32話 伯爵子息の約束
ベルン視点。
ベルンハルド・エストホルムは、緊張の面持ちで自邸の玄関に立っていた。
いつも涼しい顔をしており、多少のことでは動じない彼だが、今は傍目から見てもそわそわしているのが丸わかりで、メイドたちは落ち着かない様子のご主人様をはらはらしながら陰から見守っている。
「……ベルンハルド様」
「イアン。今の俺に、おかしいところはないか」
ベルンハルドに問われたイアンは目を細めて、主君を見つめた。
艶やかな金色の髪は前髪を上げているので、彼の美貌を余すことなく魅せている。
幼少期は野良仕事と祖父からの教えで、青年期からは騎士団で鍛えられた体を包むのは、灰色の正装。
生地の色は地味だが、元々ベルンハルドの容貌が優れていること、そして――おそらく彼の隣には淡い色合いのドレスを着たアーシェが立つだろうということから、これくらいの彩度の方がバランスが取れるはずだとイアンが判断した。
引き締まった腰には、装飾剣を提げている。
ベルンハルドは「こんなじゃらじゃらした剣では、いざというときにアーシェを守れない」と不服そうだったが、パーティー中に抜刀することは滅多にないので、見栄え優先の装飾剣で十分だ。そもそもベルンハルドなら、飾りまみれの剣でも普通に戦えるだろう。
「ございません。凛々しくもお美しいベルンハルド様でいらっしゃるので、私としても鼻が高いです」
「……そう、だな。おまえのおかげだ。ありがとう、イアン」
「どういたしまして。……ああ、馬車が到着しましたね」
これからベルンハルドはアーシェとリオンのおまけとしてパーティーに参加するので、男爵家の馬車で会場まで行くことになる。
今晩はおまけらしく慎ましく、しかしアーシェと一緒に勉強したことを存分に発揮できるように、尽力するつもりだ。
しかしドアが開き、ドレス姿のアーシェがやって来た瞬間――ベルンハルドの頭から、勉強内容のほとんどが吹っ飛んでいった。
黄色系統のドレスに、緩く巻いた髪。髪に挿しているのは造花だろうが――間違いなく、あれはアンネリエだ。
顔にうっすらと化粧を施したアーシェが、顔を上げた。
ベルンハルドと視線がぶつかると、ほお紅のおかげで元々赤く色づいていた頬がさらに血色よくなる。
「……こんばんは、アーシェ。美しいあなたと共に夜会へ出向けることを、嬉しく思います」
学習内容を必死に思い出してベルンハルドが挨拶をすると、アーシェはふわりと笑った。
「こんばんは、ベルンハルド様。私も、今宵あなたとご一緒できて光栄です」
アーシェの返事もテキストに載っていた定型文そのものだが、婚約者に「光栄です」と言われたベルンハルドは、多幸感で胸がいっぱいになった。
しばし固まっていたベルンハルドだが、ちょいちょいとイアンに背中を突っつかれて、我に返る。そして一つ咳払いするとポケットに手を突っ込み、小さな箱を取り出して開いた。
そこに入っているのは、女性用のネックレスだ。
事前にイアンがヒルダと相談していたようで、「ベルンハルド様からアーシェ様に、アクセサリーを贈られてはどうですか」と提案してきたのだ。
それもいいな、と思ったベルンハルドはすぐにネックレスを注文した。そして今晩スマートにアーシェに掛けられるよう、マネキン相手に何度も練習してきた。
「アーシェ。これを、あなたに」
「まあ……とっても綺麗です!」
「俺が着けても?」
「はい、お願いします」
微笑んだアーシェがその場で優雅にターンして、ベルンハルドの前に無防備なうなじを晒した。
――その白くて綺麗なうなじを見ていると、なぜか無性に胸の奥がざわついてきた。
だが獰猛な本能を理性でねじ伏せて無理矢理寝かし、ベルンハルドはあくまで紳士的にネックレスをアーシェの首に回して、留め金を留めた。
ちゃり、という小さな音が鳴り、アーシェが振り返る。そのすんなりとした首には、銀鎖に小さな赤い宝石をちりばめたネックレスが輝いている。
ベルンハルドが選び、作らせ、贈ったネックレスを身につけて微笑むアーシェは、文句なしに愛らしい。
「ありがとうございます、ベルンハルド様」
「……とても、よく似合っている」
「ふふ。……あの、ベルンハルド様も、とっても素敵ですよ」
照れたように言われて、ベルンハルド・エストホルムは二十四歳という若さで昇天するかと思った。
だが、まだ花の女神の御許に行くのには早すぎる。
その後、アーシェの実家からの贈り物や手紙などを運ぶために、玄関に男爵家の使用人たちが入ってきた。彼らはベルンハルドを見ると恭しくお辞儀をして、代表らしい高齢の従者には「お嬢様とおぼっちゃまをよろしくお願いします」と言われた。
……そう。
愛しい婚約者ばかりに注目していてすっかり失念していたが、この場にはもう一人、重要人物がいるのだった。
玄関に立ち、じっとこちらを見つめてくる少年。
男爵家の使用人に「ぼっちゃま」と呼ばれた彼は、射抜くような、警戒するような眼差しをベルンハルドに向けている。
リオン・レヴィンス。
アーシェの実弟で、男爵家の跡継ぎ。確か、今年で十二歳になったか。
彼は以前、エストホルム伯爵邸に行く日に姉の付き添いをしているのをちらっと見たくらいだ。だからベルンハルドはまだ、リオンと挨拶くらいしかしていない。
アーシェの話から得られるリオンの情報としては、彼は賢くて気も利くのだが、一言多くて最近姉に対して辛辣になっているという。
アーシェは「反抗期なのでしょうか……」と苦笑していたが、きっと、リオンは――
そこで、それまではベルンハルドとの間に一定の距離を保っていたリオンが、意を決したように動きだした。
他の使用人たちもぼっちゃまの動きに気づいてさっと道を空け、ヒルダやイアンもそれとなく離れてくれる。
ベルンハルドの目の前まで来たリオンは、掛けるべき言葉を考えているかのように黙ってこちらを見上げている。
ここは大人として、ベルンハルドの方が歩み寄るべきだろう。
「お久しぶりです、リオン・レヴィンス殿」
相手は、このまま何事もなければベルンハルドの義弟――親戚となる少年だ。
だから、彼が自分より身分が低かろうと年下だろうと、侮る気持ちは一切ない。
朗々とした声で挨拶をしたベルンハルドを、リオンは少し意外そうに目を丸くして見てきた。だが挨拶を返すべきだと思い至ったようで、咳払いをして軽く会釈をした。
「こちらこそ、お久しぶりです、ベルンハルド・エストホルム様」
「今宵は、あなた方ご姉弟に同伴して夜会に参加できることを、嬉しく思います。不慣れな……身、ですが、よろしくお願いします」
途中、一瞬だけ言葉が詰まってしまったが、なんとか挨拶を述べることができた。
リオンは妙なところでつっかえたベルンハルドに一瞬怪訝そうな顔をしたが、それには突っ込まずに小さく頷いた。
「僕の方こそ。……ベルンハルド様。これから夜会に向かうというところですが……無礼を承知ですがひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「ありがとうございます。……あなたは、姉のことをどう思ってらっしゃるのですか」
リオンがはっきりと問うた途端、玄関ホールにぴりっとした緊張が張り巡らされたのが分かった。
女性使用人やヒルダたちがそれとなく動き、アーシェのいる廊下の方の道を封鎖する。
そしてイアンや男爵家の従者ら男性使用人たちが遠巻きに見つめてくる中、ベルンハルドは納得の表情になる。
いつか、アーシェの家族にこのような質問をされるだろうとは予想していた。
そして……おそらく質問してくるのは彼女の両親ではないだろう、とも。
「リオン殿が心配なさるのも、当然のこと、だと存じます」
「……」
「俺は、アーシェのことを愛おしく思っています」
ベルンハルドが言い切ると、ぴく、とリオンの拳と頬の肉が動いた。
「最初こそ、父に命じられて渋々、見合いの席に参りました。しかしアーシェは、口べたな俺に対しても積極的に話しかけて、惜しみなく笑顔を見せ、寄り添ってくれました。今では、彼女以外の女性と結婚することは、考えられません」
「……あなたは、エストホルム伯爵と不仲だと伺っていますが、事実ですか」
冷静に質問しているようだが、リオンも緊張している。
先ほどは質問の数を「ひとつ」と言ったのに、自然と質問を重ねていることに彼自身も気づいていないのだろう。
なかなか痛いところを突かれたベルンハルドだが、動揺を欠片も見せることなくしっかり頷いた。
「俺自身でも、父や兄たちとは不仲だと自覚しております」
「……あなたは、もし何かあろうと伯爵から姉を守ってくれますか」
リオンの声が、少し震えている。
リオンの今の発言は、ともすれば伯爵家への不敬罪になる。
さすがにイアンが進み出たが忠実な従者を片手で留めさせ、ベルンハルドは一歩進み出ると、緊張で青白い顔になっている少年としっかり視線を合わせた。
「努力する」
「……」
「俺も、万能ではありません。しかし、力の及ぶ限り尽力し、何があろうと最後まで諦めないことを、約束します」
できない約束は、したくない。
ベルンハルドの手の届かないところで、アーシェが怖い思いをするかもしれない。彼女に降りかかる全ての火の粉を払うことは、ベルンハルドにはできない。
だが、もし彼女の肌が火の粉で傷ついていたら、これ以上傷つかないようにこの身でアーシェを守るし、彼女の傷を癒すために金や時間を使うことも惜しまない。
我ながら、完璧とは言い難い返事である。
だがリオンはしばし考えた後に頷き、ゆっくりと頭を垂れた。
「……あなたのお言葉を、嬉しく思います。そして、不躾な質問をしたことを、お詫びします。叱責の言葉があれば、甘んじて受けます」
「その必要は、ありません。あなたは姉君を思う、とても素晴らしい弟君です。むしろ、厳しく質問してくださり、助かりました」
そうしてベルンハルドはリオンに顔を上げさせると、彼の青白い顔の前に右手を差し出した。
「これからどうぞ、よろしくお願いします、リオン殿」
「……。……ありがとうございます。こちらこそ……姉を、よろしくお願いします」
リオンは掠れた声で言うと、ベルンハルドの手を取った。
その手はベルンハルドのそれより二回りほど小さかったが、確かな強さをもってベルンハルドの手を握り返してくれた。




