6 僕たちのシナリオには正解なんていらない
「水野さん! 今日の合唱の伴奏、すごく良かったよ!」
音楽室からの帰り道。廊下でクラスの女子たちに声をかけられ、私は足を止めた。
胸の奥に一瞬だけ昔の予兆のような緊張が掠めたけれど、すぐに心地よい風のように消えていった。
「ありがとう! 実はすごく緊張して、途中で指が震えちゃったんだけどね」
私は素直に笑って答えた。80点の計算された笑顔でも、害のない振りをした謙遜でもない。失敗したことも恥ずかしかったことも、そのまま言葉にできる「今の私の笑顔」だ。
「全然分からなかったよ! 水野さんって、最近すごく話しやすくなったよね」
「うん、なんというか……すごく雰囲気が柔らかくなった!」
楽しそうに笑い合いながら去っていく同級生たちの背中を見送り、私はそっと胸に手を当てた。
(私……ちゃんと、この世界に立ってる)
誰かが用意した「正解のシナリオ」に従うのをやめてから、世界はこんなにも優しくて、色彩に満ちていたんだ。失敗してもいい。間違えてもいい。自分の足で歩くということは、こんなにも心が軽くなることだった。
「……フン。すっかりクラスの人気者気取りかよ、水野」
階段の踊り場を曲がると、手すりに肘をついた直が待っていた。部活の着替えが入ったエナメルバッグを肩にかけ、意地悪そうに口角を上げている。
「人気者じゃないよ。ただ……自分の言葉で喋ってるだけ」
「ふーん。まあ、前の『死んだ魚の目』をしてた頃よりは、だいぶマシだけどな」
「死んだ魚の目は余計でしょ!」
私が抗議すると、直は「くくっ」と喉を鳴らして笑った。周りに誰もいないことを確認してから、彼は胸ポケットから小さく折りたたまれた原稿用紙を取り出した。
「ほら。約束の『第20話』……クライマックスのネームだ」
「えっ、もう書き上がったの!?」
私は両手でそれを受け取った。直が夜な夜な部屋のライトの下で、激しい葛藤とロマンを滾らせながら書き上げた、渾身のクライマックスシーン。
紙を開くと、びっしりと走る直の独特な筆跡が目に飛び込んできた。
『「見よ、勇者アルス! 運命の女神が提示した選択肢は二つに一つ! 姫を諦めて世界を救うか、世界を滅ぼして姫を選ぶかだ!」
第一魔女の高笑いが響く。
アルスは血の滲む唇を噛み締め、深く下ろしていた頭を勢いよく跳ね上げた。
その瞳には、運命への怯えなど欠片もなかった。
「ふざけるな! 誰が決めた正解だそんなもの!」
アルスは漆黒の剣を天高く掲げた。
「俺の選ぶ道が、俺の物語の正解だ! 誰かに与えられた運命なんて、この手で切り裂いてやる!!」』
「……っ」
文字を追いかける指先が、微かに震えた。
熱いものが胸の奥から込み上げてくる。ただのコテコテなハイファンタジーの決めゼリフじゃない。これは、直が自分自身の心と戦いながら、そして私の背中を押し続けてくれた言葉そのものだった。
「どうだ……? やっぱり……熱すぎたか……?」
直が照れくさそうに頭をかき、耳を真っ赤にしながら視線を泳がせている。
「最高……最高のクライマックスだよ、直くん」
「……っ! だ、だから恥ずかしいから面と向かって褒めるな! 作者のプライドが崩壊する!」
「だって本当にカッコいいもん! アルスも……これを出力した直くんも!」
直は両手で顔を覆い、階段の壁に額を突っ伏した。
「~~っ! マジで水野の素直すぎる感想、破壊力がエグい……! クラスの男子にバレるより別の意味で命の危険を感じる……!」
「あはは! 大地先生、照れすぎ!」
悶絶する直を見て、私は心から笑った。
かつては「間違えないこと」だけが生きる目的だった。でも今は違う。
完璧な正解なんて、どこにもないのだ。自分が何を選び、どう生きたいか。自分自身のシナリオを紡いでいく覚悟こそが、私たちが手に入れた本当の自由だった。
「なあ、水野」
顔を上げた直の瞳は、夕日の光を受けてまっすぐに私を見つめていた。照れくささは残っていたけれど、そこには「勇者アルス」と同じ、揺るぎない光が宿っていた。
「お前が自分のシナリオを破り捨ててくれたから……俺も、自分が創る世界に胸を張れるようになった気がする」
「……直くん」
「サンキュな。俺の最初の読者(共犯者)になってくれて」
「……ううん。私の方こそ」
風が吹き抜け、放課後の中庭から部活に励む生徒たちの声が届いていた。
誰の期待にも縛られない。誰の作った正解にも従わない。
私たちは二人だけのシナリオを手に、新しい日常へと歩み出していた。
大地直が水野朱梨を庇って円満になった結果は、直がクラスの人気者で、女子のいじめ集団がクラスメイトからも不評を買っていたからかも知れません。
8月に投稿完結した、影追いペアー理不尽を強いる者たちへの反撃ーの三条響も中学時代人気者でクラスの酷いいじめを見かねて庇ったら、中学で孤立することになったので。
運も作用するのかも知れません。




