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シャドープライス ―― 飼料配合士、異世界の飢えを計算する  作者: もしものべりすと


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第九章 王都への道 嵐の前

街道の途中 痩せた老馬が稔の前で膝を折った。


辺境伯ガナイトと稔の交渉から半年が経った。ガナイト領では羽根の蒸し釜が三基稼働し 殻の粉砕器が六基設置された。配合表を読める若い農学者が領内に十二人育っていた。家畜の頭数は二十%回復した。子爵領と合わせれば 二つの領で家畜痩せ病から脱出した家畜は数万頭に達していた。


その実績が王都へ届くのに 時間はかからなかった。


王宮から正式な召喚状が届いたのは 春の終わりだった。国王ヘルゼン三世と王太子レナードからの 直々の召喚だった。書状には「異邦の賢者を国家の客人として迎えたい」と書かれていた。


辺境伯は書状を読んでから 太い指で稔の肩を一度叩いた。


「行ってこい。シャドルムが必ず居る。気を付けろ」


「はい」


稔は馬車を一台用意してもらい リーゼルと出発した。護衛はガナイト辺境伯が選んだ騎士団長のアルフリートが付いた。アルフリートは四十代の寡黙な男だった。右の頬に縦に長い古傷があった。馬の扱いに長け 剣の技量で領内では並ぶ者がいないと言われていた。


王都への道は十日かかった。途中 街道沿いの村々で配合表を求められ 稔は一日一村のペースで簡単な処方を書きながら旅を進めた。リーゼルは毎晩 稔の書いた処方を覚え 翌朝の村人へ説明する役を引き受けた。彼女は字こそ読めなかったが 数字と原料の名前を覚える早さは稔を驚かせた。


旅の七日目の昼下がり 街道で荷物を引いていた老馬が 突然膝を折った。


稔たちの馬車は止まった。アルフリートが下りて 馬の持ち主の老農に話しかけた。老農は涙を浮かべていた。三年前に妻を亡くしてから この馬と二人で畑を耕してきたのだという。


稔は馬の口を開けた。歯はだいぶ磨耗していた。骨格は痩せ 蹄は薄かった。栄養失調と高齢の重なりだった。


「立てますか」


稔は老農に訊いた。


「立とうとしてくれていますが」


馬は懸命に脚を立て直そうとしていた。だが 後ろ脚に力が入らなかった。


稔は手帳を開いた。リーゼルが横から覗いた。リーゼルの顔から血の気が引いていた。


「ミノルさん この馬は たぶん」


「うん」


馬は そろそろ終わりだった。それは栄養の問題ではなかった。寿命と労苦の問題だった。


老農は馬の鼻面を撫でていた。馬は老農の手のひらに鼻を寄せて 静かに息をしていた。


稔は手帳を閉じた。


書く意味のない場面だった。配合表は この馬を救えなかった。


代わりに 稔は老農の隣に膝をついた。馬の頸に手を置いた。


「あんたの馬は よく働いてきた馬です」


「ええ」


「最後の数日は うちのリーゼルが世話をします。きちんと立たせて 看取らせてください」


老農は涙を流したまま うなずいた。


老農の家は街道から少し外れた小さな農家だった。土壁の屋根の低い家で 入り口の脇に薪が三束だけ積まれていた。冬を一つ越えるには足りない量だった。アルフリートは無言で 鞄の中から自分の保存食の一部を取り出し 家の囲炉裏の脇に置いた。リーゼルは老農と二人で 馬を囲いの内側に運び 藁を敷いた寝床を作った。


「この子の名前は」


リーゼルが訊いた。


「グリットです」


「グリット」


「私の妻が 名付けました。痩せた砂利という意味です。妻は冗談が好きでした」


老農は そう答えながら 笑おうとした。だが笑えずに 顔を歪めた。


リーゼルは 老馬の前足に手を添えた。馬は短く鼻を鳴らした。


「グリット。リーゼルです。今夜から 明日まで 私が一緒にいます」


馬は彼女の手のひらに 鼻先を寄せた。それは応えのようだった。


その夜 稔たちは老農の家に泊まった。リーゼルは馬の世話をして 夜半まで囲いの中にいた。アルフリートは戸口の前で椅子に座り 一晩中起きていた。


稔は手帳の白紙のページに 何も書かなかった。


夜中 リーゼルが囲いから戻ってきて 稔の隣に座った。


「ミノルさん 私たちの仕事は 全員を救うわけじゃないんですね」


「うん」


「最初に祖父が私に言ったのは そういう意味だったんですね」


「お祖父さんは何と」


「数字は あなたを裏切らない けれど 数字は全員を救えない 救えないのが当たり前で 救えないと知った上で 数字を書きなさいと」


稔は うなずいた。


「あなたのお祖父さんは 配合屋の心を知っている人だ」


「祖父も 昔は 学院の人だったかも知れません」


リーゼルは静かに言った。


「祖父は若い頃 一度王都にいたそうです。何の仕事をしていたかは 私も訊いたことがないけれど」


稔は手帳を見た。畜産学院。十二年前。焼かれた蔵書。


リーゼルの祖父の沈黙の意味が 急に重みを増した。


翌朝 稔たちは老農と馬を残して 旅を続けた。馬は二日後に息を引き取ったと 後日 アルフリートが手紙で知った。老農は感謝の言葉を 短く 砕けた字で書いて寄越した。稔はその手紙を 手帳の挟みに入れた。


王都への道は あと三日だった。リーゼルは旅の間 ずっと袖口を撫でていた。


旅の八日目の夜 一行は街道沿いの旅籠に泊まった。部屋に荷物を置いてから リーゼルは稔の部屋の戸を叩いた。


「ミノルさん」


「うん」


「祖父から 手紙が届いていました」


リーゼルは一通の封書を差し出した。蝋の封印は既に剥がされていた。彼女は読み終わっていた。稔は受け取って 封書を開いた。


中には 短い手紙が一通 入っていた。古い字で書かれていた。


「ミノル殿。


あんたが王都に行くと聞いた。王都の影は 谷の影より厚い。覚悟して進め。


私の若い頃 王都の畜産学院で 二年だけ修練した時期があった。当時の学院長は 影の価格を 民の食卓に降ろす方法を 教えていた。学院長の名は ライナルといった。彼は十二年前に火刑になった。


あんたが今 やっていることは ライナルの仕事の続きだ。あんたがそれを知っていたかどうかは 関係ない。続いている事実だけが大事だ。


リーゼルを頼む。あの子は私が育てたが あの子の中の本当の母親は 私が知らない部分にいる。あんたなら見えるかも知れん。


祖父」


稔は手紙を二度読んだ。リーゼルが袖口を撫でながら 稔の様子を見ていた。


「ミノルさん 大丈夫ですか」


「うん」


「祖父は 私が知らないことを 何か書いていますか」


「うん。あなたのお祖父さんは 若い頃 王都の畜産学院にいた」


「畜産学院」


「教会が十二年前に解散させた学院です。お祖父さんは そこに二年いた」


リーゼルは自分の袖口を 強く撫でた。


「祖父は 何も話してくれませんでした」


「話さない方が 安全だと判断したんだと思います」


「ええ」


「お祖父さんは あなたを頼む と書いています。それは 私への信頼の表明です」


リーゼルは うなずいた。


「ミノルさん」


「うん」


「私 王都で 何が起きても」


「うん」


「祖父の手紙の最後の一行を 覚えていてくれますか」


「もちろん」


リーゼルは そう言って 部屋を出た。彼女の足音が廊下の奥に消えていった。


稔は手紙を 手帳の挟みに入れた。


王都への道は あと三日だった。リーゼルは袖口を撫でていた。


稔の中でも 何かが少しずつ 名前のない不安として 育っていた。


サヴェルでも ガナイトでも 配合表は奇跡のような効果を生んだ。だが王都はそうはいかない予感があった。王都にはシャドルムがいる。シャドルムは稔の式の正体を 真っ先に見抜く人物のはずだった。


稔は手帳の表紙のコーヒーの染みを 一度撫でた。


二十年前から自分と共にあった染み。それが いまも左手に残っていることが 唯一の確かさだった。

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