4 鏡の中の顔(決めゼリフはPVのために?)
金曜日の放課後。雨の匂いが混じる暗い廊下で、私の「正解のシナリオ」は限界を迎えていた。
「ねえ水野さん。今日の実験のレポート、月曜日までに全員分まとめておいてくれるって言ったよね?」
特別教室棟の角。真由たち三人に囲まれ、壁に背中を押しつけられる。手渡されたのは、彼女たちの白紙に近いレポート用紙だった。
「え……でも、グループ全員で分担して書く約束じゃ……」
「だって水野さん、放課後暇でしょ? いつも大地くんのことチラチラ見てるくらいなら、これくらいやってくれたってよくない?」
クスクスと意地悪な嘲笑が響く。
冷たい汗が背中を伝う。息がうまく吸えない。
(ダメだ……反論しちゃダメ。ここで波風を立てたら、もっと嫌がらせが酷くなる……)
脳内で警戒アラートがけたたましく鳴り響く。私は必死に口角を引き上げ、震える声で「正解のセリフ」を吐き出そうとした。
『うん、分かった。やっておくね』——そう言えば、とりあえず今日のところは解放される。また自分を殺して、80点の笑顔を作れば——。
「……嫌、だよ」
掠れた声が、自分の口から漏れた。
真由たちがピタリと笑いを止める。「は? 今なんて言ったの?」
「嫌です。自分のレポートくらい、自分で書いてください」
言っちゃった。ついに間違えてしまった。
心臓がバクバクと暴れる。恐怖で足がすくむ。けれど、脳裏に浮かんだのは、あの夕暮れの公園で真剣にスマホに向かっていた直の顔だった。
『自分の足は、自分が歩きたい場所へ行くためにあるんだろ!』
(私……もう、自分を殺してまで笑いたくない……!)
「なんなの、急に生意気! 大地くんにちょっと優しくされたからって調子に乗ってんじゃないよ!」
真由が眉を吊り上げ、私の肩を力任せに押し飛ばした。
視界が揺れ、床へ倒れ込みそうになった——その瞬間。
バサッ、と激しい音を立てて、誰かの手が私の腕を強く引き上げた。
「……っと、危ねえな」
低い、聞き覚えのある声。
勢いよく引き寄せられた胸元から漂うのは、汗と石鹸の匂い。見上げると、そこにはいつもの爽やかな笑顔を完全に消した、大地直が立っていた。
「だ……大地くん!? なんでここに……」
真由たちが一瞬で動揺し、顔色を変える。
直は私を自分の背中に庇うと、ゆっくりと真由たちに向き直った。その瞳は冷たく澄み渡り、まるで敵対する魔女を見下ろすような、圧倒的な圧力を放っている。
「……何してんの、お前ら」
「ち、違うの大地くん! 水野さんが急に怒り出して……うちらはただ普通に喋ってただけで……」
必死に言い訳を並べ立て、可哀想な被害者を演じようとする真由たち。
直は静かに息を吐くと、ポケットに両手を突っ込んだまま、真顔で言い放った。
「くだらねえ。見てて反吐が出そうだわ」
「え……?」
「人のこと囲んでニヤニヤ嫌がらせしてさ、バレそうになったら被害者ぶるのか? ——おい」
直は一歩踏み出し、真由たちの目を真っ直ぐに見据えた。
「なんですって〜?!大地くんだって、ちょっと走るのが速いからって、俺はノア・ライズ(世界陸上100m走選手)だんて豪語しちゃって…」
「ちがう!俺はそんなこと一言も言っていないぞ!、いじめの次はデマ流しか〜!、俺は、ノア・ライズみたいにもっと速く走れるようになりたいと、山田と話していただけだ〜!」
ノア・ライズ選手は日本のアニメ好きでも有名だ。
「お前ら、デタラメばかりじゃないか!」
直はそこで一呼吸ついた。そして、
「その顔を鏡で見てからにしな!!」
ときっぱりと怒気を含んで言い放った。
ーーー静寂が、廊下を支配した。
「……っ!?」
真由たちはあまりの衝撃に言葉を失い、顔を真っ赤にして固まっている。クラスの人気者、誰にでも優しいはずの大地直から突きつけられた、痛烈すぎる一撃。
「行くぞ、水野」
直は私の手首をつかむと、呆然とする彼女たちを置き去りにして、迷いのない足取りで歩き出した。
廊下を抜け、誰もいない階段の踊り場まで来ると、直はようやく足を止めた。
「……大丈夫か?」
「あ……うん。ありがとう、大地くん……」
胸が熱くて、涙が溢れそうだった。
助けてくれた。あの恐怖の渦から、私を引き上げてくれた。まるで本当に、物語の中の勇者様みたいに。
「私……間違えちゃった。あそこで断ったらダメなのに、嫌だって言っちゃって……」
「間違えてねえよ」
直は私の頭にポンと手を置いた。
「正解だったよ。お前が自分の言葉で言えたんだから、絶対正解だ」
その温かい言葉に、ついにポロポロと涙がこぼれ落ちた。私は何度も頷きながら、泣き笑いの顔で直を見上げた。
「……うん! ありがとう……本当にカッコよかったよ、大地くん。『その顔を鏡で見てからにしな!』ってセリフ……すごかった……!」
私がそう言った瞬間。
直の身体が、ビクッと硬直した。
「……え?」
「……あ」
直の顔から、さっきまでの勇者らしい凛々(りり)しさがサーッと引き引いていく。代わりに、みるみるうちに耳の先まで真っ赤な血が上っていく。
「だ……大地くん……?」
直は両手で顔を覆うと、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「言った……俺、言っちゃった……! 現実で言っちゃったあああああっっっ!!!!」
「ええっ!? なに、どうしたの!?」
「忘れろ! 今のセリフ忘れろ水野! 頼むから脳内再生すんな!!」
直は絶望の表情で私を見上げてきた。
「あれ……『クリスタル王国の誓い』の第12話で、勇者アルスが第一魔女に言い放つ予定のクライマックスの決めゼリフなんだよ……っ! 昨日の夜、部屋の電気消して悶絶しながら考えたやつなんだよ……っ!」
「……っ!?」
時間が止まった。
つまり。さっきのあの超絶カッコいいヒーローの登場シーンは——。
「テンパってて……! 朱梨が押されてるの見て頭真っ白になって、咄嗟に出てきた一番強い言葉がそれしかなかったんだよ! クソッ、現実で言うと恥ずかしすぎて死ぬ! PV稼ぐために温めてたセリフなのにー!!」
頭を抱えて悶絶する直。
さっきまでの感動と涙が、一瞬で吹き飛んだ。
「ふ……ふふっ……あはははは!」
「笑うな! こっちは真剣に社会的死を迎えてんだぞ!」
「だって……あはは! カッコよかったよ! 勇者アルスくん!」
「名前で呼ぶなー!」
真っ赤になって抗議する直の姿を見て、私は心から笑った。
もう、「正解のシナリオ」なんていらない。
失敗しても、間違えても、こんな風に笑い合える秘密の居場所があるのだから。
雨上がりの窓から差し込んだ夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。
大地直、やっちゃいましたね。
ーーその顔を鏡で見てからにしな!
でも、いじめ被害者は男性でも女性でも、直のように庇ってくれたらとても嬉しいと思いますよ。
拡大解釈してデマを平気で流すいじめっこはいますね。
お気をつけください。
大地直のこの決めセリフは、私が常々思っていたことでもあります。
女性のいじめっこは集団になってとても傍若無人で偉そうだからです。だから、私はこの大地直のセリフのように思っていました。笑。いじめっこ集団は女性ですし。




