09 エピローグ
「行ってしまいましたな」
弁慶は手で庇を作って、遠く海の方につづく道を見はるかす。
紅き旗をなびかせ、ひたすらに逃げていく平家の軍勢が、だんだん、だんだんと、点のようになっていく様子が見えた。
「うん、行ってしまったね」
義経は満足そうに笑った。
彼のねらいは、実にこれであった。
平家の肝──安徳天皇をねらい、おそらくはそのそばに近侍する宗盛を撤退せしめる。
「さすれば、今、戦っている、それぞれの『口』の平家の軍も退かざるを得ない」
何しろ、本陣にかまえているべき大将の宗盛が退いたのだ。
守るべき安徳天皇を連れて。
「なんのために戦うのか。誰が恩賞をよこすのか。そう思ってしまった将兵は、もう戦えないね」
義経は馬首をめぐらす。
次なる戦場に向かうために。
「さあ、行こう。福原は落ちた。生田口は範頼の兄上が、夢野口は多田と安田が戦っている。兄上の功を奪うべきではないし……そうだね塩屋口に、一ノ谷にしよう。熊谷と土肥は苦戦してそうだし、助けに行くから頑張れって言っちゃったしね」
義経が片手を挙げて、号令を下そうとしたその時、ふと弁慶は気になって、つい主に声をかけた。
「九郎さま」
「何だい」
「九郎さまは、嘘ではなく、本当にあの平家の帝を討つつもりだったのですか」
ほんものの殺意。
それが感じられたからこそ、宗盛は逃走を選んだのでは。
「ああ弁慶、お前は本当によく気がつく扈従だ」
義経は微笑む。
それは何ともいえない微笑みで、弁慶には、義経の本気がどこにあるか図りかねた。
「……まあそうだね。討とうとはしたよ。でも、むかし牛若丸という童を殺さなかった平家に、ほんのちょっとばかり、恩を返してあげようと思った」
義経は勢いよく片手を振り下ろし、出撃を命じた。
当然の如く先頭を行く義経の表情は見えない。
しかし弁慶は、今の言葉に嘘は感じなかった。
むしろ、出会った頃の――牛若丸だったあの日の義経と、変わらぬまことを感じた。
だからこそ、どこまでもついていこうと思った。
そして弁慶もまた、駆けていく。
あの方の嘘ではない心情を知る自分こそが、支えねばと思いながら。
【了】




