第三章 痩せ獣の村
この村の羊は 腹に空気を詰めて立っていた。
煙の方角へ二時間歩くと、稔は粗末な石垣に囲まれた集落にたどり着いた。家は石と乾いた草で葺かれ、屋根の真ん中に煙突が一本ずつ立っていた。家の数はおおよそ二十軒。畑は柵で囲われ その中で 見覚えのない種類の麦と豆が、貧弱に育っていた。
羊の囲いがあった。
羊の数は三十頭ほどだった。どの個体も、毛の艶を完全に失い、腹だけが妙に膨らんでいた。鼓張症の典型だった。粗繊維を多く含む乾草を急に多く食べさせるか、消化器の機能そのものが低下しているか どちらかだった。だが、目の前の羊たちのそれは 後者だった。
囲いの内側で、若い娘が一人 羊の首を撫でていた。栗色の髪を後ろで一つに結び 土と汗で汚れた灰色の服を着ていた。背は稔より少し低く、体つきは細かった。
娘は稔の足音に気づいて顔を上げた。淡い茶色の目だった。怯えとも警戒ともつかない、しかし 同時にどこか諦めの混じった目で、彼女は稔を見た。
「異邦人ですか」
稔は意味が分かる、ということに まずわずかに驚いた。言葉が、聞こえると同時に、稔の中に意味として届いていた。説明のしようのない現象だった。
「分からない」と稔は答えた。「気がついたら、向こうの草原に倒れていた」
娘は数秒、稔を見つめた。それから 囲いの戸を開け、出てきた。
「リーゼル」と娘は短く名乗った。「ここは ハクの村」
「土山稔」と稔は答えた。少し迷ってから 「ミノル」とだけ繰り返した。
リーゼルはうなずいた。深く詮索する様子はなかった。彼女の関心は 稔の素性よりも、稔がここに来た瞬間に羊が一頭 首を持ち上げて稔を見たことの方にあるようだった。
「あなた、家畜が分かりますか」
「少しだけ」
「中、見てもらえますか」
理由を聞かれることもなく、稔は囲いの中に入った。
すぐ近くで見ると 羊たちの状態はさらに悪かった。蹄の角質が薄く、被毛は乾燥でぱさぱさだった。眼結膜は青白く、貧血を示していた。鉄、銅、コバルトの不足。あるいは内部寄生虫。あるいはタンパク質の絶対量の不足。
「飼料は」と稔は訊いた。「何を与えている」
リーゼルは納屋の方を指した。稔はそちらへ歩いた。
納屋の中には、稔の知らない種類の乾草が積まれていた。茎が太く、葉が少なかった。穂はほとんどついていなかった。横の樽には、薄黄色の麦と 緑がかった豆が入っていた。麦には黒い斑点がいくつか混じっていた。カビ毒の懸念があった。
稔は腰をかがめて、乾草を一握り取った。指で潰し、匂いを嗅いだ。古い草の匂いの奥に、わずかに腐敗の気配があった。
樽の中の豆も同じように指で潰した。種皮が乾燥で割れていた。胚の部分が黒く沈んでいる粒もあった。発芽率が落ちている古い種だった。家畜の餌として使うなら 加熱しなければ消化不良を起こす危険があった。
納屋の隅に 小さな籠があった。籠の中には 茶色く乾いた虫の死骸が一握り入っていた。稔はそれを取り上げた。蜂の死骸だった。羽の付け根が黄色に縁取られていた。
「これは」
「夏の終わりに 巣ごと落ちて死んだのを 拾い集めたものです。捨てるのが惜しくて」
リーゼルは恥ずかしそうに答えた。
稔は手のひらの上で その死骸を一つだけ転がした。蜂の身体には 良質の蛋白質が詰まっていた。元の世界では昆虫タンパクの研究が進んでおり 鶏や養魚の飼料に使う試みが始まっていた。捨てるのが惜しいというリーゼルの素朴な感覚は 配合屋の感覚と同じ場所から出ていた。
「これは 使えます」
稔は短く言った。リーゼルがわずかに目を見開いた。
「これだけですか」
「ええ。秋の終わりに刈った草と、麦の残り。豆は痩せ年で半分以下しか採れませんでした」
「冬の終わりまで これで足りる予定ですか」
リーゼルは答えなかった。答えられない、というのが、彼女の表情のすべてだった。
稔は納屋の隅に座り込み、手帳を開いた。
頭の中で、自動的に計算が始まっていた。羊一頭の維持要求量を仮定し 現在与えている乾草の推定TDN 推定粗蛋白質、推定可消化エネルギーを書き出した。仮にこの乾草の蛋白質が六%、TDNが四十二%として 一日に一・五キログラム与えたとして、要求の六割にしか届かない。冬を越せる数字ではなかった。
「鉱物塩はありますか」と稔は訊いた。「岩塩でも、灰でも、貝殻でも」
「岩塩ならあります。岩塩坑が南に」
「魚はとれますか。川は近いですか」
「川は近い。エビとカニなら、子供が掬ってくる」
稔は手帳に書きつけた。エビとカニの殻には、カルシウムが多く含まれる。粉砕すれば家畜のカルシウム源として十分使える。日本ではかつて配合飼料の原料として、漁業残滓を使う伝統があった。
「あの 何を書いているんですか」
リーゼルが、稔の手帳をのぞき込んできた。彼女の目は、文字を追えなかった。当然だった。稔の手帳は日本語だった。
「祈祷文ですか」と彼女は訊いた。
「いいえ」と稔は答えた。書きかけていた最後の数字を一つ丸で囲んでから、言った。「レシピです」
リーゼルが目をわずかに見開いた。それから ためらいながら 訊いた。
「羊が、立てるようになる レシピですか」
「分かりません。原料を、もう一度きちんと見せてくれれば、もしかしたら」
その瞬間、納屋の入口に 誰かが立った。
長い杖を持った、白い髪の老人だった。リーゼルの祖父だった。彼の灰色の瞳は、深く沈んでいた。
「リーゼル。馬車が来た」
リーゼルが立ち上がった。納屋の薄暗がりが、彼女の顔から色を消した。
「使者ですか」
「ああ。教会の」
老人の声には、感情がなかった。代わりに 長年の諦めが ゆっくりとした疲労として滲んでいた。
外で 馬車の車輪が止まる音と、革鎧の金属音が聞こえた。続いて よく響く高い声が 村の広場の方から飛んできた。
「神に祈らぬ者は 影に喰われる。祈らぬ村は 痩せて滅びる。これは罰だ。罰を解くには、税を払え」
リーゼルが小さく息を吸った。それは怒りでも恐怖でもなく 聞き慣れすぎた台詞を、もう一度聞いた音だった。
稔は手帳を閉じた。教会 と老人は言った。痩せて滅びる と使者は言った。
家畜痩せ病。神罰。教会。税。
この世界の枠組みが、ようやく稔の中で、いくつかの数字として並び始めた。




