表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シャドープライス ―― 飼料配合士、異世界の飢えを計算する  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/22

第三章 痩せ獣の村

この村の羊は 腹に空気を詰めて立っていた。


煙の方角へ二時間歩くと、稔は粗末な石垣に囲まれた集落にたどり着いた。家は石と乾いた草で葺かれ、屋根の真ん中に煙突が一本ずつ立っていた。家の数はおおよそ二十軒。畑は柵で囲われ その中で 見覚えのない種類の麦と豆が、貧弱に育っていた。


羊の囲いがあった。


羊の数は三十頭ほどだった。どの個体も、毛の艶を完全に失い、腹だけが妙に膨らんでいた。鼓張症の典型だった。粗繊維を多く含む乾草を急に多く食べさせるか、消化器の機能そのものが低下しているか どちらかだった。だが、目の前の羊たちのそれは 後者だった。


囲いの内側で、若い娘が一人 羊の首を撫でていた。栗色の髪を後ろで一つに結び 土と汗で汚れた灰色の服を着ていた。背は稔より少し低く、体つきは細かった。


娘は稔の足音に気づいて顔を上げた。淡い茶色の目だった。怯えとも警戒ともつかない、しかし 同時にどこか諦めの混じった目で、彼女は稔を見た。


「異邦人ですか」


稔は意味が分かる、ということに まずわずかに驚いた。言葉が、聞こえると同時に、稔の中に意味として届いていた。説明のしようのない現象だった。


「分からない」と稔は答えた。「気がついたら、向こうの草原に倒れていた」


娘は数秒、稔を見つめた。それから 囲いの戸を開け、出てきた。


「リーゼル」と娘は短く名乗った。「ここは ハクの村」


「土山稔」と稔は答えた。少し迷ってから 「ミノル」とだけ繰り返した。


リーゼルはうなずいた。深く詮索する様子はなかった。彼女の関心は 稔の素性よりも、稔がここに来た瞬間に羊が一頭 首を持ち上げて稔を見たことの方にあるようだった。


「あなた、家畜が分かりますか」


「少しだけ」


「中、見てもらえますか」


理由を聞かれることもなく、稔は囲いの中に入った。


すぐ近くで見ると 羊たちの状態はさらに悪かった。蹄の角質が薄く、被毛は乾燥でぱさぱさだった。眼結膜は青白く、貧血を示していた。鉄、銅、コバルトの不足。あるいは内部寄生虫。あるいはタンパク質の絶対量の不足。


「飼料は」と稔は訊いた。「何を与えている」


リーゼルは納屋の方を指した。稔はそちらへ歩いた。


納屋の中には、稔の知らない種類の乾草が積まれていた。茎が太く、葉が少なかった。穂はほとんどついていなかった。横の樽には、薄黄色の麦と 緑がかった豆が入っていた。麦には黒い斑点がいくつか混じっていた。カビ毒の懸念があった。


稔は腰をかがめて、乾草を一握り取った。指で潰し、匂いを嗅いだ。古い草の匂いの奥に、わずかに腐敗の気配があった。


樽の中の豆も同じように指で潰した。種皮が乾燥で割れていた。胚の部分が黒く沈んでいる粒もあった。発芽率が落ちている古い種だった。家畜の餌として使うなら 加熱しなければ消化不良を起こす危険があった。


納屋の隅に 小さな籠があった。籠の中には 茶色く乾いた虫の死骸が一握り入っていた。稔はそれを取り上げた。蜂の死骸だった。羽の付け根が黄色に縁取られていた。


「これは」


「夏の終わりに 巣ごと落ちて死んだのを 拾い集めたものです。捨てるのが惜しくて」


リーゼルは恥ずかしそうに答えた。


稔は手のひらの上で その死骸を一つだけ転がした。蜂の身体には 良質の蛋白質が詰まっていた。元の世界では昆虫タンパクの研究が進んでおり 鶏や養魚の飼料に使う試みが始まっていた。捨てるのが惜しいというリーゼルの素朴な感覚は 配合屋の感覚と同じ場所から出ていた。


「これは 使えます」


稔は短く言った。リーゼルがわずかに目を見開いた。


「これだけですか」


「ええ。秋の終わりに刈った草と、麦の残り。豆は痩せ年で半分以下しか採れませんでした」


「冬の終わりまで これで足りる予定ですか」


リーゼルは答えなかった。答えられない、というのが、彼女の表情のすべてだった。


稔は納屋の隅に座り込み、手帳を開いた。


頭の中で、自動的に計算が始まっていた。羊一頭の維持要求量を仮定し 現在与えている乾草の推定TDN 推定粗蛋白質、推定可消化エネルギーを書き出した。仮にこの乾草の蛋白質が六%、TDNが四十二%として 一日に一・五キログラム与えたとして、要求の六割にしか届かない。冬を越せる数字ではなかった。


「鉱物塩はありますか」と稔は訊いた。「岩塩でも、灰でも、貝殻でも」


「岩塩ならあります。岩塩坑が南に」


「魚はとれますか。川は近いですか」


「川は近い。エビとカニなら、子供が掬ってくる」


稔は手帳に書きつけた。エビとカニの殻には、カルシウムが多く含まれる。粉砕すれば家畜のカルシウム源として十分使える。日本ではかつて配合飼料の原料として、漁業残滓を使う伝統があった。


「あの 何を書いているんですか」


リーゼルが、稔の手帳をのぞき込んできた。彼女の目は、文字を追えなかった。当然だった。稔の手帳は日本語だった。


「祈祷文ですか」と彼女は訊いた。


「いいえ」と稔は答えた。書きかけていた最後の数字を一つ丸で囲んでから、言った。「レシピです」


リーゼルが目をわずかに見開いた。それから ためらいながら 訊いた。


「羊が、立てるようになる レシピですか」


「分かりません。原料を、もう一度きちんと見せてくれれば、もしかしたら」


その瞬間、納屋の入口に 誰かが立った。


長い杖を持った、白い髪の老人だった。リーゼルの祖父だった。彼の灰色の瞳は、深く沈んでいた。


「リーゼル。馬車が来た」


リーゼルが立ち上がった。納屋の薄暗がりが、彼女の顔から色を消した。


「使者ですか」


「ああ。教会の」


老人の声には、感情がなかった。代わりに 長年の諦めが ゆっくりとした疲労として滲んでいた。


外で 馬車の車輪が止まる音と、革鎧の金属音が聞こえた。続いて よく響く高い声が 村の広場の方から飛んできた。


「神に祈らぬ者は 影に喰われる。祈らぬ村は 痩せて滅びる。これは罰だ。罰を解くには、税を払え」


リーゼルが小さく息を吸った。それは怒りでも恐怖でもなく 聞き慣れすぎた台詞を、もう一度聞いた音だった。


稔は手帳を閉じた。教会 と老人は言った。痩せて滅びる と使者は言った。


家畜痩せ病。神罰。教会。税。


この世界の枠組みが、ようやく稔の中で、いくつかの数字として並び始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ