第十章 王宮 見覚えのある目
謁見の間で振り向いた赤い衣の男は 義兄の顔をしていた。
王都ヴァルダンは 想像していたよりも疲弊した町だった。
外側からは美しかった。白い石灰岩の城壁が三重に巡らされ 内側には三本の大通りが王宮へ向かって伸びていた。だが街路に入ると 商店の半分以上が閉まり 残った店も品物が少なかった。市場の肉屋には骨ばかりが並び 乳屋には水で薄めた山羊乳しか置かれていなかった。地方の方がよほど豊かに見えた。十二年の家畜痩せ病が 都市を内側から削っていた。
王宮の門は黄金で縁取られていた。アルフリートが書状を出すと 衛兵は門を開けた。馬車が中庭で止まり 稔とリーゼルは降ろされた。
通された控えの間で 半刻ほど待たされた。
その後 大広間へ案内された。
大広間は天井が高く 床は黒と白の市松模様の大理石だった。中央に長い赤い絨毯が敷かれ その先に玉座があった。玉座には国王ヘルゼン三世が座っていた。彼は痩せた五十代の男で 王冠の重みが額の皺を更に深くしているように見えた。玉座の少し下の段に 王太子レナードが立っていた。レナードはまだ二十代後半に見え 父より体格が良く 眼光が鋭かった。
玉座の右の脇に 赤い衣の男が立っていた。
その男は稔たちが入ってきた音で振り返った。
時間が止まった。
その男は 義兄の黒田俊明と寸分違わぬ顔をしていた。
額の生え際の形 鼻筋の通り方 唇を引き結ぶ癖 そして稔を見るときの あの 自分が相手より上の位置にいることを疑わない目つき。
全てが同じだった。
稔は息を吸うのを忘れた。
その男の胸には 銀の鎖が垂れていた。鎖の先に 黒い宝石を嵌め込んだ十字の徽章があった。枢機卿の徽章だった。男は ゆっくりと唇の端を上げた。義兄が稔の手帳をテーブルの下に押しのけたあの正月の夜と 全く同じ表情だった。
「異邦の賢者殿」
男は低い声で言った。
「私は シャドルム枢機卿。教皇庁の影室長を務めている」
「土山稔と申します」
稔の声は 出すのに数秒かかった。
国王が玉座から声を発した。
「賢者殿。地方の畜産改善 まことに見事である。王都は あなたの知識を必要としている」
王太子レナードが続けた。
「家畜痩せ病の根本治療に向けて 賢者殿の知識を中央でも展開していただきたい。地位 報酬 必要な人員 すべて用意する」
「ありがたく存じます」
稔は短く一礼した。声は震えなかった。震えなかったことに 自分でも少し驚いた。
シャドルムは黙って稔を見ていた。
「賢者殿」
シャドルムが言葉を発した。
「珍しい計算法をお持ちのようだ」
「ええ」
「私の領分とは異なる体系のようでありながら 同じ式に行き着くことがあると 聞いている」
「興味深い符合だと 私も思っています」
「いつか 時間が取れたら 議論したいものだ」
「喜んで」
会話はそこで終わった。表面には何の問題もない 礼儀正しい言葉のやりとりだった。だが稔の中では 既に戦が始まっていた。
シャドルムは稔から視線を外し 隣で硬直していたリーゼルへ目を移した。
「君は 北方の聖獣使いだね」
リーゼルは小さく一礼した。
「リーゼルと申します」
「君の家系は 古い。我々の教会は 君の祖父の名を覚えている」
リーゼルが袖口を撫でようとして 手を止めた。
シャドルムは そう言いながら 稔とリーゼルの間に 一歩だけ近づいた。彼の影が 大理石の床の上に伸びた。リーゼルの足元にまで届く長さだった。
シャドルムの右手が ごく短く 何かのしぐさをした。ほとんど見えなかった。だが リーゼルの肩がわずかに揺れた。
「歓迎する 賢者殿。そして 聖獣使い殿。今夜の晩餐に お招きしたい」
シャドルムは 目を伏せて 稔から離れた。
謁見が終わり 控えの間に戻ったとき リーゼルは無言だった。
「リーゼル」
「ミノルさん 私の聖獣使いの紋章が」
リーゼルは自分の左の手のひらを開いた。手のひらの内側に 細い銀の線でできた小さな紋様があった。その紋様の縁が 黒く変色していた。
「これは」
「シャドルムが触れた影で 端が黒くなっています。これは 影の対価を 私から徴収する印です」
「徴収」
「あの方は 私に何かの代償を払わせるつもりです。私が何をしたかではなく 私が誰の側にいるかで」
稔は手帳を握り直した。
王都の最初の一日で シャドルムは既に 稔の最も近くにいる人間に 値段をつけた。義兄が手帳を押しのけた夜と 同じやり方で。
ただし この世界では 押しのけられるのは紙ではない。
人間だった。
迎賓館へ戻る馬車の中で 稔は無言だった。リーゼルも袖口を撫でながら 無言でいた。アルフリートだけが時折 御者に方向を指示するために短く声を出した。
馬車の窓の外を 王都の夕景が流れていった。閉まった商店の戸 痩せた猫が一匹 路地から路地へ移っていく姿 噴水の止まった広場 そこで子どもが二人 乾いた石を蹴って遊んでいた。子どもたちの足の動きが鈍かった。栄養失調の典型だった。
稔は窓の外を見ながら 不意に 一年半前の本社のフロアの夜を思い出した。
あの夜 稔は若手の同僚に「いつまで地味な仕事しているのか」と問われた。あの問いには 悪意はなかった。あの問いを発した若手は その日のうちに自分の机に戻り 翌朝には何事もなかったように働いた。
シャドルムの問いには 別の重みがあった。
シャドルムは 稔の仕事を否定する権限を 自分の世界の中で 教会の最高位として持っていた。否定された側は 否定された次の瞬間から 物理的に痩せていく仕組みになっていた。リーゼルの紋章の黒は その物理的な痩せの始まりだった。
「ミノルさん」
リーゼルが車中で 一度だけ口を開いた。
「私 食堂で食べてきたものを 全部覚えていますか」
「覚えています」
「もし いつか 覚えていない日が来たら 教えてください。何を食べたのか」
「うん」
それだけの会話だった。それだけの会話が なぜそれほど重く感じられたのか 稔は数秒考えて 答えを出さなかった。




