9話 男爵令嬢は相談する
屋敷まで送り届けてもらい、去り際には手の甲へのキスもしてもらった。
手を握られたから、何だろう、と思っていたらベルンハルド様はその場にしゃがんで、私の手の甲に恭しく――でも慣れないのか、少しぎこちない様子でキスをしてくれた。
そのときのことを思い出すとまた頬が熱くなって、ふわふわ夢見心地に浸ってしまいそうだけど――夢の世界に飛ぶのには、まだ早い時間だ。
それに、今日中に確認しておくべきことがある。
「ヒルダ、ヒルダ」
「はい、何でしょうかー?」
部屋着に着替えた私は、ドレスを片づけてくれるヒルダを捕まえた。彼女も忙しいだろうけど、今のうちに聞いておかないと。
「ちょっと確認したいことがあるの。時間、もらえる?」
「いいですよ。どうせ、お嬢様の愛するベルンハルド様のことでしょうからねー」
「たっ、確かにベルンハルド様のことだけど……まだそこまでじゃないから!」
ほら、ヒルダがからかうように言うから、ちょうど脇を通り過ぎたリオンがうろんな目でこっちを見てきた!
リオンはまだベルンハルド様のことを信頼していないようで、今日も帰宅するなり「変なことはされていないだろうね?」って言ってきたくらいなのに。
そんなリオンの前でするのはちょっとはばかられる話題だったから、私はヒルダを部屋に連れ込んだ。
「ベルンハルド様のことだけど……今日のお召し物について、覚えている?」
「ええ、だいたいは。キャラメル色のジャケットとワインレッドのスラックス姿でしたね。お嬢様も気づきました? ベルンハルド様の長靴、あれって最新の乗馬靴ですよ。さすが伯爵家は、流行にも敏感ですね!」
「あ、いや、そこまでは見ていないけど……私が言いたいのは、ジャケットの胸に飾っていた花のことよ」
「え? 花? そんなのありましたっけ?」
ヒルダに素っ頓狂な声で返されて、ああ、やっぱりそうなのか、と私は震える息を吐き出した。
ベルンハルド様の胸に挿されていた、小さなスミレの花。
あれが見えるのは私だけだ。
しかもその私でさえ掴むことができない、幻のような花。
私が暗い表情になったからか、それまでは飄々としていたヒルダはすっと落ち着いた顔になり、私の肩をそっと抱いてくれた。
「……何か、気がかりなことがおありなのでしょう?」
「……うん。ヒルダ、聞いてくれる? ちょっと荒唐無稽な話かもしれないけれど……」
「もちろんです。お茶を準備しますので、落ち着いてお話ししてくだされば」
「ええ、ありがとう」
気の利くメイドに感謝し、私は彼女に勧められてソファにすとんと腰を下ろした。
ヒルダはすぐにお茶の仕度をして、私の大好きな甘いフルーツティーを淹れてくれた。輪切りにしたオレンジを添えて、ミントをちょこんと水面に浮かべる。
このミントが、果汁で口の中が甘ったるくなりすぎないようにしてくれるらしく、私はヒルダが淹れるこのお茶が大好きだった。
「さ、どうぞ。お菓子もありますよ」
「ありがとう。……その、さっきの帰りの馬車のことなんだけど」
私は温かいお茶と甘いクッキーで胃を満たしつつ、これまでの出来事をヒルダに説明した。
いつもはのほほんとしているヒルダだけど、私の話を最後まで真剣に聞いてくれた。
そして、「夢でも見たんじゃないですか?」と一蹴したりせずに頷いた。
「なるほど。お嬢様にしか見えないスミレの花……ですか」
「変よね、私……」
「変……と言えばそれまでですが。現にお嬢様はその花を、以前も見られたのでしょう? これまでお嬢様がベルンハルド様とお会いになったのは計三回ですが、それぞれのスミレについての様子を窺ってもよろしいでしょうか?」
「うん。一回目は、なかったはずよ。二回目のときに、小さな蕾状態のスミレが胸にあったの」
そう……確か、婚約が決定した後の訪問時。
何がなんだか状態の私だったけれど、ベルンハルド様の胸に小さな紫色の蕾があることに気づいて、ちょっとだけ肩の力を抜くことができたんだ。
……あ、そういえばその日、解散するときにはもうちょっと花が開いていたような気がする。
それに今日も、途中から蕾が増えたように思われたし――
私の説明は筋道が通っていなかっただろうけれどヒルダは真摯な態度で聞き、「なるほど」と小さく唸った。
「それは……実に不思議な花ですね」
「うん。今日、それを掴もうと思ったけど触れられなくて、ベルンハルド様にも変な顔をされてしまったの」
「まあ私としても、何もない宙を一生懸命掻いたりされたら、この人大丈夫かと思いますけどね」
「だよね……」
「でももしかするとそれって、『女神様の気まぐれ』かもしれませんよ?」
女神様の……気まぐれ?
えっと、それって確か……。
「女神様が気分で祝福を施すってやつ?」
――この世には、女神様がいる。
女神様たちは、この世界が破滅しないように人々に「祝福」を与える――ということだけど、女神様たちはとても気まぐれで、そのときの気分とノリで人々に祝福を施すとされている。
リネリア王国で信仰されているのは、光の女神、地の女神、水の女神、花の女神といったところ。
実際、何かの拍子に女神様に気に入られた人たちが、それぞれの女神様から祝福を受けた、という報告がたびたび上がっている。
ヒルダは頷いて、人差し指を立てた。
「そう、それです。お嬢様にしか見えない、スミレの花――もしかするとお嬢様は、花の女神様の祝福を受けたのかもしれません」
確かに、女神様たちは自分たちの得意な分野の祝福を、人々に与える。
光の女神様なら、暗闇でも決して消えることのない明かりを灯せるようにしたり、地の女神様なら大地を豊かにしたり、水の女神様なら干ばつで苦しむ地域に恵みの雨を降らせたり。
色々事例はあるけれど、とにかく女神様たちは「そのときの気分で、そのとき気に入った人に、そのとき気が向いた方法で、祝福を施す」そうなので、法則性も分からない。
一応、女神様の祝福を受けた――らしいことがあれば、国に報告することが推奨されている。もちろん、祝福を受けたことで悪目立ちしたくない、という人もいるから、義務じゃないけれどね。
だから、これまで報告された「祝福」については、図書館などで調べることができる。
私は祝福を与えられた人と接したことはないけれど、噂では王都でも一年に数名は祝福持ちらしい人が現れるそうだ。自分だけの秘密にしている人も多いだろうから、実際にはもっといると思われる。
「……私が、花の女神様の祝福を……?」
「あり得ますよね?」
「ベルンハルド様と出会うまでは、花を枯らすことしか才能がなかった私に、花の女神様が、祝福を?」
「ん、んー……どうなんでしょうね。でも、こういう摩訶不思議なことは女神様の恩恵である可能性が高いですし、調べる価値はあると思います」
「……そうね」
あの、私にしか見えないスミレの花。
なぜか私が花の女神様に気に入られて、祝福を受けたとしても――あの花に何の意味があるのかとか、ベルンハルド様に悪い影響がないのかとか、調べる必要はありそうだ。
そういうことで、この件は一旦ヒルダと私だけの秘密ということにして、後日図書館で調べることにしたのだった。




