第二十一章 別れ
彼女は彼を覚えていないまま 彼を見送ろうとした わけではなかった。
シャドルムが息を引き取った夜から 一週間が経った。
王宮では 連日 罷免と再編の手続きが進んだ。教会は教皇庁の直轄管理下に置かれ 影の魔法体系の運用は王立学院との合議制に移行した。畜産学院の蔵書の再収集が始まり 各地から焼け残った断片や 個人で保管していた写しが集められた。ガンナルの手元にあった図面と書簡の束が 再建の最初の柱になった。
辺境伯ガナイトはサヴェル子爵領の物資を取りまとめて 王都に運び込んだ。家畜痩せ病からの本格的な復興事業に 国家予算と地方資金の両方が投入された。稔の名は王立配合学院の初代名誉院長として 国会で正式に承認された。
そして 同じ一週間の間に 稔の中で 別のことが進行していた。
シャドルムが還流口を破壊した瞬間に 稔の左肩を掠った影。
あの影が 稔に残したものを ガンナルが分析した。
「土山。あの影は あんたの位置情報の一部を 抜いた」
ガンナルは古い書物のページをめくりながら 言った。
「位置情報」
「あんたが この世界に飛ばされてきた時に持っていた 元の世界との接続線の一部だ。あれを 影が掠ったことで 接続線の太さが半分になった」
「半分」
「あと半分の太さがあるうちに 元の世界に戻ることができる。だが いったん戻ったら 接続線は完全に消える。二度とは こちらに来られない」
「期限は」
「正確には分からん。だが 短い」
稔は手帳を握り直した。
ガンナルは続けた。
「もし戻らない選択をすれば あんたは こちらの世界で残りの人生を生きることになる。配合学院の院長として 王宮の客人として 一生 不自由はしない。私は 個人的には それを勧めたい」
「ガンナル先生」
「分かっておる。あんたの世界に あんたの暮らしがあることは 分かっておる。ただ こちらにも あんたを必要とする人々がいる」
「ええ」
「決めるのは あんただ。だが 決めるのは 早い方がいい」
ガンナルはそれだけ言って 書物を閉じ 部屋を出ていった。
稔は その日の夕方 リーゼルを王宮の庭園に連れ出した。
王宮の庭園は秋の終わりの色をしていた。林檎の木は葉を半分落とし 残った葉は赤く染まっていた。風が冷たかった。庭園の中央にある石造りのベンチに 二人で並んで座った。
「ミノルさん」
リーゼルが先に口を開いた。
「あなたが 元の世界に戻る話を ガンナル先生から聞きました」
「うん」
「いつ 戻られますか」
「決めていない」
「決めなくても 戻る というのは 決めているのですね」
リーゼルの声には 責める色がなかった。彼女は事実を確認するように 一つずつ言葉を置いていった。
「あなたの世界には ご家族がいらっしゃるのですね」
「父はもう 亡くなっている。母は 父より前に。姉が一人 いる」
「お姉さんに 会いに帰られるのですね」
「ええ」
「正月の集まりで 義理のお兄さんに 手帳を押しのけられた家族の」
「うん」
「お姉さんは あなたが帰らないと 心配なさいますね」
「心配する」
リーゼルはうなずいた。それから しばらく黙ってベンチの背もたれに身を預けた。秋の風が彼女の栗色の髪を 少しだけ動かした。彼女の左の手のひらの紋章は もう完全に銀色に戻っていた。
「ミノルさん」
「うん」
「私 一年前 ハクの村の納屋であなたに会った時 あなたが家畜の餌のレシピを書いた紙を 割れる物のように持ち上げた と お姉さんに 伝えてくださいませんか」
「うん」
「お姉さんの義理の弟さんが 自分の世界では誰にも理解されなかった仕事を 別の世界で誰かが 割れる物のように持ち上げたことが あった と お伝えください」
稔は答えなかった。代わりに リーゼルの隣で 庭園の地面を見ていた。林檎の葉が一枚 風に飛んできて 二人の足元に落ちた。
「リーゼル」
「はい」
「あなたは 私のことを 忘れた一週間の間に 何を覚えていたか 覚えていますか」
「いいえ」
「私の名前も 顔も 知らなかったあなたは 私の仕事は 知っていると言った」
「ええ」
「あれは どういう意味だったのですか」
リーゼルは ベンチの上で 自分の上着の袖口を撫でた。
「あなたを覚えていなかった私は あなたの仕事の結果を 覚えていました。ハクの村の羊が立ち直ったこと。サヴェル子爵領の市場に肉が戻ったこと。ガナイト辺境伯領の馬が太ったこと。それは 全部 私の周りで起きていた事実でした」
「うん」
「忘れていたのは あなたという人 でした。覚えていたのは あなたの仕事 でした。だから 私は 王宮の囮の役を 引き受けられたんです。あなたを覚えていない私が あなたの仕事のために動いた。それは 不思議な行動ではなく 当たり前の行動でした」
リーゼルは少し笑った。
「だって 仕事は 仕事ですから」
稔は しばらく動けなかった。
それから 自分の手帳を 開いた。表紙のコーヒーの染みのページを 開いて リーゼルに見せた。
「これは 二十年前 私が初めて 配合屋として一人前になった日の 染みです」
「コーヒーですか」
「コーヒー。私の国の 黒い飲み物。朝に飲む」
「ミノルさんの一日の 最初の風景ですね」
「ええ」
「私が もう一つ お願いをしてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたの世界に帰ったら 朝のコーヒーを飲むときに 一度だけ この染みを見てくださいませんか」
「うん」
「私のことは 忘れて構いません。私はあなたを 覚えていますから」
リーゼルはそう言って 立ち上がった。彼女は稔に右手を差し出した。
稔は その手を握った。
それは 抱擁ではなかった。林檎の木の下で 二人は握手だけを交わした。リーゼルの掌は冷たかったが 中の血管は確かに脈打っていた。
「ありがとう ございました ミノルさん」
「いえ。こちらこそ」
「お元気で」
「あなたも」
リーゼルは手を離した。
それから 庭園を 一人で先に出ていった。彼女は振り返らなかった。彼女が振り返らなかったのは 振り返ったら 何かが崩れることを 知っていたからだった。
稔は ベンチに残った。
手帳を膝の上に開いて しばらく動かなかった。
風が冷たくなって 林檎の葉が もう何枚か 落ちてきた。
夕方が暮れていった。
翌日 稔は王宮の正殿で 別れの儀式に立ち会った。
国王ヘルゼン三世が稔に 国家最高位の勲章を授けた。王太子レナードと辺境伯ガナイトが それぞれ自分の領地から 稔への贈り物を捧げた。学者たち 商人たち 騎士たち 全員が稔の前で短い別れの言葉を述べた。
辺境伯ガナイトが 最後に稔の前に立った。彼は太い指で 稔の肩を一度だけ叩いた。
「賢者殿。あんたの計算は 国を救った」
「いえ」
「いや。救ったのは あんただ」
辺境伯は そこで一度 顎髭を撫でた。
「私から最後に 一言だけ言わせてくれ」
「どうぞ」
「あんたの仕事は 地味だ。家畜の餌のレシピは 誰の目にも触れない。誰にも理解されない」
「ええ」
「だが 地味な仕事ほど 世界を支えている。私の領内では 国境の砦の煮炊きを担当している兵が 一番偉い兵だ。誰にも見えない仕事だが 砦の中の全員の命を 毎日支えている」
「はい」
「あんたは その兵と同じ系列の仕事をしている。あんたが あんたの世界に戻っても その仕事は 続けてくれ。私はあんたの仕事の意味を 教えてもらった人間として あんたが二十年後も 同じ仕事を続けていることを 願う」
辺境伯はそう言って 一礼した。
それは 稔の父が 病院の窓辺で言いたかったかも知れない一言を 別の人間が 別の世界で 言い直してくれた瞬間だった。
稔の目の奥に 何かが熱く溜まった。だが 涙にはしなかった。代わりに 稔は手帳を ポケットの中で握り直した。
「ありがとうございます」
稔は短く答えた。
それしか言えなかった。
辺境伯は 二歩 下がってから もう一言だけ 付け加えた。
「賢者殿。あんたが戻る世界には あんたの仕事を 軽く扱う人がまだいるかも知れん」
「ええ」
「その人に 一度だけ こう言ってくれ」
「何を」
「あんたの計算は 別の世界で 国を救った と。それだけでいい。信じてもらえなくていい。言うだけでいい」
「言うだけ」
「ええ。信じない相手に 信じてくれと頼むのは 配合屋の仕事ではない。配合屋の仕事は 正しい数字を 一度 提出することだ。受け取るかどうかは 相手の側の問題だ。それは あんたの方が よく知っているだろう」
稔は うなずいた。
「ええ」
辺境伯は そう言って 立ち去った。彼の太い背中が 正殿の出口へ向かって ゆっくり進んでいった。彼が出口で一度振り返り 稔に向かって 太い手のひらを軽く挙げた。それは挨拶ではなく 配合屋の二十年に対する敬礼だった。
その夜 ガンナルが稔の部屋に来て 元の世界への接続を起動する手順を 説明した。手順は単純だった。教会本部の地下の祭壇の中央に立ち 持ち物に意識を集中させ ガンナルが詠唱を行う。それだけだった。
稔はその夜 一人で迎賓館の自室に戻った。
机の上に手帳を置いた。
二十年分の数字が 革表紙の中に詰まっていた。コーヒーの染みも そこにあった。
明日の朝 ガンナルと数人の仲間が地下に集まる。リーゼルはその場に来ない約束だった。彼女は前の日に既に 自分の村に戻ると決めていた。
稔は机に向かって 手帳を 一晩中 読み返した。
ハクの村の最初の配合表。サヴェルの羽根の蒸し釜。ガナイトの蛋白源の組み合わせ。王宮の感度分析。シャドルムの代償の累積式。
全てのページが この一週間で 書き終わっていた。
夜半 部屋の戸が小さく叩かれた。稔が開けると リーゼルが立っていた。彼女は既に旅装に着替えていた。明け方の馬車でハクの村へ向かう支度だった。
「ミノルさん」
「うん」
「これを 持っていってください」
リーゼルは 布に包まれた小さなものを差し出した。稔は受け取って 布を開いた。中には 乾燥した茸が三枚と 黒い実が一握り 入っていた。
それは 一年前 リーゼルが稔に最初に差し出した贈り物と 同じ中身だった。
「同じ品ですか」
「ええ。私の畑の もので作り直しました」
「ありがとう」
「もう一つ あります」
リーゼルは ポケットから細い銀の鎖を取り出した。鎖の先に 小さな粒のような飾りがついていた。よく見ると 川エビの殻だった。乾燥して銀色に焼かれていた。
「お守りです」
「殻の」
「ええ。最初に羊たちを救ったのは このカルシウムでした。私たちの始まりの石です」
稔は その鎖を受け取った。鎖の冷たさが 指先に伝わった。彼はそれを 手帳の挟みに入れた。
「ありがとう リーゼル」
「お元気で」
「あなたも」
リーゼルは 深く一礼して 廊下を戻っていった。彼女の足音が 階段の方へ消えていった。
稔は戸を閉めた。
机の上の手帳の挟みの中で 銀の鎖が 小さく音を立てた。




