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シャドープライス ―― 飼料配合士、異世界の飢えを計算する  作者: もしものべりすと


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第二章 トウモロコシの雪崩

乾いた音とともに 世界が傾いた。


稔の足下から空気が抜けた。点検通路の鉄板が一瞬浮き すぐに反対側へ落ちた。手すりを握る左手が滑った。マンホールの内側から 四百トンの黄色い粒が ゆっくりとした地響きになって動き出していた。


「土山さん!」


下で無線が叫んだ。稔は答えなかった。答える時間がなかった。トウモロコシは下の取り出し口から一気に抜け、その上の塊が雪崩のように落ちていった。点検通路の鉄板の隙間から 稔の靴の裏に、最初の一粒がぶつかった。次の瞬間、足首までが埋まった。


身体が傾いた。膝。腰。胸。


息ができなくなる前に、ポケットの手帳を胸に押し当てた。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。藍色の革表紙が 心臓の上で硬く呼吸を止めていた。


視界が黄色に染まり それから 何も見えなくなった。



稔の意識の中で 三つの記憶が流れた。


一つ目は子どものころの台所だった。父が稔の宿題のノートをめくり 計算の列を見て言った。「お前はいつも数字を並べているだけだ」。父は左官だった。手で物を作る人間だった。稔の数字は、父の手の中では何の意味も持たなかった。


二つ目は会社の入社三年目の春だった。配合設計室の先輩が、稔の最初のLP出力を見て笑った。「お前さん シャドープライスの読み方が分かってきたな」。それだけだった。誰も覚えていない一言だった。だが稔の中で、その日の昼の光は今でも消えていなかった。


三つ目は去年の正月の家族の集まりだった。義兄の黒田俊明が、テーブルの隅に置いていた稔の手帳を、自分の皿を置く場所を作るために、無言でテーブルの下に押しのけた。義兄は大学病院の外科医だった。誰にも一言も言わなかったが、稔だけが見ていた。手帳は床に落ちなかった。だが、テーブルの上にもなかった。


三つの記憶が、押し潰される身体の中で、同時に光った。


光と一緒に、稔の中の二十年分のシャドープライスの計算結果が、走馬灯のように画面を切り替えていった。新人の年の春の演習問題。三年目の冬の魚粉切り替え案。五年目の鶏卵向け配合の最低コスト解。十年目の肥育用配合の制約緩和案。十五年目の養豚向けの大豆粕代替の感度分析。それぞれの解の右の欄に、影の価格の小さな数字が並んでいた。誰にも見せたことのない数字。誰にも理解されたことのない数字。それでも稔自身が、その数字の一つ一つを覚えていた。覚えていたという事実だけが、押し潰される瞬間に、稔の中で形を取った。



次に目を覚ましたとき 空気は冷たく 稔の頬には乾いた草の感触があった。


トウモロコシの粒ではなかった。粒は身体のどこにもなかった。代わりに 見覚えのない丈の長い草が、稔の鼻先に揺れていた。


うつ伏せに倒れていた。仰向けになろうと右肩を持ち上げると、左手が硬いものを握っていた。藍色の手帳だった。表紙のコーヒーの染みが 薄い夜明けの光の中で いつもと同じ位置にあった。


身体を起こした。


そこは草原だった。地平線まで草が続いていた。背の高い、稔の知らない種類の穂が 灰色がかった緑をしていた。空は薄い紫から白へ変わるところだった。サイロも工場も 駐車場も街灯も、なかった。


三十メートル先で 痩せた牛が一頭 こちらを見ていた。


肋骨が皮膚の下に浮き上がり、毛は艶を失い、目の周りに乾いた目やにがついていた。明らかに栄養が足りていなかった。粗蛋白質 ミネラル、可消化エネルギー、どれもこれも足りない。配合設計者の目には その不足の内訳が ほとんど数字として見えた。


稔は座ったまま、しばらく動けなかった。


頭の中で、状況を整理しようとした。サイロの崩落、意識喪失、見知らぬ草原、見知らぬ牛。


夢か。


頬を強くつねった。痛かった。手帳の表紙を撫でた。染みの感触があった。コーヒーの油の少し凹んだ皺まで、いつものままだった。


身体のどこも痛くなかった。トウモロコシに埋もれたはずなのに、肋骨も腰も無事だった。粉塵に覆われていたはずの服が、いま 穀物の匂いを少しもまとっていなかった。


牛は、ゆっくりとこちらに数歩近づいてきた。立っているのが不思議なほど痩せていた。稔の手帳の中の言葉が、勝手に動いた。


可消化養分総量、推定四十二%以下。


そんなはずはなかった。生きていられない数字だった。


稔は立ち上がった。膝が震えた。手帳を胸に押し当てた。


「お前 なんでまだ立ってるんだ」


声を出したのは久しぶりだった。牛は答えなかった。当然だった。だが、その目はじっと稔を見ていた。何かを待っているような目だった。


東の地平線に、灰色の煙が一筋立っていた。家のある方角だった。稔はそちらへ向かって歩き始めた。歩きながら 手帳を開き、白紙のページに状況を書きつけ始めた。


「日付・不明。場所・不明。牛一頭、推定TDN四十二%以下。生存中」


書きながら、不意に 自分の手が震えていないことに気づいた。


二十年やってきた癖だった。状況が分からないとき まず数字を書く。数字を書けば 世界はいくらか整理される。父にも義兄にも、決して理解してもらえなかったその癖が いまここで、稔をかろうじて支えていた。


煙の方角へ 稔は歩いた。


歩きながら 稔は自分の足の感覚で 草の高さと土の硬さを測っていた。配合屋の身体に染みついた癖だった。原料の現場に立ったとき まず手で握り 鼻で嗅ぎ 目で形を確認する。それは品質管理の基礎であり 計算式を信じる前にまず物そのものを信じるという 配合屋の出発点だった。


足元の草は元の世界のどの牧草とも違っていた。葉の縁が薄く 茎が中空に近かった。乾燥地帯に強い禾本科の植物に似ていた。家畜の主食になるなら 粗繊維は多いが 蛋白質は低いはずだった。痩せた牛が立っていた理由が もう一つ説明できた。この草だけで家畜を維持できるとすれば 何かほかの補給源が この土地にあるはずだった。


稔は手帳の白紙のページに 草の特徴をスケッチした。


絵は下手だった。だが配合屋の手は 形を覚えるためだけにスケッチを書く癖を持っていた。原料を扱う仕事は 言葉で覚えるより 手で覚える方が早い。父が左官だったことを 稔は不意に思い出した。父の手は 漆喰の硬さを 数字ではなく指の腹で覚えていた。

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