5 破り捨てられた原稿用紙
あの日以来、私の中で何かが決定的に変わっていた。
「ねえ水野さん。昨日の数学の宿題、ちょっと見せてくれない?」
月曜日の朝。朝のHRが始まる前の教室で、真由のグループのひとりが、どこか恐る恐るという様子で話しかけてきた。
前のように上から目線で命令してくる雰囲気はない。金曜日の直の一撃と、私が初めて見せた拒絶が、彼女たちの勢いを削いだのは明らかだった。
私はノートを胸に抱え、真っ直ぐに彼女の目を見た。
口角を無理に引き上げる「80点の笑顔」は、もう作らない。
「ごめんね。宿題は見せられないよ。分からないところがあるなら、教えることはできるけど」
「え……あ、うん。じゃあ、後で教えてもらおうかな……」
拍子抜けするほどあっさりと、彼女は自分の席へ戻っていった。
(……なんだ。ちゃんと断っても、世界は終わらないんだ)
背中を覆っていた重い甲冑が、はらりと崩れ落ちていくような感覚。
小学五年生の秋からずっと私を縛りつけていた「正解のシナリオ」は、もう破り捨てたのだ。自分の足で、自分の言葉で歩いていく。その解放感に、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
ふと視線を感じて窓際に目をやると、男子たちとサッカーの話をしていた直が、こちらを見ていた。彼と目が合うと、直はニッと口角を上げ、満足そうに親指を立ててみせた。
その小さなサインだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……で、作者様。今日の放課後のアジェンダは何でしょうか?」
放課後。夕日の差し込む放課後の図書室、人が滅多に来ない奥の閲覧スペース。
私がノートを開いて尋ねると、直は向かいの席で頭を抱え、絶望的な顔で机に伏した。
「助けてくれ……水野……。『ルナ』の気持ちがさっぱり分からねえ……」
「勇者アルスくん、早くも行き詰まり?」
「笑うな! バトルシーンはいくらでも書けるんだよ! だけど……ヒロインが素直になれないでツンツンしてるのに、急にデレる心理描写が……男子の俺には難易度最高難易度なんだよ!」
直はスマホの画面を私に見せてきた。そこには『クリスタル王国の誓い』の第15話のプロットが画面いっぱいに並んでいる。
『魔女の罠から自分を救ってくれたアルスに対し、ルナは感謝を伝えたいが強がってしまう。ここでルナが取るべき胸キュンな行動とは?』
「うーん……」
私は顎に手を当ててプロットを読み込んだ。
「ルナってさ、本当はすごく傷つきやすくて、周りに弱みを見せたくない女の子でしょ? 急に『ありがとう! 好き!』なんて言えるわけないじゃない」
「じゃあどうすんだよ! 感謝も伝えないでスルーしたら、ただの嫌な奴だろ!」
「そうじゃないよ。言葉にできないから、行動に出るの」
私はペンを取り、直のメモ帳の余白にサラサラとアイデアを書き殴った。
「例えば……アルスが戦いで怪我をした手首に、ルナが自分のハンカチを黙って巻き付けてあげるとか。『勘違いしないでよね、血で服が汚れるから貸しただけだから』って言いながら。でも、結び目はすごく丁寧に結ばれてるの」
直は固まった。
目を丸くしてメモ帳を見つめ、それから私を凝視した。
「……お前、天才か?」
「天才じゃないよ。女の子の素直になれない気持ちが、ちょっと分かるだけ」
「すげえ……! それだ! 『血で汚れるから』って言い訳しつつ、結び目が丁寧……! 完璧だ、それ採用!」
直は猛烈な勢いでスマホのフリック入力を始めた。その瞳は、昼休みに見せたあの「世界を創り出す創造主」の情熱的な光で輝いている。
自分のアイデアが、直の創り出す物語の一部になっていく。
誰かが作ったシナリオに怯えて生きるのではなく、自分の想像力で誰かと一緒に新しい世界を組み上げていく快感。
(あ……これ、すごく面白い……!)
直が「誰にも言えない」と言っていた意味が、私にも分かった気がした。こんなに自由に、自分の心を描き出せる場所があるなんて。
「……なあ、水野」
夢中でキーボードを叩いていた直が、ふと手を止めて呟いた。
「なに?」
「このルナの『本当は弱くて傷つきやすいのに、一生懸命強がってるところ』さ……」
直は気まずそうに視線を泳がせ、耳を真っ赤に染めながらボソッと言った。
「……なんとなく、お前に似てる気がすんだよな」
「え……?」
心臓が、跳ね上がった。
「あ、いや! 変な意味じゃなくて! 最初はおとなしくて何考えてるか分からない奴だと思ってたけど……自分の気持ちを言おうと頑張ってるところとか、たまに意地はるところとか……なんか、重なるっていうか……」
直は慌てて手を振って弁明しようとするが、墓穴を掘るように顔を真っ赤にしている。
『君の涙は、俺の命よりも重いんだから——!』
直が小説の中で描いた勇者アルスのセリフが、脳裏を過ぎる。
あの情熱的な言葉も、この繊細な恋心も、全部直の胸の中から生まれたものだ。
(直くんは……私のこと、そんな風に見てくれてたんだ……)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて甘酸っぱい痛みが走る。
ただの「共犯者」だったはずなのに。彼の創る世界の中に自分の存在を感じて、息が止まりそうになる。
「……ねえ、大地くん」
「な、なんだよ」
「ルナはね……アルスが助けてくれたこと、本当はすっごく感謝してると思うよ」
私は照れくささを隠すように、ノートで顔の下半分を隠しながら微笑んだ。
「言葉にするのは照れくさいけど……自分の世界のヒーローになってくれたこと、忘れないと思う」
直は目を見開き、それからカッと顔を火照らせて、勢いよく机に突っ伏した。
「〜〜〜〜っっっ! 恥ずかしすぎる会話禁止! 本日の執筆作業、終了ー!」
「あはは! 作者様、逃げないでよ!」
図書室の夕闇の中で、二人の低い笑い声が重なった。
周りの目を気にして透明な仮面をかぶっていた毎日は、もうどこにもない。
私たちは確かに、二人だけの新しいシナリオを書き始めていた。
気を遣ったら相手にもそれが伝わり、ギクシャクしてしまいますよ。
かといって、小学生の頃の朱梨のように地を出していたら、睨まれたりとか。
コミュニケーションブレイクダンスですよね。
(何年か前のJPOPですが)
自分なりの交流スタイルがあると思いますが、正解なんてないので。自分がこれで行くと思えば良いですよ。




