさすぎる!
「謙遜しなくていい。……おまえがいてくれたから、俺は新しいことに挑戦しよう、と思えた。騎乗戦も、社交界も、言葉も。……おまえに会えなかったらどれも、最初から諦めて、手を付けようとも思わなかっただろう」
ベルン様はゆったりと言葉を紡ぐと、少し私から体を離した。
そうして私の右肩に左手を、顎に右手をあてがい、青色の目を切なそうに細めて私を見下ろしてくる。
「……口づけてもいいか」
「んっ……!?」
「だめなら、今日は諦める。いいのなら、許可してくれ」
「……」
あまりに艶っぽい声でキスをねだられたから思わずびくっとしてしまったけれど、ベルン様の胸のスミレがそわそわと揺れていることに気づき、私はスッと息を吸った。
「ベルン様」
「……」
「許可、なんてできません」
「……」
「私は、あなたの婚約者です。私は、あなたのことが大好きです。……だから、許可する許可しないで答えたくはないのです」
それまで落ち込んだ様子だったベルン様が、目を見開く。
その目を見つめ返し、私はにっと笑ってベルン様の頬に両手を添えた。
「キス、してください」
「っ……!」
「今は、イアンもヒルダもいませんから。誰も見ていませんから……」
「アーシェ……!」
ベルン様は震える声で私の名を呼ぶと、ぐっと私を抱き寄せた。そして、そんな力強さとは真逆の丁寧な仕草で、私の唇を奪う。
一度、二度、軽く触れあわせた後、ものすごく遠慮がちにちゅ、と軽く吸い付いてきた。
ベルン様も私も、恋愛初心者だ。私はヒルダから勧められた恋愛小説で、ベルン様はイアンやルーカス様から話を聞いて、それぞれ勉強しているけれど、どちらも未熟。
だから、キス一つでもお互い手探りだし……この前なんて鼻と鼻がぶつかってしまったし、勢い余った結果頭突きもどきになったこともある。
それでも、ベルン様と一緒に色々なことをしていきたい。
失敗したら二人で反省した後で笑って、成功したら次はもっともっと上手になろうと志したい。
他でもない、ベルン様が相手だから。
ベルン様の唇が、ゆっくり離れる。
青の目が情熱で潤んでいて、それを見ているとたまらなく愛おしくなってくる。
「……目を潤ませてるアーシェ、すげぇ可愛い」
故郷の訛りで喋るベルン様に、私はくすっと笑って大きな胸を叩いた。
「もし私が可愛く見えるのならそれは間違いなく、ベルン様のおかげですからね」
「そっか、俺のおかげか。……それも、いいな」
「ですね」
「……。……アーシェ。もう一回、いいか?」
「一回と言わず……何度でも」
私が囁くと、ベルン様の目尻が嬉しそうに緩み、再び唇が塞がれた。
……今頃、イアンとヒルダはお茶の準備をしてくれているはずだけど。
もうちょっと、ゆっくり準備をしていて。もうちょっとだけ、ベルン様と二人きりの時間を過ごさせて、と願ってしまうのだった。
ヒルダ「合点承知です」




