3 間違えられないテスト
あの夕暮れの公園から数日。
学校での大地直は、相変わらず「クラスの人気者」だった。休み時間になれば男子に囲まれてスポーツの話で盛り上がり、女子から話しかけられれば爽やかに笑って応えている。
けれど、私と視線が交差するほんの一瞬だけ、彼は誰にも気づかれないように眉をキュッと下げ、口パクで『言うなよ』と圧をかけてくる。
(……言わないってば。あんな激甘ポエムなファンタジー、私だって誰にも言えないよ)
心の中でツッコミを入れながら、私は小さく息を吐いた。
でも、私の周囲の空気は、日を追うごとに着々と濁っていた。
「ねえ水野さん。次の理科の実験、グループ決まった?」
放課後、プリントを配っていた真由が、私の机の前にすっと立ちふさがった。後ろにはいつもの女子二人が並んで、値踏みするような視線を投げてくる。
「あ……ううん、まだだよ」
私はとっさに口角を上げ、完璧な「80点の笑顔」を作った。
「じゃあ、うちらの班入る? でもさ、水野さんって放課後いつも残ってるけど……誰かとお喋りするのに忙しいなら、実験の準備とか全部やってもらおうかなって」
クスクスと漏れる嫌味な笑い声。
(……やっぱり、直くんと話してたのを見られたのが原因だ)
小5の記憶がフラッシュバックする。
『媚び売ってる』『調子に乗ってる』。一度目つけられたら、どんな行動も悪意に変換される。ここで反論したら余計にこじれる。波風を立てず、相手の要求を飲んで「害のない存在」でいること。それが正解の立ち回りだ。
「うん、準備なら私がやっておくよ。気にしないで」
「ホント? 助かるー! さすが水野さん、気が利くね」
満足そうに去っていく真由たちを見送り、私はふうと胸の奥に溜まった冷たい息を吐き出した。
これでいい。これでテストは合格だ。間違えなかった。
「……おーい、水野」
不意に上から低い声が降ってきて、私は肩を跳ね上げた。
振り返ると、教卓の影から直が顔を出していた。周りに誰もいないのを確認してから、彼は呆れたように眉をひそめて近寄ってくる。
「お前さ……さっきの、なんでへらへら笑って受けてんだよ」
「へらへらって……違うよ。これが一番角が立たないから」
「角が立たないねえ……。押し付けられてるだけだろ」
直は手に持っていた単語帳で自分の頭をポカポカと叩きながら、椅子を引っ張り出して私の目の前に座った。
「いいか? 水野。俺の小説なら、ああいう理不尽な要求をしてくる奴は、だいたい序盤で魔女の使い魔に踏み潰される悪役だからな。即アウトだぞ」
「ここはファンタジー世界じゃないの! 現実の中学生なの!」
思わず声を潜めて反論すると、直は「分かってるよ」と不満そうに口を尖らせた。
「でもさ、見ててイライラすんだよ。お前、いつも『間違えないためのセリフ』ばっかり選んでるだろ。テストの回答用紙じゃねえんだからさ」
言葉が胸に刺さって、私は視線を落とした。
「……間違えたら、誰もいなくなるんだよ。みんなに嫌われて、無視されて、透明人間みたいになるの。それが怖いから……正解を選ぶしかないの」
直は一瞬、言葉を詰まらせた。
気まずい沈黙が流れる。教室の窓から差し込む西日が、二人の間の床を長く橙色に染めていた。
直は胸のポケットからスマホを取り出すと、慣れた手つきで画面をフリックし始めた。
「……これ、読め」
「え?」
差し出された画面には、例の『サンシャイン・ノベル』の最新原稿が表示されていた。
『勇者アルスは、足枷を嵌められた姫ルナに向かって叫んだ。
「自分を縛る鎖の鍵を、なぜ敵に渡しているんだ! 奪い返せ! 君の足は、君が歩きたい場所へ行くためにあるんだろ!」』
「……これ」
「昨日の夜、二時までかかって書いたシーン」
直は顔をプイッと横に向け、真っ赤になった耳を隠すように首をすくめた。
「まあ……その、お前のこと思って書いたわけじゃねえぞ!? たまたまプロットの展開上、ルナがウジウジ強がってるシーンが必要だっただけで……!」
必死に言い訳する直の横顔を見て、私は思わず唇を噛みしめた。
照れ隠しの暴言の裏に、彼なりの不器用なエールが詰まっているのが分かってしまったから。
「……『君の足は、君が歩きたい場所へ行くためにある』……か」
「な、なんだよ! 恥ずかしいから音読すんな!」
「ふふ、勇者アルスくんは相変わらずロマンチストだね」
「笑うな! マジで水野以外に見られたら俺の社会的生命が終わるんだからな!」
直は頭を抱えて悶絶し、私は声を押し殺して笑った。
誰にも言えない秘密を抱えた、二人だけの時間。
クラスでの息苦しい立ち回りの中で、直の書くコテコテでまっすぐな言葉だけが、私の心に固く結ばれた結び目を少しずつ解いていくようだった。
「……ありがとう、直くん」
「……直くんって呼ぶな。学校では大地って呼べって言っただろ」
「はいはい、大地くん。原稿、面白かったよ。続き楽しみにしてるね」
「……当たり前だろ。作者を誰だと思ってんだ」
直はフンと鼻を鳴らしたけれど、その口元は嬉しそうに緩んでいた。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
私が「正解の立ち回り」でやり過ごそうとしていた嫌がらせが、私の予想を遥かに超える形でエスカレートしていくことを。
そして、私の「正解のシナリオ」が完全に破綻する瞬間が、すぐそこまで迫っていることを——。
人気者の男子と談笑したくらいで女子たちから睨まれるというのはあるあるですよね。




