02 都落ち
寿永二年(一一八三年)七月。
平家は源義仲の嵐の如き侵攻に耐え切れず、京の都を捨てた。
それは都落ちといわれ、平家は落ちのびた先の九州大宰府でも勢力を保つことができず、結局九州からも逃げる羽目になった。
四国の屋島に落ち着いたものの、そこへ義仲の追っ手が差し向けられる。しかし、これを宗盛の弟・知盛が備中水島にて撃破して、事なきを得た。
そして平家の逆襲はここから始まる。
この時、義仲は鎌倉の源頼朝との対立を深め、西国にまで目を向ける余裕がなくなっていた。
この状況に利して、平家は長門の彦島を押さえ、西の彦島から、東の屋島までの、瀬戸内海の制海権を手に入れる。
「今ぞ。義仲は頼朝とにらみ合うておる。今こそ、福原をめざすとき」
平家は備前に進出し、海上交通の要・室の津を手に入れ、これを機に、かつて遷都を目論んでいた、福原をめざすこととした。
これにはさすがの義仲も、頼朝とのにらみ合いの中、一軍を割いて室の津に差し向けたが、またしても知盛に撃破されてしまった(室山の戦い)。
「見よ。朝日将軍(義仲の官位)とやらも大したことはない」
意気軒昂。
知盛の心境は、まさにその四文字だった。
そして室の津から東進し、福原どころか、一挙に都を手中にしよう。
知盛はそう言って平家の面々を説いた。
が、宗盛は頑強に反対した。
「時期尚早である。都に盤踞する義仲と戦うのか。それでは、平家と義仲が共倒れして、頼朝のひとり勝ちではないか」
宗盛は何も慎重論を唱えてばかりではいなかった。
彼は、義仲との和平を模索していた。
義仲もまた、東国にて着実に領域を広げつつある頼朝への脅威から、平家との和平をめざしたが……。
「義仲と院(後白河法皇のこと)が合戦?」
法住寺合戦。
後白河院が頼朝と接近していることに業を煮やした義仲は、院の御所である法住寺殿を襲い、院を幽閉、政権を奪ってしまった。
室山の戦いと前後しておこなわれたこのクーデターに、宗盛は和平の道をあきらめざるを得ず、また、知盛も事態を静観せざるを得なかった。
明けて寿永四年(一一八四年)一月、事態は急変する。
かねてから院との接近を図っていた頼朝が、弟の義経を派した。
この時義仲は、東国は飢饉により兵がいないという話を聞いていた。
当時、養和の飢饉という大飢饉が発生しており、それにより平家の兵が飢えていたことが、義仲が平家に勝った原因といわれていた。
義仲は米どころである北陸を押さえており、兵糧には余裕があった。
だから義仲はその話を信じた。
が、あらわれた義経の二万五千騎という大軍を目にして、その話が嘘だと知った。
嘘を吹き込んだ張本人のことも。
「くそっ、頼朝め! よくもこんな嘘を信じさせおって!」
歯噛みする義仲だが、麾下千騎を率い、宇治川にてよく戦った。
しかし衆寡敵せず、義仲は北陸へ脱出を図る。
そこを頼朝のもう一人の弟、範頼の三万騎に捕捉され、ついに粟津にて討たれた。
このことにより、頼朝が都を押さえたことになる。




