第七章 影の対価という語
彼が会社で毎日使っていた言葉が 教会の最高機密の名前だった。
サヴェル子爵領の畜産改善は 三日で本格的に動き始めた。
子爵が用意した蒸し釜で 家禽の羽根を高温と圧力で長時間処理し 粗く挽いて飼料原料に加える試みは 初日こそ煙ばかりが出たが 二日目には茶色い粉が三十キログラム取れた。稔はそれを既存の飼料に五%だけ混ぜるよう指示した。一日 二日 三日と 飼料を切り替えた牧場の家畜が 目に見えて毛艶を取り戻し始めた。
子爵の屋敷の食堂で 三日目の夕食が出された。テーブルには ハーブで煮込んだ羊肉と 玉葱を炒めた皿が並んだ。稔とリーゼル 子爵と家令 そして子爵の老顧問の五人がそろって座った。
老顧問は名をオルリックといった。白い髭を首まで伸ばし 目は深く落ち窪んでいた。年齢は七十を超えていそうだった。彼は食事の前に短く祈り 食べ始める前に稔に話しかけた。
「賢者殿 一つ伺ってもよろしいか」
「はい」
「あなたが書く配合表の根っこにあるのは 一体何ですか」
稔は少しためらってから 答えた。
「線形計画法 と呼ばれる計算手法です。栄養の制約を満たしながら コストを最も小さくする組み合わせを 数学で求めます」
「制約を 満たしながら」
「ええ」
「ならば 制約を ほんの少しだけ緩めたら 何が起きますか」
稔の鉛筆を持つ手が一瞬 動きを止めた。
「コストが少し下がります。あるいは 別の制約のところで 損失が少し増えます」
「その 動く分の値段に 名前はありますか」
稔は皿の前のスプーンを置いた。手帳のページを 自分の中でめくった。
「シャドープライス と言います。影の価格 という意味です」
食堂の空気が止まった。
子爵がスプーンを取り落とした。鉛の柄が皿の縁を叩いて 小さな音を立てた。家令の顔から血の気が引いた。リーゼルだけが事態を理解できず 周囲を見回していた。
オルリックは静かに 顎の白髭を撫でた。
「やはり そうですか」
「やはり とは」
「賢者殿 申し上げます。我々の国の魔法体系の根幹に置かれている語が 同じ綴り 同じ意味で存在しています」
稔は息を吸った。
「魔法の」
「ええ。魔法を行使するためには 世界が定めた規則を ごく僅かに曲げなければなりません。曲げる量はわずかでも 世界はその対価を取り立てます。その対価の量を計算する語を 古い書物では シャドープライス と呼びます」
リーゼルが小さく口を開けた。彼女もその語を聞いたことがあるという顔だった。
オルリックは続けた。
「ある制約を一単位緩めたとき 世界が術者から差し引く影の量。あなたが言った定義と 一字も違いません」
稔は咄嗟に質問を整理した。
「規則 というのは 例えば」
「例えば 距離。あるいは 時間。あるいは 因果。火を出すには 燃える物が要るという規則を ほんの僅か曲げれば 燃える物なしで火が出せる。だがそれは規則を一単位曲げたことになる。その分の影が術者の何かを差し引く。記憶か 寿命か 近親者の運命か」
リーゼルが オルリックの言葉の途中で 自分の左の頬を片手で押さえた。彼女の頬には 薄く白い筋があった。古い火傷の跡のように見えた。
「リーゼル」
子爵が低く声をかけた。リーゼルはすぐに手を下ろし 何でもありませんと首を振った。
オルリックが稔に向き直った。
「賢者殿 あなたの国では 影の価格は どのような場面で計算されますか」
「家畜の餌の 値段です」
老顧問は しばらく稔を見ていた。
それから 笑った。深い皺の中で 静かな笑い方だった。
「世界とは 妙なものですな。我々が魔法の代償と呼んでいるものと 異邦のあなたが家畜の餌の値段と呼んでいるものが 同じ計算式で出てくる」
「ええ」
稔は短く答えた。
「ただ 一つだけ 違いがあると思います」
「ほう」
「私の国では その式は誰もが扱えました。大学の教科書に載っており 商業ソフトに組み込まれていた。研究者でなくても 配合屋なら一週間で覚えられる程度の難しさです」
オルリックの目が一度 細くなった。
「こちらでは 教会の最高位だけが扱える」
「ええ。同じ式を 違う扱い方をする世界が 並んでいる」
「賢者殿 あなたはなぜ 異邦のあなたの世界で この式が 開放されていたと思いますか」
稔は手帳の縁を握り直した。
「私の国では 数字そのものに 神聖な意味を与えなかったから だと思います。式は道具です。道具は誰もが使える方が 全体の幸福が増える。それが私の国の 暗黙の合意でした」
「道具」
オルリックは その語を口の中で転がした。
「私たちの教会は 同じ式を 聖なる扉と見做してきた。扉を独占すれば 教会の地位が保たれる。賢者殿の世界の合意とは 真逆の選択をしてきた」
「ええ」
「どちらが正しいか とは申しません。ただ どちらが 民の腹を満たすかは 既に分かっています」
オルリックは そう言ってから 残りのスープを静かに口に運んだ。会話はそこで途切れた。子爵は何も言わなかった。リーゼルは スプーンを持つ手をしばらく止めて 老顧問の言葉の余韻を受け取っていた。
稔は答えなかった。代わりに 手帳を開き 「シャドープライス」とだけ ローマ字で書いた。書きながら指先がかすかに震えていた。
サイロの底で意識を失った瞬間に この世界へ落ちてきた偶然の意味が 少しずつ 数字の形を取ろうとしていた。
その夜 寝室にあてがわれた部屋で 稔は窓辺に立ち 月を見ていた。
二十年 シャドープライスを計算してきた。誰にも理解されない仕事だった。父にも義兄にも 同僚の若手にさえも 軽く扱われてきた。
その同じ語が この世界では 世界の根幹を支えていた。
偶然か 必然か 稔には判断する材料がなかった。だが 何かが 自分の地味な仕事の意味を 別の角度から問い直し始めていた。
廊下の遠くで 鐘が一度鳴った。
稔は窓を閉じた。




