1 太陽みたいな人気者と警戒心だらけの私
「あ、大地くん。今日の数学のノート、貸してくれてありがとう」
放課後、夕日がオレンジ色に染め上げる教室。日直の仕事で残っていた私は、教卓の横で直にノートを差し出した。
できるだけ短く、丁寧に、余計な感情を乗せずに。
これが男子と接する時の私の「鉄則」だ。目を見つめすぎず、かといって不自然に逸らさず、声を張り上げず、笑顔は引きつらない程度に抑える。
「ん? ああ、全然いいよ! 水野、体調崩して休んでたもんな」
直は部活前の体操服姿で、ノートを受け取ると爽やかに笑った。その屈託のない笑顔を見るたび、私の胸の奥に小さな警戒アラートが鳴り響く。
ダメだ。親しくなってはいけない。
(……思い出すだけで、指先が冷たくなる)
小学五年生の秋の記憶が、脳裏を掠める。
あの頃の私は、男子とも女子とも分け隔てなく接する、明るくて素直な性格だった。サッカーが大好きで、男子の輪に入って夢中でボールを追っていた。
だけど、ある日突然、周りの女子たちの視線が冷え切った。
『朱梨ちゃんってさ、男子の前だと急に声高くなるよね』
『ホントそれ。媚び売っててマジで引くわ』
『男子とばっか仲良くして、うちらのことバカにしてるんじゃない?』
一度貼られた「ぶりっ子」「目立ちたがり」というレッテルは、剥がれることはなかった。昨日まで笑顔で話していた友達が、一斉に私を無視し始めた。影でコソコソ笑われ、机に嫌がらせの落書きをされたあの数ヶ月。
(あんな思い、二度と御免だ)
だから中学に入ってからは、自分を殺すことに決めたんだ。男子とは必要最低限しか話さない。「おとなしくておとなしい、害のない女子」でいること。それが、私が平穏に生き残るための「正解のシナリオ」だった。
「あのさ、水野」
「は、はいっ! なにかな、大地くん!?」
不意に名前を呼ばれ、声が裏返りそうになる。慌てて教卓の端を握りしめた。
直は不思議そうに眉をひそめ、首をかしげた。
「いや……そんな身構えなくてもよくない? 別に減点とかしないし」
「えっ……あ、ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって。私、何か失礼なこと言った……?」
「ううん、全然? っていうか、お前さ……俺と話すとき、いつもすげえ遠いよね」
直がぽりぽりと頬をかいた。
「距離的な意味でも、気持ち的な意味でもさ。なんかこう……透明なバリア貼られてるっていうか」
(鋭い……! なんでこの人は、こういうのに気づくの……!?)
心臓が跳ね上がった。バレてはいけない。冷たいヤツだと思われるのも、意識していると思われるのも、どっちも詰み(アウト)だ。
「そ、そんなことないよ! 大地くんはクラスの人気者だし、私みたいなのがあんまり馴々しく話しかけたら、周りのみんなに迷惑かなって……」
「周り?」
直はきょとんとした後、はあ、と小さく溜息をついた。
「お前ってホント……面倒くさいヤツだな」
「へ……?」
予想外の言葉に、私は呆然と直を見上げた。
「面倒くさい……?」
「だってさ。誰に迷惑がかかるの? たかがノート返してもらうだけでさ。お前、いつも誰かの顔色ばっかり気にしてさ、自分の言葉で喋ってなくない?」
ズキリ、と胸が痛んだ。
図星だった。痛いところを突かれすぎて、息が詰まる。
「……大地くんには、わからないよ」
気がつくと、小さな声が口から漏れていた。
「え?」
「大地くんみたいに、最初からみんなに好かれてて、何をやっても裏目に出ない人には……わからないよ。間違えたら全部終わる感覚なんて……」
言った瞬間、後悔が押し寄せてきた。
やばい。感情的になってしまった。これじゃあ「面倒くさい女子」そのものだ。早く笑って誤魔化さなきゃ。「なんちゃって!」って冗談にしないと——。
私が引きつった笑顔を作ろうとした、その時。
直は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただじっと私を見つめていた。その瞳は、昼休みに見た「スマホを凝視していた時」と同じ、どこか深くて、真っ直ぐな光を宿していた。
「……間違えたら全部終わる、か」
直はポツリと呟くと、手に持ったノートでトントンと自分の肩を叩いた。
「まあ、そういうシナリオで生きてんなら、別に否定はしねえけどさ」
「シナリオ……?」
「……あ、いや! なんでもねえ!」
直はハッとしたように顔を赤くすると、慌てて視線を泳がせた。
「とにかく! 俺は別に、お前が誰の顔色 伺ってようがどうでもいいけどさ。たまには肩の力抜けよ。見てるこっちが息苦しくなる」
「……う、うん。アドバイス、ありがとう……」
「じゃ、俺、部活行くから! ノートサンキュな!」
直は逃げるように背を向けると、教室のドアを開けてダッシュで去っていった。その耳たぶが、夕日のせいだけではなく、ほんのり赤くなっていたのを私は見逃さなかった。
(なんなんだろう、大地くん……)
静まり返った教室に、私一人だけが取り残される。
太陽みたいに眩しくて、自分とは正反対の世界にいると思っていた人気者。
でも、彼の言葉は不思議と、私の「仮面」をうっすらと揺らしていた。
(面倒くさい、か……)
自分の机に戻り、鞄を抱きしめる。
彼に言われた言葉が、リフレインのように頭の中で鳴り響いていた。
自分の言葉で喋っていない。
見抜かれていたことが恥ずかしくて、悔しくて、でも——どこか少しだけ、胸の奥が軽くなったような気がした。
だけど、この時の私はまだ知らなかったのだ。
彼が去り際に口にした「シナリオ」という言葉が、ただの例え話などではなく、彼の脳内を支配する「あの過酷で甘酸っぱい冒険ファンタジー」から溢れ出た本音だったということを。
そして、その日の帰り道。
私は学校近くの公園で、ベンチに突っ伏して頭を抱える直の姿と、彼が落とした「秘密の画面」を目撃することになる——。




