第二十章 クライマックス 義兄の顔をした男
彼は数字を盾にして 自分を見下す男の前に立った。
教会本部から地上の正殿へ向かう階段は 七十二段あった。
シャドルムはアルフリートとエルマンに脇を掴まれたまま 一段ずつ上がっていった。彼はもう抵抗の素振りを見せなかった。地下の還流口を塞がれた瞬間から 彼の身体は 内側から痩せていった。十二年で蓄積した影の自重に 彼自身が押し潰されつつあった。
稔とリーゼルとガンナルとベルガが その後ろを上がった。リーゼルは自分の足で歩いていた。地下で銀色の光を使いきった彼女は 一時的に虚脱していたが 階段の途中で立ち直り 稔の隣を上がった。
正殿は王宮の中心にあった。深夜だったにも関わらず 殿内には灯りが灯され 玉座の前に 国王ヘルゼン三世と王太子レナードが立っていた。辺境伯ガナイトもいた。玉座の周りには 王立学院の高位の学者三人と 国会議員代表七人が並んでいた。
ガンナルが地上で連絡を行った成果が この陣容だった。
シャドルムがアルフリートとエルマンに導かれて 玉座の前の絨毯の上に降ろされた。彼は両膝をついた。彼の赤い僧衣が 床の上で皺になった。
「賢者殿」
国王ヘルゼン三世が稔に向かって声をかけた。
「報告通り 教会本部の地下に 影の還流装置があったことを確認しましたか」
「確認しました」
「シャドルム枢機卿が それを長年運用していたことも 確認しましたか」
「確認しました」
「シャドルム枢機卿。あなたの弁明を 聞きたい」
王の声は静かだった。シャドルムは膝をついたまま 顔を上げなかった。
「弁明はありません 陛下」
シャドルムの声は 地下の最初の時よりも更に低くなっていた。
「私は 十二年前 王立畜産学院の解散を主導しました。蔵書を焼き 教師を異端審問にかけました。家畜痩せ病を神罰として 公式の見解にしました。すべて 教会の影の魔法体系を 自分の手中に置くための行いでした」
正殿の中で 数人が息を呑んだ。
「異邦の賢者は 私の体系の最大の脅威でした。彼の配合表は 私が独占してきた計算法を 民間に開放するものでした。私は彼を異端として処分しようとしました。彼の協力者の聖獣使いに 影の代償を負わせ 彼の手帳の写しを盗み出し 燃やしました」
シャドルムの言葉は 自白だった。
「あなたは なぜ 今 自白しているのですか」
王太子レナードが訊いた。
「賢者殿の計算が 私の影の支払い能力を 既に超えたからです」
シャドルムは初めて顔を上げた。彼の目は痩せた頬の奥で 暗く沈んでいた。だが その目は 義兄の目だった。冷たく 上から見下ろす 義兄の目だった。
稔は前に出た。
「シャドルム枢機卿」
稔は呼びかけた。
「あなたが 十二年で支払ってきた影の代償の総量を 私の計算で算出しました」
稔は手帳のページを開いた。
「あなたの影の総量は ここに記録した数式から推算すると 既に 七万三千二百単位を超えています」
「七万 三千 二百」
シャドルムが繰り返した。
「これは あなた自身の寿命を約四十年分 差し引いた数字です」
稔の声は震えなかった。
「あなたは 既に過去十二年で 四十年分の寿命を 影の代償として 自分自身から差し引いた。それは あなたの中で 十二年で老いるはずの身体が 五十二年分 老いている という意味です」
シャドルムは答えなかった。
「だから あなたは 痩せている。だから あなたは 還流口がなくなった瞬間に 内側から崩れた。あなたが今夜 ここで膝をついている理由は 私の計算が正しかったから ではなく あなた自身が 自分の体に蓄積させてきた代償が 今夜 内側から噴出しているからです」
稔は手帳のページを 一枚 また一枚と めくった。
「私はあなたを 倒すつもりはありません」
稔の声は静かになった。
「あなたを倒すための式は ここに書いた。だが 書いた瞬間に 私は気づきました。あなたを倒さなくても あなたは 今夜 終わる。終わるべき時刻が 既に来ている」
シャドルムは目を伏せた。
「あなたが私に 言いたいことはありますか」
稔は最後に そう訊いた。
シャドルムは しばらく沈黙していた。
それから 顔を上げた。
「賢者殿。あなたの顔は どこかで見たような気がする と 最初に申し上げました」
「ええ」
「私もです」
「私はあなたを 何度も小さく傷つけてきた人に 似ています」
「ええ」
「その人は 私の世界の 義理の兄です」
「義理の」
「正月の集まりで 私の手帳を 自分の皿の場所を作るために テーブルの下に押しのけた」
シャドルムは少し笑った。
「賢者殿。それは 私の世界では 別の罪です」
「ええ」
「私はあなたの仕事を 軽く扱いました。あなたの計算を 教会の聖務の流用と判じました。あなたを 異端と呼びました。あなたの最も近くにいた人から 記憶を奪いました。あなたの手帳の予備を 燃やしました」
「ええ」
「最後に 私は あなたに 何かを訊きたい」
「どうぞ」
シャドルムは 痩せた手のひらを 床について 顔を上げた。
「賢者殿。あなたは 二十年間 誰の役にも立たない仕事と 笑われてきた と聞きました」
「ええ」
「その仕事は あなたを 何度も傷つけてきたはずだ」
「ええ」
「なぜ あなたは その仕事を 続けたのですか」
稔は手帳を 一度 閉じた。
「数字は」
稔は答えた。
「誰かを救う前に まず 私を 信じてくれていたからです」
「私を 信じる」
「ええ。父にも 義兄にも 同僚にも 認められなかった私の仕事を 数字だけは 計算した分だけ 答えを返してくれた。間違えれば間違いだ と 正しく答えた。正しければ 正しいと 答えた。それは 一日も裏切らなかった」
シャドルムは 静かにうなずいた。
「美しい答えですね」
「あなたが最初に 美しい と言ったことです」
「ええ。覚えています」
シャドルムは目を閉じた。
「賢者殿。私は あなたの世界の あなたの義理の兄では ありません。だが もしこの会話が あなたの義理の兄に 一片でも届くなら 私は それでも構わない」
「届くとは思いません」
「届かなくても 構わない 私には」
シャドルムは深く息を吸った。
それから 最後の質問を 一つだけ口にした。
「賢者殿。あなたは 私の最後に 何を 思いますか」
稔は しばらく考えた。
考えながら 二十年前の正月の夜のことを 思い出していた。義兄が手帳をテーブルの下に押しのけた夜。あの夜の稔は 何かを言いたかったが 言わなかった。代わりに 黙って自分の席に戻り 翌朝には何事もなかったように 仕事に出かけた。
その時 稔の中で 何かが言われずに 沈んでいた。
今夜 シャドルムの目の前で 稔は その何かを 言えるかどうか。
「私は」
稔は声を出した。
「あなたを 哀れに思います」
「哀れに」
「ええ。あなたの式は 私の式と同じです。あなたも本来は 配合屋になれたはずの人です。だが あなたは 教会の聖務として 式を独占した。それで十二年 民の腹を満たすために使えるはずの式が 一人の懐の中で眠ってきた。あなた自身も その間 自分の式を 自分の腹を満たすためにしか 使えなかった」
「ええ」
「あなたが哀れなのは 死ぬからではない。あなたの式が 二十数年で 一度も 民を救うために使われなかったからです」
シャドルムは目を閉じたまま 微かに笑った。
「賢者殿。あなたは 礼儀正しい人だ」
「礼儀の問題ではありません」
「ええ。哀れの問題でしょう。礼儀正しい人だけが 相手を哀れと言える」
シャドルムは そこで完全に 目を閉じた。
「ありがとう」
それが シャドルムの最後の言葉だった。
シャドルムは そのまま 動かなくなった。
呼吸は していなかった。
正殿の中で 誰も動かなかった。
王太子レナードが 最初に口を開いた。
「シャドルム枢機卿の罷免を 国会に提案する。罷免は遡及で 十二年前まで適用する。畜産学院の解散を無効とし 学院の蔵書の再収集を国家事業として開始する。家畜痩せ病を神罰とした公式見解は 撤回する」
国会議員代表七人が 同時にうなずいた。学者三人も同意した。
国王ヘルゼン三世は 玉座の手すりを軽く叩いた。
「賢者殿。あなたの功績は 計り知れない。あなたが望むものを 国家として 何でも提供する」
稔は王に短く一礼してから 答えた。
「私が望むのは 一つだけです」
「申してみよ」
「リーゼルの記憶を 取り戻したい」
正殿の中で リーゼルが顔を上げた。彼女は驚いた目で 稔を見た。
ガンナルが前に出た。
「陛下。賢者殿の願いを叶える手段は ございます。シャドルム枢機卿が罷免された今 教会の影の魔法体系は 教皇庁の管理下で 再構築されます。再構築の最初の手続きとして リーゼル殿の代償を 教会が肩代わりすることが できます」
国王はうなずいた。
「直ちに 行え」
ガンナルがリーゼルの肩に手を置いた。彼女の左の手のひらの紋章が 内側から銀色に変わった。紋章の縁の黒が 引いていった。リーゼルは自分の手のひらを じっと見た。
そして 顔を上げた。
「ミノルさん」
リーゼルの声が 一年前の納屋の朝の声に 戻っていた。
「ええ」
稔は答えた。それしか答えられなかった。
リーゼルは 稔に向かって 一歩 歩いた。
それから 彼女の目から 涙が一筋 流れた。
「ありがとうございます」
「いや」
「ありがとうございます ミノルさん」
リーゼルは そう言って 笑った。痩せた頬の奥で 小さな筋肉が動いた。ハクの村の納屋の朝と 同じ笑い方だった。
稔は手帳の表紙を 一度だけ撫でた。
コーヒーの染みは そこに あった。
二十年前の月曜の朝の染み。
それは 今夜 一つの世界を救うための式の 出発点だった と 稔は思った。
サイロの底で死ななかった理由が ようやく 完全に分かった気がした。




