第四章 配合表 最初の一枚
彼が破り取った手帳の一ページは 村の運命表だった。
教会の使者は、村の広場で長々と説教を続け、それから羊の頭数を数えていた。一頭につき税が一枚。稔は遠くから見ていた。馬車には 四人の徴税兵が乗っていた。腰に短い剣を吊り 革の鎧を着ていた。
リーゼルは祖父に押されるようにして 家の裏手から稔を連れて納屋に引き返した。
「あの人たちに見られない方がいい。あなたは身分札がない」
「身分札」
「ここに住む人間には 誰にでもあるんです。教会が発行する札。それを持たない人は、影に近い人とみなされる」
「影に近い、というのは」
「夜に 消える」
リーゼルは言葉を選ばず それだけを言った。稔は何も訊き返せなかった。
納屋の薄い壁越しに 徴税兵の長靴の音が聞こえてきた。やがて、馬車の車輪が遠ざかった。村は息を吹き返したように 小さな物音を立て始めた。家の戸が開く音。井戸の桶が落ちる音。子どもの泣き声。
リーゼルは 納屋の出入口を一度確認してから、稔の前にしゃがみ込んだ。
「もう一度、訊いていいですか。あなたは本当に 家畜が分かるんですか」
稔は手帳を開いた。
「これは俺の国の言葉です。読めないと思う。けど、これがあれば、たぶん」
稔はページを一枚、慎重に破り取った。手の中で 紙が乾いた音を立てた。
裏返して、白い面を上にした。リーゼルに見えるように、彼女の前に置いた。
「あなたの言葉の 字は書けないけど 絵と数字なら通じる」
稔は、納屋の中にある原料を一つずつ描いた。乾草。麦。豆。岩塩。それから リーゼルが言ったエビとカニの殻。さらに 村の周りで採れそうなものを彼女に訊いた。木の実は。茸は。家畜が食べそうな草の余りは。
リーゼルは一つずつ答えた。答えながら 彼女の目が少しずつ変わっていった。最初は警戒、次に困惑 それから――稔がいま、自分たちのために、何かを真剣に考えてくれているのだ、という 静かな驚き。
「川エビの殻と、岩塩を、粉に挽きますか」
「うん。乾草も、粗く切って、麦と一緒に煮る。煮汁を冷ましてから、それを乾草に振りかける。塩と殻の粉を、毎日一頭につき、これくらい――」
稔は指で量を示した。
「カビが少しでも生えている麦は、絶対に使わない。捨ててください」
「もったいなくないですか」
「家畜が一頭死ぬ方が もったいない」
リーゼルは黙ってうなずいた。
稔は紙の隅に、簡単な計算を書き入れた。日本語の文字も少し混じったが、数字は世界共通だった。羊三十頭。一頭一日の必要量。一週間分の配合表。
書きながら 稔の手は二十年の習慣に従っていた。原料の頭文字を左の欄に並べる。配合比率を真ん中の列に書く。栄養スペックの達成率を右の列に書く。最下段にコスト合計を出す。それが標準の様式だった。
ここではコストは金額ではなかった。原料の入手の容易さを 五段階で表記した。岩塩は容易。エビと蟹は中程度。木の実は季節限定。茸は乾燥保存可。乾草は痩せ年で不足見込み。麦は半量。豆は三割。
そうやって書き終わると 紙の上には この村が冬を越すための具体的な行動計画が並んでいた。一日に何をどれだけ集め どれだけ処理し どれだけ与えるか。週単位で必要な量も計算した。
「ただ、これは応急処置です。本当はもっと たくさん」
「足りるなら、足ります」
リーゼルは紙を、まるで割れる物のように両手で持ち上げた。彼女は紙を見つめたまま しばらく動かなかった。
その様子を見ながら、稔の中で 奇妙な感覚が動いた。
二十年 配合表を書いてきた。納品先の養豚場や養鶏場に、千枚以上、自分の名前で出してきた。だが 誰一人として、配合表をこんなふうに受け取った人はいなかった。当然だった。あれは商品の仕様書だった。割れる物のように持ち上げるものではなかった。
「明日の朝から、やってみます」
リーゼルが言った。声に芯があった。先ほどまでの諦めはなかった。
「もし、これで羊が良くなったら、その時は ちゃんとお礼をします」
「いや、お礼は」
稔は言いかけて 口をつぐんだ。お礼はいらない と言いかけたが、それは違う気がした。自分はいま、お礼を受け取って正しい仕事をしている。
「ありがとう、と 言ってもらえれば」
そう言うのが精一杯だった。リーゼルは少し笑った。痩せた頬の奥で、小さな筋肉が動いた。
「ありがとうございます、ミノルさん」
その夜 稔は納屋の隅で、藁の上に寝かされた。羊たちの寝息が薄い壁越しに聞こえた。遠くで犬が一度だけ吠えた。空気が冷たかった。
稔は手帳を抱いて 目を閉じた。
頭の中で 線形計画法のソフトのインターフェースが、まだ動いていた。明日からは、計算機もパソコンもない。あるのは手帳と鉛筆と 自分の頭の中の式だけだった。
それで十分か、と自分に問うた。
十分だ と何かが答えた。
それは稔の声ではなかった。父の声でも 義兄の声でも 上司の声でもなかった。たぶん、二十年やってきた仕事そのものの声だった。
二十年。
その時間の長さを 稔は不意に そう自覚した。会社の机に座って 配合表を書き続けた時間。トラックで運ばれてきた原料の品質を確認した時間。試験飼育の結果を待った時間。客先の養豚場で 子豚の死亡率の数字を聞いた時間。市場の暴落で 計算をすべてやり直した時間。それらが全部 一本の細い線になって 稔の身体の中を通っていた。
その線の終端が この異世界の納屋の藁の上に 着地していた。
サイロの底で死ななかった理由を 稔はもう問わないことにした。死ななかったから ここにいる。それだけで十分だった。
明日の朝、配合表の効果が 最初の数字として返ってくる。




