第八章 辺境伯の食卓
辺境伯は皿の上の肉を見て 子どものように笑った。
サヴェル子爵領の畜産が立ち直り始めて二ヶ月が経った。稔とリーゼルは子爵の屋敷を出て 北の辺境にあたるガナイト辺境伯領へ向かった。サヴェル子爵が辺境伯へ書状を送り 賢者の派遣を申し出ていた。辺境伯はこの国の北方を 影の領と呼ばれる魔物の出る一帯から守る役目を担っていた。家畜は彼の領地においては武器の延長線にあった。馬一頭の出来不出来が 国境の戦況を左右した。
辺境伯領の中心都市カルディは石の城壁に囲まれた古い町だった。城壁の上に黒い旗がはためいていた。風が冷たかった。北の山並みは雪をかぶり始めていた。
辺境伯ガナイトは大柄な男だった。年は五十を少し越えたところで 太い眉と短い顎髭をしていた。背は稔より頭一つ高く 肩幅は二人分あった。彼は稔の手を握ったとき 配合屋の手が想像以上に細いのに気づいて 短く笑った。
「賢者殿。あんたの手は 鍬を握る人間の手ではないな」
「鉛筆と電卓の手です」
「電卓」
「ええ。計算をする道具です」
「興味深い」
辺境伯は それきり余計な詮索をせず 稔を城の中へ案内した。
城の廊下は石造りで 壁に色褪せた紋章旗が並んでいた。稔は壁の旗の一つに 痩せた獅子と痩せた鹿を組み合わせた紋章を見た。辺境伯の家紋だった。獅子の頭は獅子の獲物である鹿の頭と背中合わせに描かれていた。捕食と被捕食を 同じ紋章の中に並べる図案だった。
「あの紋章は」
稔は通り過ぎながら 訊いた。
「私の家の紋だ」と辺境伯は答えた。「百三十年前の初代が 国境で痩せた獅子と痩せた鹿を同じ日に見た。獅子は鹿を狩る力もなく 鹿は獅子から逃げる力もなく 同じ草原で水を飲んでいた。初代はそれを見て 国境を守る者は 強者と弱者の両方を同時に痩せさせない仕事だ と悟ったらしい」
「それで 獅子と鹿を 同じ紋章に」
「そうだ。痩せた獅子は 領主自身を表す。痩せた鹿は 領民を表す。両者が同時に痩せる時 領は終わる。両者が同時に肥える時 領は栄える。それだけのことだ」
稔は黙ってうなずいた。
辺境伯ガナイトの言葉は 配合屋の発想と近かった。家畜と土地と人間の数字を 一つの最適化の式の中で扱う発想。それは中世風の領主の身体の中に 静かに住んでいた。
城の中庭に 焼石を組んだ大きな炉があった。炉の周りに長卓が並び 卓の上には領内の各村から献上された肉と乳製品が運ばれていた。
「賢者殿。あんたが二月前に書いた配合表は 我が領にも届いた。三つの村で試した。結果がここに並んでいる」
長卓の上には 三皿の肉が並んでいた。子牛の肉と 羊の肉と 鶏の肉。それぞれ三段階に分かれていた。配合を変える前 配合を変えて一ヶ月後 配合を変えて二ヶ月後。
辺境伯は最初の皿の子牛の肉を一切れ取り 口に入れた。彼は咀嚼をやめ 数秒間 何かを噛みしめてから 三皿目の子牛の肉を取った。一切れ口に入れた。
「うん」
それから 子どものように笑った。彼の顎髭の中で 太い唇が大きく開き 白い歯が見えた。
「これは 違うな。違う皿の肉だ」
稔は答えなかった。代わりに リーゼルが少しだけ口の端を上げた。
「賢者殿」と辺境伯は皿を脇に押しのけて言った。「率直に伺う。あんたは 家畜痩せ病を 解けると思うか」
「病という言葉が誤解を招きます」
「ほう」
「これは 病ではない。配合の欠陥です。原料の選び方と 配合の比率と 加工の方法が 体系として失われている。それを取り戻すための知識を 私の頭の中の一部と この手帳に書いた数式とで 補えるならば」
「補えるか」
「条件があります」
稔は手帳を辺境伯の前に開いた。書きつけた感度分析の数字を 辺境伯に見せた。
「原料の供給網を作り直すこと。地域ごとに使える原料を整理し 季節ごとに最適な比率を計算し直すこと。それから 加工のための設備を 領内に分散して置くこと。羽根の蒸し釜 殻の粉砕器 乾草の細断機。最後に 配合表を読める人間を 各地に育てること。私が一人で全部の村を回ることはできません」
辺境伯は手帳を見つめていた。彼の太い指が ページの端を撫でた。
「金がかかるな」
「初期投資はかかります。ただ 投資の回収期間を計算しました」
稔はページを一枚めくった。
「平均三年です」
辺境伯は長く息を吐いた。
「三年か」
「ええ」
「賢者殿。話を変える。あんたは 家畜痩せ病が なぜ十二年前から始まったか 聞いているか」
「王立畜産学院の解散と 蔵書の焼却。それしか」
「焼いた者の名は」
辺境伯は声を低くした。
稔は答えた。
「聞いていません」
「枢機卿シャドルム」
辺境伯は短く言った。
「奴は当時 まだ司教だった。畜産学院の解散を主導した。理由は表向きには 学院が異端の研究を行っていた ということだった。本当の理由は 学院の存在が教会の影の魔法体系を脅かしていたからだ」
「脅かす」
「畜産学院は 家畜の体内で起きる栄養変換の式を 数学として捉えていた。シャドープライスの計算を 飼料の設計に応用していた。あんたと同じ方法だ。シャドルムには それが見えた。同じ式が魔法の代償計算に使えると見えた。そして 同じ式が 教会の影の魔法体系を 別の計算で再現できると見えた」
稔は手帳の縁を握り直した。
「彼は 学院を消すことで 影の計算法を 自分一人の手の中に閉じ込めた。それから十二年 教会は神罰という名目で家畜痩せ病を放置し 民の祈りを吸い上げ 影の魔法を強化してきた」
「家畜痩せ病は」と稔は確認した。「意図的に放置されているということですか」
「そうだ」
辺境伯は炉の火を見つめていた。
「私はあんたに賭ける。この領で配合表を広めてくれ。設備を作る金は出す。人も出す。だが あんたが王都に呼ばれる日が必ず来る。王に呼ばれ シャドルムと対峙する日が来る。覚悟しておいてくれ」
リーゼルが稔の隣で 上着の袖口を撫でていた。
辺境伯の言葉は 警告であると同時に 招きでもあった。
稔は手帳を閉じた。
「考えます」
それしか言えなかった。
その夜 稔は城のあてがわれた部屋の窓辺に立ち 北の暗い山並みを見ていた。十二年前に焼かれた畜産学院の蔵書のことを 考えていた。
二十年やってきた仕事の同じ式が この世界の闇の中心と繋がっている。逃げる選択肢はもうなかった。




