20話 壁の雑草の喜び
エストホルム伯爵は、相変わらずだった。
「おまえたち、いつまで私を待たせるつもりだ! ベルンハルド、貴様まさか、実家で迷子になったわけでもあるまいし、どこで道草を食っていた!」
ソファに座るなり、まず怒声が飛んできた。
まさか開口一番怒鳴られるとは思っていなくて、ドアの前で深呼吸して気合いを入れ直したというのに私は怯んでしまった。
道草、って……途中の廊下で足止めをしてきたのは、あの二人の兄たちだ。
ベルンハルド様は迷子になんてなっていないし、叱るならあの二人を叱るべきだ!
黙ってしまったベルンハルド様に代わり、私はもう一度深呼吸してから、母様に教わった鉄壁の笑顔を貼り付ける。
「失礼しました。途中でベルンハルド様のお兄様方にお会いして、ご挨拶を――」
「おまえ、息子たちを言い訳にするつもりか? ……これだから成り上がりの男爵家は。娘の教育一つ、まともにできないとは」
うわなにこのジジイ、さっさとくたばればいいのに。
……おっと。つい幼少期の癖で、品のない文句が喉まで出てきてしまった。
もっと上品に、まあ、なんですかこの老人は、さっさと棺桶にお入りになればいいのに、と言わないとね。言わないけど。
正直、思っていることを全部ぶちまけて持っている扇子で伯爵の頭を引っぱたきたいけれど、そんなことをすれば婚約破棄はもちろん、男爵家没落一直線だ。
……この前リオンにも忠告されていたんだから、いくら腹が立っても、理不尽なことを言われても、たかが男爵家の娘の私が口答えしてはならない。
だから私はこみ上げる怒りや暴言を全て胃の中に押し込んで、笑顔の仮面の下に感情を封印しようとした。
でも、私の隣に座っている方は違った。
「……お言葉、ですが。兄上たちは、実際に、あちらから、声を掛けて、きました」
一言一言ゆっくりと、そして言葉の合間に区切りを入れながらではあるけれど、ベルンハルド様ははっきりと言った。
弾かれたようにそちらを見るけれど、ベルンハルド様は青の目を真っ直ぐ父親に向けていて、私の方は見ていなかった。彼の胸元では、スミレの花が大きく花開いている。
……でも、これまでデートしていたときに見られた開き方とは、ちょっと違うみたい。
ベルンハルド様が喜んでらっしゃるときは、もっとふわっと柔らかい感じで開いていたけれど、今のスミレはぎらぎらと力強く輝いているようだ。
……これは、ベルンハルド様の……怒りの感情?
伯爵はいきなり喋りだしたベルンハルド様を見てぎょっとした様子で、その隙を衝くようにベルンハルド様は言葉を続けた。
「アーシェ嬢は、男爵令嬢です。だから、兄上に、声を掛けられたら、無視、できません。だから、どうか、アーシェ嬢のこと、を、責めないで、ください」
「ベルンハルド様……」
掠れた声で名を呼ぶと、ようやく彼はこっちを向いてくれた。
青の目には、緊張の色が強く浮かんでいる。
父親に疎まれ、この実家をも嫌っている様子のベルンハルド様。
彼がこれだけの台詞を言うのに、どれほどの勇気を必要としたのだろうか。
ベルンハルド様は私を庇いつつ、兄二人を直接詰ることもなかった。
でも我に返った様子の伯爵は忌々しげにベルンハルド様を見ると、ダン、と拳をテーブルに叩きつけた。
「貴様の声なんて、聞きたくもない。黙っていろ、ベルンハルド」
「……そうは、いきません」
「やかましい! 私は、そこの娘と話をする! 貴様は黙っていろ!」
伯爵は唾を吐く勢いでそう吐き捨てると、私の方をじろっと見てきた。
その剣幕に私が思わずびくっと身を震わせると、伯爵はふんと一つ鼻を鳴らしたようだ。
「……アーシェ・レヴィンス。おまえとベルンハルドとの結婚は、このままだと半年後の予定だ。それに伴い、おまえたちの婚約宣誓式を二ヶ月後に予定する」
一旦ベルンハルド様に対して怒りをまき散らしたからか、私に対するときの物言いはだいぶマシになっていた。
それでも警戒は解ききれないので、私は従順に頷いた。
「かしこまりました。両親にもそのように伝えます」
「そうしろ。……いずれ、宣誓式に関する準備を進めるが……そのときには男爵夫妻もここに呼ぶ。だが、伯爵家に娘を嫁入りさせられることの意味を理解した上で臨むように、と言っておけ」
「かしこまりました」
その後もいくつかのやり取りはあったけれど、伯爵は終始不機嫌そうだったものの、私に対して怒鳴ることはなかった。
そうして一通りの話が終わると、前回と同じように追い立てられるように摘み出された。
来訪時は丁寧に出迎えてくれた使用人たちも、応接間から追い出された私たちを見る目は冷ややかで、お辞儀すらされなかった。
今日はベルンハルド様の屋敷に寄って一緒に馬車に乗ってきたから、男爵家の馬車は待っていない。
ヒルダとイアンの待つ馬車に乗り込み、私たちは同時にため息をついた。
「……疲れました」
「本当に、すまない。父たちが、おまえに、失礼なことを言った」
「滅相もございません。私こそ……ベルンハルド様お一人が責められることになってしまい、申し訳ないです」
そう言って、私は向かいの席のベルンハルド様に頭を下げた。
兄二人はともかく、その後の伯爵との面会で私が怒鳴られなかったのは間違いなく、最初にベルンハルド様が伯爵の怒りを一身に受けられたからだ。
あそこで私がしゃしゃり出ていたら……伯爵はきっと、よその娘だろうと何だろうと、私にも怒鳴り散らしていただろう。
「……ベルンハルド様は、全てを見越した上で伯爵に物申されたのではないですか?」
私が問うと、ベルンハルド様は困ったように眉根を寄せた。
「……俺は、そこまで、物事を、考えていない。だが、あの場で――おまえを……侮辱、され続けたく、なかった」
「……。……私が馬鹿にされたから、ですか?」
「そうだ。……それに、俺も、あれでよかったと思う」
ベルンハルド様はそう言って、苦笑をこぼした。
「……おまえは、怒鳴られなかった。だから、あれでいい」
「……そんなこと」
「……それに、兄たちが、失礼だった。すまない、言い返せなくて……」
「ああ、あれですか。全然構いませんよ」
今度は逆に、私の方がベルンハルド様に笑みを返した。
「壁の雑草……でしたっけ? なかなかなことを言ってくれるなぁ、と思いましたけど、あそこで言い返したら余計に時間を食っていたでしょうからね。ああいうのは、さーっと無視するしかないんですよ」
「……」
「……ベルンハルド様?」
「……雑草などでは、ない」
そう呟くと同時に、ベルンハルド様は徐に立ち上がった。
体重のあるベルンハルド様が立ったからか、少し車体が揺れる。その弾みか、御者台の方でヒルダが「わっ?」と小さな声を上げてイアンに腰を支えられて、嬉しそうに照れているのがベルンハルド様の頭の横の窓越しに見えた。
ロマンスが生じたようで、何よりだ。
背後での従者たちのやり取りに気づいていないベルンハルド様はそのまま私の隣に移動して、ゆっくり腰を下ろした。
そうして私の両手をすくい上げるように手で包み込むと、ご自分の胸元――幻のスミレのある辺りに引き寄せた。
「おまえは、雑草では、ない」
「……」
「おまえは、花だ。……とても綺麗で、瑞々しくて、のびのびと育つ……リネリアの野に咲く、春の花のような人だ」
「はっ――?」
……。
……わ、わぁ。花にたとえられるなんて……人生で、初めてだ。
ベルンハルド様の青色の目は、優しく凪いでいる。そこには、阿呆面をした私の顔がくっきり映り込んでいた。
ベルンハルド様が想定しているのは、温室で丁寧に管理される薔薇じゃなくて……きっと、アンネリエのような花だろう。
でも、高貴な薔薇じゃなくていい。
野花でも、十分すぎるくらい。
私は、ベルンハルド様だけの野花。
彼だけのアンネリエの花になれるのなら……それで十分、幸せだ。
顔が、熱い。
嬉しくて、胸の奥がもぞもぞしてくる。
私が思わず視線を落とすと、ちょうど目の高さにあったベルンハルド様の喉の出っ張りがごくん、と上下したのが見えた。
そのまま彼は私の手を口元に引き寄せて、そっと、人差し指の爪の先に唇を寄せた。
私の指先は小さくてベルンハルド様の唇は大きいから、キス、というよりむしろ、指の先端を軽く唇で挟まれるようなことになった。
まぶたを伏せて、恭しい仕草で私の爪の先に唇を寄せるベルンハルド様の姿は――神々しいような、妖艶なような、不思議な感じがした。
指先へのキスはすぐに終わって、ベルンハルド様はゆっくり顔を上げた。その目元は柔らかく緩められていて、頬もほんのり赤い。
……沈黙が、車内に満ちる。
な、何か言わないと!
えっと、さっきベルンハルド様はキスをしてくれて、その前には私のことを――
『おまえは、花だ』
「は、はな……」
「……ん?」
「花……そ、そう、花の女神様! 女神様にお参りしに行きませんか!?」
我ながら突拍子もない提案だと思うけれど、勘弁してほしい。
照れくさくなって思わず口走ってしまったけれど、ベルンハルド様はゆっくり私の手を解放すると、「花の女神……」と呟いた。
「……そう、だな。せっかくだから、おまえと一緒に、聖堂に行くか」
……あ、あれ? ベルンハルド様、結構乗り気?
「ええと、いいのですか? 急な提案で……」
「俺は、構わない。……もう少し、おまえと一緒に、いたいと、思っていた」
そう言うと、ベルンハルド様は首を伸ばして、御者席にいるイアンに「……進路変更。聖堂に行く」と告げてくれた。
……私の突然の提案によって聖堂行きが決まったけれど、ちょうど私も花の女神様にはお礼を言いたいと思っていたし、だからこそぽんっと女神様の名前が出たんだと思う。
うん、たまには私もきちんとお祈りをするべきだよね!
いつもありがとうございます、って。




