↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/9

02 都落ち

 寿永二年(一一八三年)七月。

 平家は源義仲の嵐の如き侵攻に耐え切れず、京の都を捨てた。

 それは都落ちといわれ、平家は落ちのびた先の九州大宰府でも勢力を保つことができず、結局九州からも逃げる羽目になった。

 四国の屋島に落ち着いたものの、そこへ義仲の追っ手が差し向けられる。しかし、これを宗盛の弟・知盛が備中水島にて撃破して、事なきを得た。

 そして平家の逆襲はここから始まる。

 この時、義仲は鎌倉の源頼朝との対立を深め、西国にまで目を向ける余裕がなくなっていた。

 この状況に利して、平家は長門の彦島を押さえ、西の彦島から、東の屋島までの、瀬戸内海の制海権を手に入れる。

「今ぞ。義仲は頼朝とにらみ合(お)うておる。今こそ、福原をめざすとき」

 平家は備前に進出し、海上交通の要・室の津を手に入れ、これを機に、かつて遷都を目論んでいた、福原をめざすこととした。

 これにはさすがの義仲も、頼朝とのにらみ合いの中、一軍を割いて室の津に差し向けたが、またしても知盛に撃破されてしまった(室山の戦い)。

「見よ。朝日将軍(義仲の官位)とやらも大したことはない」

 意気軒昂。

 知盛の心境は、まさにその四文字だった。

 そして室の津から東進し、福原どころか、一挙に都を手中にしよう。

 知盛はそう言って平家の面々を説いた。

 が、宗盛は頑強に反対した。

「時期尚早である。都に盤踞(ばんきょ)する義仲と戦うのか。それでは、平家と義仲が共倒れして、頼朝のひとり勝ちではないか」

 宗盛は何も慎重論を唱えてばかりではいなかった。

 彼は、義仲との和平を模索していた。

 義仲もまた、東国にて着実に領域を広げつつある頼朝への脅威から、平家との和平をめざしたが……。

「義仲と院(後白河法皇のこと)が合戦?」

 法住寺合戦。

 後白河院が頼朝と接近していることに業を煮やした義仲は、院の御所である法住寺殿を襲い、院を幽閉、政権を奪ってしまった。

 室山の戦いと前後しておこなわれたこのクーデターに、宗盛は和平の道をあきらめざるを得ず、また、知盛も事態を静観せざるを得なかった。


 明けて寿永四年(一一八四年)一月、事態は急変する。

 かねてから院との接近を図っていた頼朝が、弟の義経を派した。

 この時義仲は、東国は飢饉により兵がいないという話を聞いていた。

 当時、養和の飢饉という大飢饉が発生しており、それにより平家の兵が飢えていたことが、義仲が平家に勝った原因といわれていた。

 義仲は米どころである北陸を押さえており、兵糧には余裕があった。

 だから義仲はその話を信じた。

 が、あらわれた義経の二万五千騎という大軍を目にして、その話が嘘だと知った。

 嘘を吹き込んだ張本人のことも。

「くそっ、頼朝め! よくもこんな嘘を信じさせおって!」

 歯噛みする義仲だが、麾下千騎を率い、宇治川にてよく戦った。

 しかし衆寡敵せず、義仲は北陸へ脱出を図る。

 そこを頼朝のもう一人の弟、範頼の三万騎に捕捉され、ついに粟津にて討たれた。

 このことにより、頼朝が都を押さえたことになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。