08 奇襲
治承三年二月四日(一一八四年二月四日)。
鵯越。
源九郎義経は麾下七十騎とともに、そこから間道を抜けて、一路、福原をめざしていた。
福原には、平家の棟梁たる平宗盛が、本陣をかまえていた。そして宗盛は、三種の神器、幼い安徳天皇(宗盛の甥)を擁している。
「九郎さま、九郎さま」
義経のかたわらを騎行する法師武者、弁慶は視界の先に、福原を捉えたことを告げた。
「重畳」
義経は馬に鞭をくれる。
史上、一ノ谷の戦いといわれるこの戦いで、彼は今、のちに逆落としとよばれる奇襲攻撃をしかけようとしていた。
かつての平家の都――福原は、源義仲により焼き払われており、今では都とはいえない焼け野原だ。その焼け野原の中に、ぽつねんと、宗盛の本陣がある。
本陣は四方に幔幕を張られていて、それを守るように、平家の武者たちが、そこかしこに屯していた。
その武者たちが、一斉に、矢を放つ。
「躱せ」
義経は短く、切るように言う。
麾下七十騎はその命にしたがい、平家の矢を躱す。
「行くよ」
義経はみずから先陣を切り、平家の軍勢の中を、縦横無尽に駆け、めぐる。
「見えた」
義経は眉庇越しに、幔幕に囲まれた、本陣を捉えた。
愛馬をあおる。
「跳べ」
馬は跳び、軽く幔幕を越えた。
眼前に、平宗盛、二位尼(宗盛の母・平時子)、三種の神器、そして幼い帝。
「やっと見つけた」
単騎で踊り込んだ義経に、宗盛は驚倒したが、次の瞬間、口ひげをふるわせながら、「誰かある」と叫んだ。
「痴れ者めが。わざわざここまで来たことは褒めてやる。だが終わりだ。ここで汝のいのちを断つ」
「へえ、それは大変だ」
義経は、わらわらと幔幕の向こうからやって来る平家の武者たちを前に、おどけるように肩をすくめた。
「でもまあ、せっかくここまで来たんだ。われこそは源九郎義経、亡き父の仇、取らせてもらうよ」
素早く弓をかまえ、矢筒から矢を取り出し、つがえる義経。
宗盛はその矢の、矢じりの向いた先に――驚愕した。
「う、嘘だろう」
「さあ、平家を真っ逆さまに落とすよ。逆落としにね」
そううそぶいて、義経は矢を向けた――安徳天皇に。
「やめろ、帝に」
宗盛は安徳天皇を引き寄せようとしたが、かまわず射た。
「あっ」
一瞬。
宗盛が間に合わないかと思った一瞬、二位尼が素早く動き、その身で安徳天皇を覆った。
「おや」
義経の矢は、二位尼の袖を射抜いた。
だが義経は特に残念がる素振りを見せず、二の矢をかまえた。
「どうにも僕は弓は弱いし、不得手でね。じゃ、次行こうか」
「ま……待て」
今度は宗盛が二位尼に覆いかぶさる。そして叫んだ。
「誰ぞこの者を相手せよ! 帝を守り参らせよ!」
それまで硬直していた平家の将兵であるが、この声を聞いて、義経へ襲いかかる。
そこを追いついた弁慶が薙刀を振るった。
「九郎さま麾下、一の武者、武蔵坊弁慶ここにあり! 今ぞ、われら一万騎が九郎さまと共に!」
「い、一万騎」
宗盛がうめく。
それは事前に物見を通じて知られていた、義経が鵯越で軍を分ける前の人数である。
だが今は七十騎しかいないが、宗盛にはそれを知りようがない。
むしろ、それだけの後衛がいるからこそ、こうして大将の義経がみずから攻め込んで来たのだ──と思った。
思ってしまった。
「や……やめろ」
宗盛は思わず口走る。
そうしている間にも、義経は二の矢を放ち、宗盛がかろうじて太刀で払った。
「へえ、頑張るじゃないか。でも、逃がさないよ」
「よせ、帝だぞ、子どもだぞ」
宗盛はあえぐように言った。
おそれおおいとは思わないのか。
かわいそうだと感じないのか。
「全然」
義経はあっさりと答える。
「そも、わが父・義朝はお前たち平家によって死んだ。そのかたきとして、その子を殺めて、何が悪い?」
平治の乱に敗北した源義朝は、平清盛に勝てず、敗走のあげくに、家人に裏切られて死んだ。
それならわが首を討てと宗盛は言おうとした。
だがその前に。
「だいたい、お前たち平家はその子を帝と戴いているが」
義経は決定的なひとことを放つ。
「実は贋者なんじゃないか」
「何を……世迷言を!」
「世迷言なもんか」
義経は三の矢を矢筒から出しながら言った。
「だってお前たち平家は、その子が帝でなければ、ただの神器偸盗だから」
「えっ」
これは安徳天皇の声である。
「帝、耳を貸さないで候え」
二位尼が叫ぶ。
義経は容赦無く三の矢を射た。
二位尼は安徳天皇を突き飛ばす。
矢は安徳天皇のいた場所に突き刺さった。
「そら、平家の肝は帝、あなただ。あなたが本物ならなおさら、ここで討たせてもらうぞ。そうすれば平家は逆しまに落ちる。真っ逆さまに。逆落としだ」
「ぐ……」
宗盛と二位尼は歯噛した。
源氏は三種の神器がねらい。
そう思っていた。
だが、この目の前の源九郎義経とやらは。
「さあさあ! 贋者ならそれで良し! 見逃して進ぜよう! でなければその首、いただくぞ!」
安徳天皇という──平家の擁する帝さえ討ってしまえば良いということに気がついた。
安徳天皇さえいなければ、三種の神器など、何の意味も無い。
それどころか、平家はただ、神器を不当に占有する逆賊に堕ちる。
「帝、帝、落ち着かれませ」
二位尼が必死に安徳天皇を宥める。
宗盛はもうこれ以上、この場にいることに限界を感じた。
一万騎と聞いたが、そうすぐには来るまい。
それならば。
「退け! 退けい! 海に出るぞ! 舟へ!」
宗盛は麾下の将兵を義経に当たらせる。
義経は冷笑して、逃げるか、嘘の帝と認めるかと言いつのった。
「かまうな! 帝、急ぎ御座船へ!」
こうなっては、生田口の知盛や塩屋口の忠度、夢野口の教経を呼び寄せている暇はない。
宗盛は必死になって、義経から逃げ、海へ海へと、遁走していった。




