第一章 サイロの底で
家畜の餌のレシピを毎日書き直す仕事を、誰かに自慢したことは一度もなかった。
土山稔は配合設計室の自分の机で、三台目のモニタに表示された感度分析の数字を見つめていた。深夜の二時を回っていた。窓の外には会社の駐車場の街灯が一つ、白く滲んでいた。フロアにはもう誰もいなかった。
机の右端には藍色の革表紙の手帳が置かれていた。表紙の右下に小さなコーヒーの染みがあった。先週の月曜の朝、自販機の前で蓋をうまく閉めなかった一回分のしくじりが、そこに丸い影を残していた。
明日の朝に納品する肉牛肥育用配合のコスト計算をやり直していた。トウモロコシの先物相場がこの一週間で四%上がっていた。代替原料に大麦と圧片小麦を入れてみる。粗蛋白質十四%、可消化エネルギー三千百キロカロリー、リジン〇・七二%。栄養スペックは満たせる。だが、いま走らせたばかりの最適化のモニタの隅に、見慣れた数字がいくつも並んでいた。
シャドープライス。
それは線形計画法の出力結果に必ずついてくる影の値段のことだった。たとえばこの肥育配合の場合、可消化エネルギーの制約をほんの十キロカロリーだけ緩めてもよいことにしたら、一トンあたりの配合コストが二百八十円下がる。逆に、リジンの下限を〇・七二%から〇・七三%に引き上げたら、一トンあたり百九十円上がる。表に見えている価格ではなく、ルールを一単位だけ曲げたときに動くはずの、影の値段。
稔はそれを毎日見ていた。新人のころ、上司に「この数字こそが配合屋の本当の戦場だ」と言われたのを覚えていた。表に出ない数字を読み取り、購買部に「もしこの原料を一%多く回せたら、月にこれだけ得します」と伝える。そういう仕事だった。
配合飼料というのは、家畜の口に入るあらゆる原料を、栄養と価格と入手性の三つの軸で組み合わせる仕事である。トウモロコシ、大豆粕、菜種粕、ふすま、米ぬか、魚粉、貝殻粉、リン酸カルシウム、塩化コリン。一つの肉牛肥育配合の中だけで、稔は二十数種類の原料を比率を変えながら配置していた。原料の市況は毎週動く。栄養要求は家畜の月齢ごとに違う。法定の最低栄養水準は国の指針で決まる。それらすべてを満たしながら、最も安い組み合わせを一トンあたり百グラム単位で求めるのが、配合屋の日常の仕事だった。
その日常の中で、稔の机の上の手帳には、いつも誰にも見せない式が書きつけられていた。新人時代から二十年、稔は会社の正規のソフトの出力を見るだけでは飽き足らず、自分の手で、補助的な式を、手帳の白紙のページに書きつける癖があった。配合屋の手が動く速さは、ソフトの計算速度より遅かったが、ソフトが出さない問いを、手は出した。「もしこの原料が来週から半値になったら」「もしこの栄養制約が一割厳しくなったら」「もしこの家畜の月齢が二週ずれたら」。手の中の問いは、画面の上の数字よりも、稔の内側で深く沈んだ。
「土山さん、いつまでこんな地味な仕事してるんすか」
昼間に新入りの若手が無邪気に言った台詞が、まだ耳の奥に残っていた。稔は何も言い返さなかった。否定もできなかった。
携帯が鳴った。倉庫の夜勤からだった。
「土山さん、第三サイロのトウモロコシ、ブリッジが固着して落ちてきません。叩いてもダメで」
ブリッジ。サイロの内側で穀物がアーチ状に固まり、その下に空洞ができる現象。粉体を扱う工場の宿命だった。下の取り出し口から原料が流れていかなくなり、無理に叩くと一気に崩落してくる。事故の温床だった。
「内部圧力は計算したか」
「いまやろうとしてるとこです。土山さん、立会いお願いできます?」
「いま行く」
電話を切り、手帳をコートのポケットに入れ、計算機と懐中電灯を持って配合設計室を出た。フロアの蛍光灯が一本切れかけて、青く点滅していた。エレベーターを使わず階段で降りた。深夜の工場の階段は、稔の足音だけを反響させた。
第三サイロの足下に着くと、夜勤の二人が困った顔で立っていた。直径十二メートルの円筒形の鋼鉄の塔が、頭の上に三十メートル分そびえていた。中には四百トンのトウモロコシが詰まっていた。
「下からの取り出し口だけ、三回試したんですけど」と夜勤が言った。
稔はサイロの側面の点検ハッチに耳を当てた。固着したブリッジが軋む音が、かすかに聞こえる気がした。手帳を開き、内部の充填率と推定される空洞の体積を書き出した。
「叩くのは中止だ。上から圧力を抜く。点検通路に上がる」
夜勤の若い方が「点検通路、自分が」と言ったが、稔は首を振った。
「俺がやる。お前は下で無線」
理由はなかった。本当はもう、若い夜勤に行かせるべきだった。だが稔の指は、もうハッチの梯子を握っていた。地味な仕事に二十年染みついた身体は、計算と現場を続けて回る癖がついていた。
梯子を上っていくと、サイロの内側に貼られた粉塵が暗く沈んでいた。点検通路の手すりに手をかけ、上部のマンホールへ向かった。風が冷たかった。藍色の手帳がポケットの中で硬く感じられた。
頭の中で、稔は感度分析の続きを走らせていた。明日の配合の、最後の一行だけ書き直せれば、コストはあと六十円下がる。たった六十円。誰にも気づかれない。誰にも褒められない。だが、それを書く仕事を、自分は二十年やってきた。
サイロのマンホールの蓋に手をかけたとき、足下で乾いた音が二回した。固着していたブリッジが、ふいに崩れる音だった。
そして、世界が傾いた。




