04 夜襲
そういう宗盛をあざ笑うかのように、後白河法皇は頼朝にある宣旨を下した。
「疾く三種の神器を取り戻せ。平家を討て」
と。
これを受けて、寿永三年二月四日、範頼と義経が、平家の追討に向かうことになった。
「言わないことではない」
知盛は激昂した。
今すぐにでも、鎌倉勢を討ち果たし、京へ攻め入らんというぐらいに勢いで。
「兄上、いかがする」
いかがすると言われても困る。
それが宗盛の素直な心境である。
ただ、源氏が攻めて来るのは事実である。
宗盛は、膝の上にいる安徳帝を見た。
この子を守らねばならない。
「……しかたあるまい」
宗盛は知盛に攻撃の許しを与えた。
知盛は早速、平資盛に一軍を与え、播磨の三草山に向かわせた。
「よいか、範頼の方は摂津から海沿いに福原をめざしている。されど、そう見せかけて、義経の方が丹波から山道を来る。そこを三草山で迎え撃つのだ」
知盛は見抜いていた。
宇治川、粟津のように、源氏が二手に分かれ、双頭の蛇により、福原の平家にはさみうちをしかけようとしていることを。
「義経の方が数が少ない。山道を行くのだ、少数で来よう」
そこを三草山で迎え撃つというのが、知盛の作戦だ。
三草山は丹波との国境にあり、丹波から播磨に入るには、ここを通る必要がある。
つまり、義経がかならずあらわれる地点だ。
加えて、険しい山、深い谷に囲まれており、守るには適した地でもある。
「よいか資盛、疾く行きて、三草山に陣せよ。追って誰ぞ将と兵をよこすゆえに」
知盛としては、三草山で義経を破り、そのまま山道を逆行して、長駆、京へと進出する目論見である。
そうすれば、海沿いに進む大手軍の範頼も立ち止まるを得ず、それどころか反転して京へ戻ろうとするかもしれない。
「そこを叩く。さすれば、平家の勝ちぞ。そのためにも、頼んだぞ、資盛」
資盛は早速に三草山に至り、その西に陣をかまえた。
その頃義経も三草山を目の前にしていたが、いち早い平家の動きに、軍を止めた。
「さすがに早いね。さて、どうするか」
義経は三草山の東に陣を張り、にらみ合いのかたちを取った。
だがこのまま止まるつもりはない。
義経は、範頼から聞かされていた、矢合わせのことを思い出していた。
矢合わせとは、この時代のいくさの作法のひとつで、戦う前にどちらかの大将が鏑矢を放ち、放たれた側の大将もまた、それを受けて鏑矢を放ち、それをもっていくさを始める、というものである。
「範頼の兄上によると、矢合わせは七日。今は四日」
というか、その四日――二月四日こそ、義経が範頼から分かれて進撃を開始した日であり、つまり義経は、一日のうちに京から摂津、そして丹波を経て、この播磨の入り口にまで至った、ということである。
「……ということは、あの平家の資盛とやらも、七日だと思っている」
矢合わせはその性格上、双方の合意に基づいて始まる。
つまり、範頼はすでに平家に矢合わせの日を伝えており、平家もまた、範頼にその日でいいと答えているのだろう。
「じゃ、それを嘘にしちゃおうか」
義経はあっさりとその夜の夜襲を決断、平家側はいくさはまだと甲冑を脱いで休んでいたところを攻められ、這う這うの体で逃げ出してしまう。
「よし、追え」
それこそが、福原へ至る道の道案内となるだろう。
弁慶は、その判断に舌を巻きながらも、異を唱えた。
「よろしいのですか」
「何が」
この、五条大橋でやり合って以来の扈従が、義経は嫌いではない。
だからいつも直答を許している。
「かように矢合わせの日を破り、攻めてしまって」
言外に、平家に警戒され、逆襲されるのではないかと言っている。
何しろ、範頼の五万六千に比べ、義経は一万。
数万はいるとされる平家が襲いかかってきたら、目も当てられない。
現に平家は、山道を行く義経の方へ兵を差し向けていたではないか。
「大丈夫だよ」
義経は笑う。
「もうすぐ……後白河院の、いや、鎌倉の兄上かな? その最大の嘘が、平家に届く」
だから大丈夫だ、と義経はまた笑った。




