プロローグ 80点の相槌、あるいは透明な仮面
ーー真っ直ぐに前を見つめて、懸命に風を斬るように走るアイツが眩し過ぎる。
水野 朱梨は、体育の時間の男子の100m走の大地直のきれいに走る姿を思い返していた。
「ねえ朱梨、今日の体育のサーブ、マジでヤバくなかった? ネット直撃とか超ウケるんだけど!」
昼休みの賑やかな教室。お弁当の卵焼きを口に運んでいた私は、箸を止めて一秒で表情を作った。目元を少しだけ和らげ、口角を完璧な角度まで引き上げる。
「ほんとだよね。自分でもビックリしちゃった。みんなの足を引っ張っちゃってごめんね?」
「いいっていいって! 逆に和んだわー」
隣で高らかに笑う女子グループの会話に、私は「あはは」と可憐なテノールで相槌を打つ。
80点。
心の中で、冷ややかに自分のリアクションへ点数をつけた。
高すぎず、低すぎず。調子に乗っていると思われるほど目立たず、かといって暗いと浮いてしまうこともない。クラスという狭い水槽の中で生き残るための、これが私の「正解のシナリオ」だ。
小学五年生の秋、男子と普通にサッカーの話をして笑っていただけで「男子に媚びている」「ぶりっ子」とレッテルを貼られ、クラス中の女子から一斉に無視されたあの地獄。
あの時に学んだのだ。目立ってはいけない。自分の素を出してはいけない。常に周囲の顔色を伺い、期待されている「害のないおとなしい女子」を演じ続けることだけが、平穏を守る唯一の盾なのだと。
(……息が、苦しいな)
心の奥で小さな溜息をつき、紙パックのストローを咥えた、その時だった。
「おい大地ー! 次の時間のグラウンド整備、用具室の鍵持ってきてって先生が言ってたぞー!」
教室の引き戸が乱暴に開いて、男子の元気な声が響いた。視線が集まった先、窓際の席で男子数人に囲まれていたそいつ——大地直が、パッと顔を上げた。
「りょーかい! 今行くわ!」
運動神経抜群で、クラスのムードメーカー。体育会系の爽やかな笑顔と気さくな性格で、男子からも女子からも絶大な人気を誇る学校の中心人物。
直はパイプ椅子から軽やかに立ち上がると、体操服の袖を軽くまくり上げた。その動作一つ取っても、どこか絵になる。
「あ、大地くん! 今日の部活って何時までだっけ?」
「ん? 五時半完全下校だよ。お前らも遅れるなよー」
女子からの問いかけにも、嫌みなく自然体で答える直。
彼には「裏」がない。私のようにビクビクと周囲の目を気にしながら言葉を選ぶ必要なんてなく、素のままの自分でクラス全員に受け入れられている。
(羨ましいな……私とは、住む世界が違う)
私が透明な仮面を貼り付けて必死に呼吸している横で、彼は太陽みたいに当たり前に光を浴びて生きている。そう思って視線を逸らそうとした、まさにその一瞬。
すれ違いざまに、直がふと自分の手に持っていた使い古しの単語帳に視線を落とした。
その時の彼の表情に、私は息をのんだ。
いつもの爽やかで無邪気な笑顔が、完全に消えていた。
ぎゅっと結ばれた唇。鋭く見開かれた瞳。その奥には、クラスの誰も見たことがないような、恐ろしいほど濃密な情熱と——どこか怪しげな「悦び」の色が宿っていた。
彼は周囲に誰も見ていないことを小刻みに確認すると、ニヤリ、と口角を吊り上げた。
(え……なに、今の顔……?)
ぞくっと背中に走った寒気に、私は固まった。まるで、世界中の人間を自分の思い通りに操る秘密を手に入れたかのような、ゾッとするほど不敵で、けれどどこか少年らしく輝く瞳。
直はポケットからスマートフォンを取り出すと、単語帳を見ながら、恐ろしい手つきで画面をフリックし始めた。
『……クリスタル王国の魔女どもめ。我が竪琴の音色に跪くがいい……』
「……っ!?」
あまりに静かな教室の片隅で、彼の口から漏れた小さな、あまりにも小さな独り言が、なぜか私の耳にだけクリアに飛び込んできた。
竪琴……? クリスタル王国……?
直はスマホの画面を凝視したまま、恍惚とした表情で親指を動かしている。
『泉の女神より授かりしこの勇者の剣で……救い出してみせる。囚われの姫を……!』
(ヒ、ヒロイン……!? 姫……!?)
私は飲んでいたジュースを吹かそうになり、必死で喉の奥へ押し戻した。むせて咳き込みそうになるのを、必死で口を押さえて耐える。
待って。今、大地くん、なんて言ったの?
勇者? 魔女? 姫……!?
直の顔は、今まで見たこともないほど真剣だった。額に汗すら浮かべながら、必死に胸キュン……いや、甘酸っぱい恋愛ファンタジーの情熱的な一節を紡ぎ出しているようだった。
昼休みの爽やかな体育系男子の面影は、どこにもない。そこにいたのは、自分の作り出した脳内世界にどっぷりと浸かり、物語をコントロールする快感に打ち震える——ひとりの「怪しい創造主」だった。
(嘘でしょ……大地くんって、もしかして……)
「おい大地! なにフリーズしてんだよ、行くぞー!」
「あっ、おう! 今行く!」
男子の声にハッと現実に引き戻された直は、凄まじいスピードでスマホの画面を消し、ポケットに押し込んだ。
一瞬でいつもの「爽やかな人気者・大地直」の仮面……いや、素顔(?)に戻ると、何事もなかったかのように駆け出していく。
「じゃあな、みんな! 後半も頑張ろうぜ!」
爽やかに手を振って教室を出ていく直の背中を、私は呆然と見送った。
誰も気づいていない。クラスの誰も、あの太陽みたいな人気者が、夜な夜な自室で熱いロマンを滾らせ、異世界の姫を救う甘々なストーリーを書き上げているかもしれないなんて、夢にも思っていないのだ。
(あんなコテコテのファンタジー……もし男子にバレたら、一生いじられて生きていけないんじゃ……)
私は自分の胸に手を当てた。
嫌われないために、失敗しないために、毎日「正解のシナリオ」を演じる私。
そして、完璧な現実を生きながら、誰にも言えない「自分だけの世界」をひっそりと紡いで快感を得ている、ロマンチストな彼。
「……朱梨? どうしたの、ぼーっとして」
「あ……ううん! なんでもないよ。次の体育、体操服に着替えに行こっか!」
私は即座にいつもの80点の笑顔を作り、席を立った。
この時の私はまだ知らなかった。
私が必死に演じている「正解のシナリオ」が、やがてあのロマンチストな勇者の「一言」によって鮮やかに破り捨てられることも。
そして、ふたりだけの秘密の「共犯関係」が始まっていくことも——。
生きづらい世の中ですよね。
最近、スターツ文庫を読んでいたら、素の自分で生きられない私という作品が多いなあと思いました。
まあ、誰でも、家族に見せる顔と外での顔は多少違うと思いますが。遠慮の違いというか。
家でも外でも素顔で生きられる人は人徳があるのかなあとも思ってしまいます。




